今も続く被爆の痛み
一刻も早い政治解決を望む
全国被爆二世団体連絡協議会・特別顧問 平野 伸人
不合理な被爆地の決め方
「被爆体験者」問題がどういうものかということを簡単にお話しします。長崎の被爆地は細長いんですね。放射線の影響とか関係なく、昔の長崎市(地図のピンク色)であったところが被爆地にまず指定されました。その後、西彼杵郡の2地域(地図の青色)が長崎市に入ったりし、多少の是正はされたんですけれども。このように行政区域によって被爆地域が決められたことがそもそも不合理であり、問題の根本はここにあります。
行政は昔、「被爆体験者」がいる地域は山によって遮られていたとか言ってたんです。ところがこの山の高さは300mそこそこなんです。原爆は500mのところで爆発しているから山は全然関係ないんです。昔の原爆資料館には「長崎は東西に山があって」という記述がありましたが、さすがに今はありません。ですから「被爆体験者」の地域(黄色)の人たちが、「同じ距離にあるのに何で自分たちは被爆者とならないのか」と言われるのは当然のことなんですね。
こうした人たちの声を受けて国は「被爆者ではないけど多少の援護をしよう」という、へんてこりんな制度をつくったわけです。これを「被爆体験者」支援事業といいます。
被爆者援護法では被爆者に被爆者健康手帳が交付され、医療費は全額補償されるなど、いろんな面で手当もあります。ところが「被爆体験者」事業は単年度事業で1年ごとに予算をつけますから、いつ打ち切られるかわからないうえに、医療費の一部だけを補助するような制度です。援護法とはものすごく大きな差があります。
なぜ全員を認めないのか
被爆者認定を求めた第二次被爆体験者訴訟の判決が9月9日に出されました。第一次訴訟は最高裁まで行ったんですけど、線量のうんぬんということで、完全に負けました。しかし納得がいかないので、そのうちの44人が再度提訴して、9日の判決になったわけです。
判決では15人が被爆者と認められました。それは矢上村、古賀村、それから戸石村の人たちです。その他の地域で被爆した29人は被爆者と認められませんでした。原告団長の岩永千代子さんも認められていませんが、それが問題ではなくて、何で全員が認められなかったのか、摩訶不思議な判決です。
私は「勝利判決」という垂れ幕を準備していたんですね。弁護士さんは「負ける要素がないからこれだけでいい」と言われるんですよ。だけど、裁判はどういうことがあるかわからないので「不当判決」いうのも作っておりました。当日の朝、ひょっとしたら「一部勝訴」があるかもしれないと思って、急遽作ったんですよ。これは私の勘としか言いようがないんだけど、そしたらこれを使うことになった。「勝利判決」じゃなかったことに、弁護士さんも私も本当に驚きました。
認定された人のいた地域には黒い雨が降ったという証言がありますので、2021年の広島高裁判決で「国の指定区域外でも黒い雨による健康被害が否定できなければ被爆者と認定する」との判断に倣ったものと思われます。
しかし長崎は広島のように黒い雨がたくさん降っていないんですよ。それは簡単に言えば、投下時刻の差ではないかといわれています。広島は8時で長崎は11時ですから。でも放射性の降下物というか灰がいっぱい降っているんですよ。灰で絵を描いたとか、灰が散らばった水を飲んだとかの証言があります。そういうことには一切触れないで、雨が降ったかどうかだけを基準にした判決なんです。
長崎市や県は
国に忖度するな
従来の被爆地を飛び出て被爆者と認められた人は過去にいませんので、15人が認められたことは画期的です。ところが距離的に同じ条件でありながら、切り捨てられた人が29人もいるわけなんです。非常にねじれた判決です。だから評価できる一方、不満が残る判決であったと言わざるを得ません。
この裁判は県と市が被告です。だから県と市がこの判決を受けて控訴しないのがベストなシナリオなんですけど、そうはいかないんですね。県も市も国の言いなりというか、忖度の部分が非常に多い。われわれは翌日、県や市に申し入れをしましたが、いつもと言うことは同じなんですよ。「国に申し伝えます」とこればっかりなんですよ。
「被告のあなたたちが決断すれば15人に手帳を交付できるんじゃないか。この15人をテコにしてみんなに被爆者手帳が行き渡るように運動すればいいじゃないか」と言っても「国に働き掛けます」と。市長とか県知事が上京して国にどんなふうに言ったか知らないけど、「国には言いました」で終わっちゃうんですよね。ところが国は絶対認めない。この国の壁を突き破るというのは本当にものすごい労力がいるんですね。
非常に情けない話なんですが、それが現実です。県や市が県民・市民の味方であれば、国に忖度をしないでこの問題を解決すべきです。「被爆体験者は被爆者だ」という単純なことなんです。県や市はできるにもかかわらず、やらないんですよ。今後の対応ですが、控訴するかどうか今はお互いに見合っているところですね。
岸田首相が解決を
約束したが…
判決に先立つ8月9日の平和祈念式典のとき、岸田首相が初めて被爆体験者と会いました。被爆者団体の方々が被爆体験者も首相との面会に入れるのが当然じゃないかということで、4団体との面会に被爆体験者の方々も参加したんですね。
