石川一雄さんを追悼する
和歌山県議会議員 藤本 眞利子(広範な国民連合全国世話人)
石川一雄さんが亡くなられました。
ご存じない方もおられると思います。1963年5月に埼玉県狭山市で発生した女子高生が殺害された狭山事件で犯人として逮捕され、無期懲役刑に服した石川一雄さんです。
私がこの事件を知ったのは「橋のない川」という映画を見て、はじめて部落差別の存在を知り、差別に憤り、こんなことは許していてはいけないと心から思った高校生の頃でした。
仲間と一緒に部落差別をなくす活動を始め、石川さんが無実を訴えていると知ったのでした。
狭山事件は63年5月1日に学校帰りの女子高生が行方不明となり、身代金を要求する脅迫状が届けられたという事件です。5月2日身代金を取りに現れた犯人を警察は取り逃がし、その二日後の4日には女子高生が遺体で発見されたのです。
捜査に行き詰まった警察は、付近の被差別部落に集中的な見込み捜査を行い、5月23日に石川一雄さんを別件逮捕し、1カ月にわたる留置場での取り調べ、脅迫や甘言、誘導によって噓の自白をさせ、犯人にでっち上げたものです。
62年間、無実を訴え
続けた石川さん
石川さんは獄中から無実を叫び続け、94年に仮出獄して以降も全国各地を駆け巡り無実を訴え、再審開始への支援を呼び掛けてきました。石川さんが3度目の再審=裁判のやり直しを求めているさなかの死でありました。86歳でした。
逮捕された時が24歳。62年もの間、見えない手錠に縛られていたことを思えば、その無念さは言い尽くすことのできないものであったと思います。
第3次請求は石川さんが死去したため3月17日付で打ち切りとなりました。しかし、残された妻、早智子さんが、「何としても夫の無念を晴らしたい。証人尋問を行って再審を開始していただきたい」と4月4日付で4度目の再審請求を東京高等裁判所に申し立てを行ったと明かしました。
早智子さんは、「亡くなるまで保護司の観察は解けず、選挙権はなく、人としての権利を奪われたままだった」と弔辞で述べています。
無実の罪で刑に服し、再審の道も閉ざされたまま、人としての尊厳を奪われ続けた石川さんを悼み、私たちはその尊厳を取り戻すためにもこの闘いを引き継いでいかなければならないと決意しています。
和歌山県議会では、袴田事件の教訓と二度と冤罪を起こさせてはならないという決意のもと、刑事訴訟法の再審規定の改正を求める意見書を人権・少子高齢化問題等対策特別委員会から提出し、全会一致で可決しました。
その中では、再審請求手続きにおいて捜査機関が保管する証拠を開示すること、再審開始決定に対する検察官の不服申し立てに制限を加えることを強く要望しました。
本当に長い時間が過ぎました。石川さんが再審を訴え続け、その願いがかなえられることなく亡くなったことの無念さは言い表すことはできません。
私たちは二度と冤罪を生むことの社会をめざし、部落差別がなくなるその良き日まで闘っていこうと決意し、報告とします。