核兵器が最後の一個まで廃棄されるまで叫び続ける
歓喜の先に ノーベル平和賞授賞の報に
長崎被爆者 本村 チヨ子
過日10月13日夕刻6時過ぎ、それまで漫然とテレビをつけていた時ニュース速報が流れた。ノーベル平和賞「日本被団協」受賞と。一瞬目を疑ったが間を置かず固定電話・携帯電話が鳴った。友人や知人からのオメデトー・コールであった。
思えば長い道程であった。2008年から09年にかけ被爆者としてピースボートの「被爆者百人乗船」のプロジェクトに参加し地球一周をして始まった。それから今日まで原爆の実相を知る者として、いろいろと国内外で「平和・核兵器廃絶」を訴え原爆放射能が人体に及ぼす影響など繰り返し繰り返して訴えてきた。17年にNGOのICANに同じく平和賞が贈られた時、世界に向け喜びのメッセージを発信したカナダ在住のサーロー節子さんも、一被爆者として参加しており、訪れた国々で平和の目的を訴えてきた同期であった。
私は、6歳の時、原爆落下中心地より4㎞離れた長崎市の自宅で被爆した。居合わせた祖母の庇護により難を逃れ少しのかすり傷で済んだが、怪我をした祖母は翌年の3月に亡くなった。あの日から80年近く常に持ち歩く「被爆者手帳」に昭和三十三年九月取得と記されている。
〇何という幼さだろう一年生原爆に遭った一瞬の惨
〇原爆の閃光浴びたあの時の火傷のあとは今もみせない
〇傷に塩塗るがに語る幼き日あの日に見たる原爆のこと
〇燔祭の子羊となり八十年 のこりの命被爆語らん
〇此の世という仮の棲いの長ければ咎あるごとき一生被爆者
ヒロシマ・ナガサキ、全ての被爆者に
ノーベル賞授賞式は北欧ノルウェーで12月に行われる。2017年当時NGOのメンバーと長崎の被爆者としてツアーに参加した5人の中に私も娘も加わった。厳寒の地でノーベル平和賞授賞式をパブリックビューイングの最前列で見つめ感激に涙したことが昨日のことのように想い出される。ICANの受賞は地球規模という感じを強くしたが、今回の受賞はノーベル賞委員会もはっきり「日本被団協」と日本語で祝福、ヒロシマ・ナガサキと仰せられた。そして地道に平和を希求されてきた年月に触れ、全ての被爆者への敬意も含む授賞理由を述べた。
わが国ではこのことに先だち10月9日就任されたばかりの石破茂総理は、衆議院解散を宣言し、10月27日には早くも新しい衆議院議員を選ぶべく全国投票が行われる。そのことに先だちある新聞社からインタビューを受けた。石破総理が決まったことへの世論調査のようなものだったが「被爆者として今後の考えを」とのことであった。私はかねがね石破氏のゆっくりとした穏やかな語り口には好感を持っていたが、どこか冷たい視線の動きにはヒヤッとするものも感じていた。加えてアジア版NATOを強く推し進めるような言動も被爆者として敏感に反応するものがある。日本の平和は近隣国のきな臭い動きにもかかわらず辛うじて保たれてきた。そして私は世の中が平成から令和に変わるとき当時の天皇のお言葉「平成の日本は戦のない時代であった」とグッと言葉に詰まられた表情に深い感銘を受けたものである。
これからの日本は新しい政治に託されるが、これまでもこれからも非核三原則と憲法9条を守る国であってほしい。被爆者として戦争を憎み核兵器が最後の一個まで廃棄されるまで残された命で叫びつづけるだろう。