副知事退任に際して

沖縄の新しいステージとの巡り合わせだった

前沖縄県副知事 照屋 義実

県民大会で
翁長さんと出会う

 当時の那覇市長で沖縄県市長会の会長をしていた翁長雄志さんとの出会いと交流がなければ今の私はなかったと言っていいほど、巡り合わせの不思議さというのがあります。
 翁長さんとの出会いは2012年です。その年にオスプレイが配備されるという情報が伝わってきました。県の政界も経済界も県民も配備には絶対反対です。自民党から共産党まで全政党が反対という流れができました。
 9月9日にオスプレイ配備反対の県民総決起大会を宜野湾市で開催したんですが、県民大会としては最大規模の10万1000人が参加しました。私は経済界代表として共同代表になり、その県民大会の準備段階から翁長さんとご一緒したんですね。県民大会には労働組合団体、女性団体もみんな一緒です。私にとってそういったところとの連携交流は初めてでした。
 その後、大会の翌月10月にはオスプレイ12機が、13年には12機が追加配備されました。県民の声がまったく伝わっていない、これは許されない。それでオスプレイ配備反対、辺野古の新基地建設反対、普天間基地撤去、地位協定の改定、この4つを建白書にして1月27日に上京し、28日に翁長雄志共同代表が官邸で安倍晋三総理に渡しました。27日には日比谷公園野外音楽堂に4000人が集まって集会を開き銀座までデモをしました。
 そのときの歩道からのヘイト攻撃はひどかったですね。今まで聞いたことがないような「売国奴帰れ」みたいな。参加者が皆それぞれ怒りを覚えながら帰ったんですね。

オール沖縄で翁長知事誕生

 13年の暮れには仲井真知事が公約を破って、辺野古移設承認に踏み切った。仲井真知事は許せないということで、そこから本格的に「オール沖縄」という動きになるわけですね。翁長さんは慎重に態度を保留しながら14年の8月ごろ、やっと重い腰上げて「県知事選、立ちます」という宣言をしました。それから怒濤のように、わずか3~4カ月の準備で仲井真氏に10万票の大差をつけて勝った。
 翁長さんが知事に就任してから、「県の政策参与を引き受けてほしい」という話がありました。私は県商工会連合会会長をやっているのでご期待に沿えないと言ったら、「それとは関係なしに考えているので、会長をやめたら声をかけてください。待っています」と言われました。それで15年5月の総会で会長職を降り6月にかけて関連団体の役職もすべて外れたので、8月から政策参与を引き受けたわけです。

会社経営者から副知事に

 副知事については、2021年にデニー知事から声がかかったときには、会社(建設業の照正組会長)のバトンタッチも大体済んでいましたので、断る理由はないなと思って、女房とも相談して引き受けることにしたんですね。その頃の県議会は多数与党でしたが、同意を得たときは1票差で、薄氷を踏むような承認でした。
 とにかく私にとっては慣れない行政ですからね。組織文化が違う。企業経営というのはワンマンですよ、特に中小企業は。ところが副知事は上に知事がいますからね。部局は十いくつもあって大組織です。それを副知事二人で分担するんですが、土木部と生活福祉関係は業界と利害相反関係になるので外してもらいました。
 今の県議会は少数与党です。私の後継については与党も賛成する人ということで、琉大の前学長を推薦しました。これは経験が生きたと言ってもいいかもしれません。

コロナ、災害対応に
追われる

 副知事の仕事を振り返ると、ひとつは災害対応に追われた4年間だったといえます。首里城火災、コロナ、南太平洋から軽石の来襲、昨年11月の北部集中豪雨、毎年のように台風もありました。災害が次から次に襲いかかってくる。そのたびに安全対策本部として毎日のように会議がありました。
 とりわけコロナ禍の3年間、みんなマスクをつけての出勤です。いろんな業界から陳情もあいついで、中には非常に荒っぽい言葉で非難・批判を投げつけられるということも何度もありました。
 生活福祉部長から「私は11時半前に家に帰ったことはこの半年に一度もありません」と言われたことが、非常に印象に残っています。関係する保健医療部の皆さん、ドクター含め新しく作り上げたシステムの下で夜を日に継いで対応しました。そのことは厚生労働省からも「沖縄県の仕組みは素晴らしい」と高い評価をいただきましたね。パンデミックが去る頃は本当にやれやれで、ほっとしました。
 そのほか現実的な対応としては辺野古の問題とか、米軍がらみの犯罪対応というのもありました。
 お客さんも次々来られますので、もう息つく暇もない。多いときは1日の予定が22件もあったんで、思わず「俺を殺すつもりか」と言いましたね。
 その間にデニー知事は復帰50周年の新たな建議書を半年かけてつくりました。情勢が50年間でどう変わったか、われわれに突きつけられている課題が何かということを逐一整理していった。あれは今後も県政の指針として十分に使えると思っております。
 災害対応を縦軸とすれば、横軸は平和の取り組みでした。

東アジアの連帯を学ぶ

 私自身の経験で言えば、平和への願いを込めた鎮魂、祈りの仕事です。23年6月に韓国・済州での「平和フォーラム」に参加し、そこで1948年4月3日の虐殺(4・3事件)を知りました。アメリカをバックにした李承晩政権が2~3万人の住民を殺した。しかもいまだに遺骨収集が行われていない。沖縄と似ているという意味で、もっと連帯していかなきゃいけないと思いましたね。
 台湾では150年前に牡丹社事件があり、宮古の漁民が殺されたことをきっかけにして、日本は台湾に乗り込み植民地にしていった。その牡丹郷にも行きました。そこにはりっぱな琉球人墓があって、牡丹郷の人たちがしっかり墓守してくれているんですね。牡丹社事件の加害者と被害者の和解の象徴として「愛と和平の石像」が牡丹郷から宮古島に贈られています。このことは歴史的にも大事にしたいですね。
 要するにアジアに琉球という国があって、われわれの先祖がひどい目にあったというようなことからしますと、台湾も韓国も同じなんです。もちろん中国も。日本が満州国をつくり侵略したんですから。
 この東アジアの歴史を掘り下げていかずして、沖縄だけ平和を唱えても、これは到底かなわないことです。東アジアの国々としっかり連帯していかなきゃいけないことを学ばせていただきました。これは私にとって大きな収穫です。
 それから世界のウチナーンチュ大会もありました。これだけのイベントができる県は沖縄だけだと思うんですね。大変苦しい環境の中で開拓し先鞭をつけた人たちのデザイン力ですね。先人が後世への縁を託した祈りの旅だったということでしょう。これが基礎になって、今の沖縄の地域外交につながっていると思います。
 沖縄は新しいステージを迎えて新しい方針を打ち出している。そういう巡り合わせの時に副知事を仰せつかった。大きな意義のある仕事を仰せつかった4年間だったなと思っています。ありがとうございました。

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