沖縄と中国・台湾の歴史的関係に学ぶ

日中平和友好条約締結45周年

沖縄を再び戦場にしない

琉球大学名誉教授 上里 賢一

一、東アジアの安定こそ繁栄の道

 沖縄の歴史を振り返って言えることは、東アジア地域の安定があってこそ、平和で豊かな生活ができるということである。
 東アジアの中で土地の広さや人口の多さから言って、中国の存在は昔から圧倒的に巨大であり、中国の動向が周辺国の進路に大きな影響を与えることも変わっていない。「唐は差し傘(これほど広い)、大和は馬の蹄、沖縄は針の先」という俚諺には、三者の地理的関係がよく表現されている。ただ、最近の辺野古の新基地建設に対する日本政府の沖縄の民意無視の冷たい姿勢に、「唐は傘のように沖縄を守ってくれたが、大和は蹴散らすだけだ」と揶揄する見方もある。

明治政府の併合までは独立国

 1879(明治12)年、明治政府による武断的な併合によって沖縄県となるまで、沖縄は琉球王国という独立国だった。1372(洪武5)年に明国の招諭に応じて中国と朝貢関係を結んでから約500年間、中国との関係が続いた。
 この間、明代に15回、清代に8回の冊封使(新しい琉球国王の認証のため中国皇帝が派遣した使者)を迎えた。琉球からは、2年に1回、進貢使が派遣され、清代には進貢使を迎える接貢船が派遣されたので、ほとんど毎年中国との間を行き来していた。

発展に貢献した渡来人

 1392(洪武25)年には閩人三十六姓(久米三十六姓)が下賜され、同時に中国の最高学府である国子監への留学生(官生)も派遣されるようになった。閩とは福建のことで、渡来人に福建出身者が多かったので、そう呼んでいる。彼らは琉球と中国の交易に必要な文書の作成、通訳、航海技術などの実務を担う職能集団だった。また、アジア地域に張り巡らされた華人のネットワークと連携して、琉球と東南アジア地域との交易にも貢献した。彼らは那覇の港の近くに居住し、久米村と呼ばれた。今の那覇市久米1丁目、2丁目辺りで、福州園や孔子廟などがあって、名残をとどめている。
 中国における琉球使節の受け入れ港と施設は、福建省にあった。交流の始まった当初は泉州の来遠駅、後には福州の柔遠駅(琉球館)である。そのため、琉球は福建省と密接な交流を展開し、衣食住をはじめ、儒学、道教、風水、墓制、音楽(三味線)、工芸など大きな影響を受けた。なかでも、野国総官の甘藷の伝来、高嶺徳明(魏士哲)の外科手術、程順則の六諭衍義は、琉球から薩摩を経て日本全国に広がったものとして知られている。

中継貿易で繁栄した琉球

 14世紀後半に始まった中国との交易によって陶磁器、衣料、漢方薬等がもたらされ、日本産の昆布や東南アジア産の染料やコショウ等が、琉球を経由して中国に運ばれ、15世紀から16世紀には、琉球はアジアの中継貿易国家として繁栄した。琉球の船は、中国や日本をはじめ、タイ、ベトナム、マラッカ、スマトラにまで交易範囲を広げていた。文字通り「舟楫を以て万国の津梁」(舟で万国をつなぐ架け橋)としており、歴史家は、琉球の「大交易時代」と呼んでいる。
 スペインやポルトガルなど西洋のアジア進出に押されて、琉球は東南アジアから後退した。

