日中国交正常化50周年に思う

国益を貫いた田中総理の英断

小長 啓一氏(元田中角栄総理秘書官)に聞く
(聞き手、本誌編集長・山本正治)

 こなが・けいいち 1930年生まれ。53年通商産業省(現経済産業省)入省、84年通産事務次官。アラビア石油(現富士石油)社長などを経て、現在、弁護士。田中角栄が通産相、首相の時に秘書官を務めた。

 日中国交正常化50周年に際して本誌(10月号)は、「この道をさらに前へ」との主張を掲げた。その中で当時の田中角栄総理の決断を、「歴史的な決断であり、かつ、50年を経過して激変の今日の国際社会でも、わが国の正しい進路の指針となる英断であった」と評価した。だが、50年前の状況を知る人は少ない。本誌は、通産大臣から総理大臣となった田中角栄氏の通産大臣時代から秘書官を務められた小長啓一氏に当時の状況と感慨を伺った。インタビューはくしくも9月29日となった。
 誌面の都合で割愛するが、日中関係だけでなく、第1次石油ショック時の総理大臣として展開された「資源外交」など興味深い話もお伺いすることができた。米英の石油メジャーが支配する中東依存ではなく、旧ソ連やメキシコなど中南米にも資源外交の足を延ばしたことなど、50年前のことではなく、今のこととして伺った。日本の政治家は、「自主的な日本」を目指す気概を受け継ぐ必要があると感じた。(山本正治)

国論が二分する中での
決断

――50年前のきょう、北京で田中角栄総理が日中国交正常化の調印をされたわけですが、小長さんは秘書官として田中総理を支えてこられました。まず、その日の感想からお伺いしたいと思います。
小長啓一さん(以下、小長) 北京での交渉は4日間にわたる非常に厳しい交渉でしたが、やはり北京へ行くまでの「決断」が重要だったわけですよね。
 当時、日本の国論は二つに分かれた感じになっていました。今ここで日中両国は手を固く結ぶべきであるというのは岡崎嘉平太さん(1897年~1989年、元全日空社長など。当時、日中覚書貿易事務所代表)などを中心とした民間の人びとが中心でした。ミッションが活発で、財界人がいろいろな非公式の貿易ルートを切り開いていました。新日鉄(現日本製鉄)の稲山嘉寛さん、東京電力の木川田一隆さん、同じく平岩外四さんなどもいました。政治的にも日中友好議員連盟というかたちでバックアップする人もいたわけです。
 一方、岸信介さんや福田赳夫さんといった「保守本流」と言われた人たちは、敗戦直後中国大陸にいた日本軍、それから在留邦人など30万近くの人たちが一人の死傷者もなく日本に帰って来られたのは中華民国政府・蔣介石総統の力であり、その総統がいま台湾に移ったからといって、それを見捨てて中国大陸政権と手を結ぶのは時期尚早であり、人道にも悖るなどと言って強く反対していました。
 それを田中さんは、「自民党総裁に選ばれた今、いうならば権力絶頂である時期にこそ国運に関係した最も難しい問題に挑戦するのが政治家の宿命である」と言って、決断されたわけです。その政治家としての決断をそばで見ていて、なるほどこれが本当の政治だと実感したことを思い出しますね。
 そして中国へ飛んで周恩来総理と交渉に入るわけです。周恩来総理が北京の空港に迎えに出てくれて非常に友好的なムードから議論は始まったんです。が、しかし問題の核心に入りますとかなり厳しい論争になりました。一つは、(日本の中国大陸への侵略の反省と謝罪についての)「ご迷惑」論争、もう一つは日華平和条約の扱いの問題、すなわち台湾の法的地位の問題。大きくいえばその二つだったわけです。外務省が用意していたことをはるかに超えた次元のやり取りが行われた。こういうのが本当の意味の外交、論争なんだなと実感しましたね。
 その大きな二つの問題をなんとか解決して、それで共同声明にこぎつける段階になるわけです。終わってしまえば、あれだけきつい調子で対応をしておられた周恩来さんも、まさに厳しいラグビー試合が終わってノーサイドになった後の選手同士の交流のごとく、固い握手をしながらこれからの日中関係はこの対応でいきましょうと誓い合う場面があったわけです。そういうのを50年たった今、思い出しているところです。