原告団長の岩永千代子さんが被爆体験者の問題を切々とお話しになりました。私は平和センター被爆連の副議長をしているので、その立場で傍聴みたいな形で参加したわけなんですよ。面会時間は30分ですから、あっという間に終わるんです。司会者がこれで終わりますと言おうとしたタイミングで記者さんたちは帰ろうとしたので、私は思わず立ち上がって「総理、被爆体験者は被爆者じゃないんですか? どう考えても被爆者じゃないですか。助けてください」というふうなことを申し上げたんですよ。
そしたら、ものすごいんですよ。10人ぐらいのSPとか市の職員が駆け寄って、私を取り囲んで見えないようにするんです。岸田さんとは彼が外務大臣のときに高校生の運動を通して面識がありました。私のこと知ってるもんだから近寄ってきて、「今、厚労大臣に合理的な解決を図るように指示しました。しっかり取り組みます」ということを言われて、私に握手を求められたんです。その後、厚労大臣と1時間ぐらい話し合いました。これが全国ニュースになり、いろんなところからの反響も大きく、少し事態を動かす契機になったように思っているところです。
ところが岸田首相は5日後の8月14日に退陣すると発表したんですよ。あぁーと思いましたね。はしごを外されたとも言えるし、行政の継続性からいって言葉を残したとも言えますが。何はともあれ、一国の首相が約束したことですから、これは一刻も早く、絶対に守ってもらわなければなりません。
わずかな体験者事業の手直しで済まそうとするのが今までの例だから、それではいけません。根本的な解決を図りなさいというのがわれわれの主張です。
四つの被爆者運動に
かかわって
私は1946年生まれの被爆二世で、母親、姉、祖母も被爆者です。父親は当時旧満州におりまして、隊長から「いよいよこの戦争は負ける」と言われて、釜山まで歩いて逃げてきたそうです。長崎に帰ってきたのは9月なので被爆を免れています。
被爆40年の1985年、私は学校の教員でしたが、被爆者運動の次を担うのは被爆二世じゃないかという社会的な機運が起こり、被爆二世の会をつくったんですね。私が最年長だったから、何となく会長ということになりました。その運動をやってるうちに、韓国にも被爆者がいることを知りました。大阪の被爆者、被爆二世の団体が韓国と交流をしていたんですね。
それで誘われてソウルに行きました。そこにすごい数の被爆者、被爆二世がいました。私が「同じ核の被害者だから協力して核をなくす運動をやりましょう」とあいさつしたら、韓国の人たちからものすごい反発を受けたんです。「そうじゃないんじゃないか。同じ核の被害者じゃない。父や母は朝鮮から強制連行されて広島や長崎で被爆して今日がある。皆さんとわれわれは立場が違うじゃないか」ということを言われて、いやもっともだなと思いましたね。
その翌日家庭訪問したんです。当時日本には被爆者に対する若干の支援策があったんですよ。しかし韓国人被爆者に対しては外国人ということで、何の援護もないんです。しかもその被爆者たちは経済的に苦しい立場の人たちばっかりでした。被爆者の人から「日本人は夏になると韓国に来てかわいそうだと言うけど、続けて支援をした人は誰もいない」と言われました。思わず「私はちゃんと最後までやります」と言ったのが、韓国の被爆者支援のきっかけです。
それ以来35年ぐらいになるんですけど、韓国に600回行っています。最初は自分たちでカンパしたお金を届けていたんですけど、砂漠に水みたいな運動。それじゃいかんと思って裁判に訴えました。裁判闘争も30年以上やって、ようやく制度上は日本人と同じになりました。
もう一つ取り組んでいるのが高校生平和大使です。私も長く活動してきましたが、どんな集会にも若い人がいないんです。若い人はこういう問題に興味を示さない。何とかして若い層を引き付けるということが課題になりましてね。それでインドが1998年に核実験をやったときです。核実験をやめさせようと国連に訴えに行くのに、若い人を派遣しようということになりました。それで生まれたのが高校生平和大使です。以来、海外で活動した高校生は500人ぐらい。平和大使に託す一万人署名も合計で270万筆になっています。この運動には6000人の高校生が参加してくれました。
全面解決のための世論を
9日の判決が出たときに全ての新聞を買いましたが、全てが1面トップ記事でした。テレビでも大きく報道されました。29人が負けたことは問題ではあるけど、15人が勝ったということは、やっぱりこれは大きな成果で、この成果を生かしながら全面解決にもっていこうと思っています。
判決以降、全国から毎日のように電話がかかってきて、私たちを後押ししてくれています。しかし、段階的にちょっとずつアメ玉が大きくなるようなやり方では駄目なんです。今や岩永さんは88歳、みんな高齢者です。すでにたくさんの仲間が亡くなっているんです。
裁判になれば高等裁判所は長崎にありませんから、福岡に行かなきゃいけないわけなんですね。皆さんが高齢ということを踏まえて、一刻も早い政治解決を望みたいと思います。
そのために全国の皆さんにご支援いただいて、世論を盛り上げていくことが大事だと思っております。
(9月18日、脱稿)