二、薩摩支配の隠蔽と琉球の独自性追求

 薩摩の琉球侵攻(1609年)の頃、琉球の東南アジア貿易は衰退し、久米村も寂しい状態だった。薩摩侵攻の3年前1606年に尚寧王の冊封正使として渡来した夏子陽の記録によれば、当時の久米村は「僅かに蔡・鄭・林・程・梁・金の六姓のみ存す」という凋落ぶりだった。
 皮肉にも、中国貿易に期待して琉球に侵攻した薩摩の意向を逆手にとって、これを利用する形で琉球王府は久米村の強化策を進めた。康熙帝による三藩の乱の平定や、台湾からスペイン、オランダ勢力を駆逐して台湾に拠点をおいて抵抗していた鄭氏の帰順などによって、清朝の政権が安定すると、琉球は中国との進貢貿易の回復に本格的に取り組んだ。

東アジアの安定が繁栄のカギに

 清朝の安定、江戸幕府の成立、朝鮮半島での李朝政権の確立、安南(ベトナム)の安定は、琉球の中国貿易の拡大を後押しした。東アジアの政治的安定があってはじめて、琉球の中国貿易が可能になったと言うべきである。琉球は中国に対しては、薩摩に支配されていることを隠蔽し、薩摩も琉球支配を対外的には隠蔽して、中国貿易による実利の追求を図った。
 薩摩の琉球支配は、琉球にとっては屈辱的で厳しいものであった。薩摩は尚寧王と三司官(琉球の行政官)を薩摩へ連行し、島津氏に忠誠を誓う「起請文」(誓約書)を提出させた。それは島津氏の琉球侵攻を正当化するものであった。「琉球征伐は理由のないものではなく、琉球が幕府や島津への義務を怠ったことに対する懲罰である。琉球はいったん滅んだが、島津の温情により旧琉球王国の中から沖縄諸島以南を知行地として与えられた。この御恩は子子孫孫にいたるまで忘れることはない」という内容である。旧琉球王国の奄美諸島を薩摩の領土とする宣言である。薩摩の「起請文」の強制に対して、三司官の一人謝名利山(鄭迵)は、署名を拒否し、処刑された。
 さらに、「薩摩の命令なしで、唐へ貢物を贈ってはいけない」などを柱とする「掟15条」を定め、琉球支配を強化した。これは、琉球の外交権を奪うものであり、中国との交易を島津が管理することを意味した。
 家康が薩摩の琉球侵攻を許したのは、日明貿易の復活を琉球に斡旋させるためであった。しかし、中国は1612年、琉球が薩摩の侵攻を受けて疲弊していることを理由に、国力が回復するまで2年1貢から、10年1貢にすると通知してきた。これは、琉球にとっても薩摩にとっても厳しいものであったが、要請を繰り返して10年後に5年1貢となり、2年1貢が認められたのは、1633年になってからである。ここにも、政治的安定が交易の前提であることが表れている。

難局を打開した琉球人

 薩摩支配下での琉球の経営は、「朽ち縄で荒馬を御すが如し」(蔡温)というほど難しいものであった。羽地朝秀(向象賢)、名護寵文(程順則)、具志頭文若(蔡温)という近世琉球を代表する役人が出て、彼らの創意工夫で巧みな外交を展開し、国内的には琉球のルネサンスと言われるほどの文化的爛熟を達成した。詳しく紹介する余裕はないが、『中山世鑑』、『中山世譜』、『琉球国由来記』、『球陽』、『歴代宝案』(第1集)、『おもろさうし』、『琉球科律』、『六諭衍義』の編纂や出版の他、平敷屋朝敏、恩納ナビー、吉屋チルーなど多彩な人物が輩出している。

三、琉球併合と台湾派兵(牡丹社事件)~沖縄は国益の質草か

 1879(明治12)年、日本の琉球併合(「琉球処分」)によって、琉球王国は消滅した。その8年前(1871年)、宮古島の貢納船が台湾に漂着し、先住民族(パイワン族)に54人が殺害され、12人が生還する事件が起こった。いわゆる「宮古島民台湾遭害事件」である。明治政府は、この事件を琉球の日本領有と台湾への進出に利用した。