国益を賭して
自主的外交に踏み出す

――感慨深いことですね。そこに至る田中総理が踏み切る要因について国際関係、特にアメリカの変化もあるかと思いますが、そのあたりについてお話しいただけますか。
小長 冷戦が続いておりましたが、社会主義陣営の中国も完全にソ連と一体ではないということで、アメリカもそこに新しい関係を築く余地はあるんではないかということが念頭にあったようです。
 日中国交正常化の背景で最大の要素は、田中訪中の前年、1971年の7月にアメリカが、ニクソン大統領が訪中するという発表をしたことでした。日本にとっては全くの寝耳に水です。日米は同盟関係なのだから中国との問題についてももっと密接であっていいはずです。ですが、事前に日本政府に連絡はなく、サプライズ発表に慌てましたね。ニクソン訪中は翌年の2月です。
 次いでニクソン大統領が金とドルの兌換停止を発表した「ドル・ショック」(同71年8月15日)が起きました。当時、日本にとって米国が最大の市場でしたが、ニクソン大統領の政策転換により、米国だけに依存するわけにはいかなくなってしまいました。新たに安定的な市場を確保する必要性に直面するなか、中国という大きな市場が隣にあるぞ――ということになるわけです。先ほど述べましたが、財界人たちはさまざまな貿易ルートを開いてくれていましたが、そこに米国に割り込まれてしまうのではないかと懸念も広がります。遅れてはいけないという思いが、政界にも経済界にもありました。
 それで日本としては「遅れてはならじ」ということで9月の田中訪中につながっていくわけです。そのときの田中さんの判断は、隣にはそれこそ桁が違う数の人が住んでいる大きな市場がある。その市場は日本にとってもまた中国にとっても大変重要な市場であるということは間違いないんですね。一刻も早くその中国との関係を正常化するということをやらなきゃいかんという思いを新たにされると同時に、国益を賭してアメリカに後れを取ってはいけないという思いも非常に強かったということですね。

詫びるべきところは
詫びて展望を開く

――まさに、国益を貫くための自主的な外交を田中総理は決断されたのですね。今につながる偉大な決断ですね。
 しかし、侵略戦争をした中国との関係は難しいものがあったと思います。当時の政治家も経済人も中国に大きな被害を与えてきたという贖罪意識のようなものもあったと思うんですが。
小長 そうですね。田中さんは陸軍二等兵ということで当時の満州に出兵し、直接戦闘行動に参加していないんですけれども、外国の軍隊が駐留すれば地元の住民にいろんな意味で影響が出てくるということは第三者的立場を含めて実感しておられた。日本国全体としては中国大陸にあれだけの大軍を派遣して中国人民に大変な損害、迷惑をかけた。それを頭においていて、「やっぱり中国に行かなきゃいけないんだ」という感じはあったわけですよね。
 本当ならば国交のない国と外交を開く場合には、第三国で交渉するという外交上のルールがあるわけですね。外務省もそういう議論を内々したわけですけれども、田中さんは「いや、これはそういう問題じゃない。こちらが向こうに出かけていって、詫びるべきところはちゃんと詫びる。それで将来に向かって新しい展望を開く」ということだったですね。
――その決断を周恩来さんなど中国の皆さんも見たんでしょうね。中国も国内の難しい問題を抱えていて、被害者は生きていて目の前にいるわけです。周恩来さんにとっても相当な政治的危険を冒すわけですからね。
小長 そういうことでしょうね。中国側もそこは非常に評価したんじゃないでしょうか。周恩来さんは田中さんじゃなければこの問題はやれないと、先延ばしになっちゃうと。今ここでということになると、田中さんだという感じはあったと思うんですね。

日中双方の熱意と努力

――岡崎嘉平太さんの話がありましたけれども、日本の経済界の中にもずっと隣の巨大な市場ということもあって、もちろん彼らなりの贖罪意識もあって長い間、努力された。それがあって田中総理の決断につながったわけですね。
小長 そういうことですね。財界のミッションで私が特に印象に残っているのは、岡崎嘉平太さんのグループですね。これからこういうことで行ってきますとあいさつに来られ、帰ってきて結果を報告することをずっと積み重ねられましたね。
 一方、中国サイドも日本への関心を非常に強く示していた。例えば1971年に名古屋市で世界卓球選手権大会が開催された際の「ピンポン外交」ですね。この時の中国選手団は孫平化さんという方が団長さんです。この方は、体育関係者でももちろんピンポンの専門家でも何でもない。外交官だったわけですけれども、団長という肩書で日本に見えて、政府首脳と懇談するというようなこと、ほかにも似たようなことがいくつかありますけれども、中国側の熱意が伝わってきました。
 それから日本側のミッションの中で特に田中さんの印象に残ったのは公明党のミッションですね。竹入義勝委員長を中心としたミッションが「(周恩来総理は)賠償を放棄すると言っておったよ」というのを報告するわけです。他のルートからも来ていましたが、こちらの争点でもありましたから、本当かなと。盟友の竹入さんに田中さんは「おい君は本当の日本人か?」と冗談で言うぐらい、賠償放棄については確認を取りたかったんですね。その竹入さんのお話は、田中さんの最終決定の中で大きな役割を果たしたんではないかと思います。
――これからも公明党の皆さん、創価学会の皆さんには日中関係で役割を果たしてほしいですね。

反対論が渦巻く中で説得

――帰国後、総理が自民党総務会でつるし上げを食ったという話もありますが、自民党の中は大変だったんでしょうね。
小長 向こうでやっているときから随員の皆さんが、「帰ったら大変だ」と言っていましたね。私も「総務会は相当荒れますよ」と田中さんに通報していました。田中さんは「わかっている。自分が身をもって説明する」ということでした。私は立ち会っていませんが、反対論が渦巻く中に飛び込んでいって、縷々説明をして最後は反対の声が小さくなったということです。
 国論を二分する話では自分がある論拠に立って決断し、それを全体に納得してもらわないといかんわけです。政治家の最後の説得力というのはこういうことなのかなと思います。
 田中さんの決断力、実行力に尽きます。

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