明治政府最初の海外出兵

 翌年(1872年)、明治政府は琉球藩を設置し、尚泰王を琉球藩王にすると、清国に対して日本国の属民である琉球藩民が、台湾の生蕃に殺された責任を取るよう求めた。これに対して、清国は「台湾の蕃地は未開の地で、教化の及ばない化外の地である」とした。
 日本は清国の「化外の地」発言を理由にして、蕃地の征伐を企てた。1874(明治7)年、西郷從道陸軍中将の率いる3600人余の軍隊が、パイワン族の集落を攻撃した。「牡丹社事件」である。明治政府の最初の海外派兵であり、これによって、琉球藩が日本に属し、琉球藩民は日本の属民であることを清国に認めさせた。

「琉球処分」

 宮古島民台湾遭害事件から琉球藩設置、牡丹社事件を経て琉球併合に至る約10年が、いわゆる「琉球処分」である。明治政府は、琉球を国家利益追求の道具として利用した。その典型的事例が、琉球併合の最終段階に起こった「分島増約案」である。宮古・八重山を清国の領土とし、沖縄本島以北を日本領土とする代わりに、日清修好条規に日本商人が清国内で欧米諸国並みに通商できるよう、条文を追加(増約)するという提案である。これは、たまたま世界旅行の途中清国に立ち寄った前アメリカ大統領に清国が斡旋を依頼し、日本がその仲介に従って提起したものであった。

明治政府「宮古・八重山は清国に」

 これに対して中国は、奄美諸島を日本領土とし、沖縄諸島を独立させ、琉球王国を復活させる、宮古・八重山は清国領土とする、という三分割案を提起した。1880年10月、交渉は日本案で妥結し、81年2月に石垣島で両国の代表が会い、宮古・八重山を清国に引き渡すことになった。
 しかし、幸地朝常らと一緒に琉球を脱出して、中国で琉球復旧の嘆願要請行動を繰り返していた林世功が、交渉の妥結に抗議して北京で自殺すると、清国は調印を延ばして「分島増約案」は宙に浮いた。その後、日清戦争によって日本が台湾を領有すると、琉球の帰属問題も問題にされなくなった。大国(日本・清国・米国)の横暴と琉球の自己決定権の相克と矛盾、国益の質草同然に利用される沖縄の今も変わらぬ姿に愕然とする。

大国の横暴に翻弄されない

 この相克・矛盾を克服するためにも、中国をはじめアジアの国々と絶対に戦争を起こしてはいけない。8月8日、台湾での講演で麻生太郎(自民党副総裁)は、「台湾海峡の平和と安定には強い抑止力が必要で、そのため日米や台湾に『戦う覚悟』が求められている」(沖縄タイムス、8月9日)と述べたという。故安倍晋三元首相の「台湾有事は日本有事」発言と通底するものであり、無責任で危険な妄言と言わざるをえない。政治家は「戦う覚悟」やシェルター建設を考えるよりも、戦争を起こさないために努力すべきではないか。

日本の侵略の歴史も忘れない

 歴史を振り返れば、中国が日本を攻めようとしたのは、元寇(モンゴル軍)による例しかない。それも暴風などでうまくいかなかった。それに反して、日本は日清戦争後、1931年の満州事変から、37年の盧溝橋事件を経て日中全面戦争まで中国大陸を侵略し、南京虐殺、731部隊による人体実験、重慶爆撃等の残虐をはたらき、筆舌に尽くせない損害を与えた。アメリカが参戦する太平洋戦争は、中国侵略に始まるアジア太平洋戦争の末期にすぎない。
 この歴史に対する反省から、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないよう」(憲法前文)にし、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(憲法9条1項)としたのである。
 沖縄戦、東京大空襲、広島・長崎の悲劇は忘れてはならないが、同時に中国をはじめアジア諸国に与えた侵略の歴史も忘れてはならない。アジア諸国との平和構築こそ、沖縄を含む日本の生き延びる道である。

(小見出しは編集部)