平壌宣言から20年

何故? 日朝国交正常化できないか

月刊『日韓分析』編集人 北川 広和

 今年9月17日、日朝平壌宣言が結ばれて20年が経過した。しかしながら、平壌宣言の柱である植民地支配の清算に基づく日朝国交正常化は、いまだ実現していない。そこで、この20年間の日朝関係を振り返ることで、国交正常化できない原因が、いかなる意味で日本政府にあるか明らかにしたい。

平壌宣言の歴史的意義

 2002年9月17日、小泉純一郎首相は朝鮮民主主義人民共和国の首都・平壌を訪れ、金正日国防委員長との史上初の日朝首脳会談に臨んだ。会談に先立ち、朝鮮側は日本側に、拉致被害者として安否を尋ねていた14人の消息をまとめて提示した。そのうえで金国防委員長は小泉首相に、拉致を事実と認め、「誠に遺憾なことであって、率直にお詫びしたい。二度と繰り返すことはない」と表明した。小泉首相は、国交正常化交渉の前提条件として掲げていた拉致被害者の安否情報の開示がなされたと認め、金国防委員長とともに日朝平壌宣言に署名した。
 日朝平壌宣言の前文には「両首脳は、日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治・経済・文化的関係を樹立することが、双方の基本利益に合致するとの共通認識を確認した」とある。そして、第1項には「国交正常化交渉を2002年10月中に再開する」とあり、第2項には「日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した」としている。前文と第1、2項から、日朝平壌宣言が植民地支配の清算を最重視していることが明らかである。

国交交渉再開も拉致問題の前提化で

 9月23日、朝鮮側は「拉致被害者家族の訪朝を受け入れ、死亡経緯などについて説明する」と表明した。しかし、25日、「拉致被害者を救う会」は「拉致被害者家族連絡会」に対し、「訪朝するのは危険だ。生存している被害者を一時帰国させ、意思を確認すべきだ」と説得した。「家族連絡会」は「救う会」の意向を受け入れ、日本政府にその旨要請した。10月9日、朝鮮側は被害者5人の一時帰国を認めた。ところが、15日に一時帰国した5人が、朝鮮に残している子どもたちに土産まで買っていたのに、22日になって「救う会」が「帰国を認めたら、二度と日本に戻れなくなる。5人を日本にとどまらせ、朝鮮に残した子どもたちを呼び寄せるべきだ」と「家族連絡会」を説き伏せ、「5人を戻さない」とした。日本政府はその旨、朝鮮側に伝えた。朝鮮側は日本側への不信感を強めることとなった。
 10月29日、日朝国交正常化交渉がクアラルンプールで開かれた。だが、日本側は平壌宣言にはない「拉致問題と核問題の解決が最優先」と主張して、国交正常化交渉を拒否してしまった。

小泉再訪朝で被害者家族が帰国も

 04年5月22日、小泉首相が再び朝鮮を訪問した。小泉首相と金正日総書記は、被害者家族の「帰国」で合意するとともに、死亡ないし安否不明とされた日本人の白紙状態での再調査でも合意した。
 7月1日、日朝両政府は外相会談を開き、その後、3回にわたり実務者協議を開いた。8月と9月の協議では、日本側は「安否不明者の調査結果の説明がなければ、国交交渉には入らない」とした。11月に開かれた3回目の協議では、横田めぐみさんの遺骨を含む多くの資料を持ち帰った。遺骨に関しては、薮中三十二アジア大洋州局長が「遺骨は両親に直接渡し、公表しない」と自著・署名した。
 ところが、新潟空港に到着後、遺骨はただちに鑑定に回された。科学警察研究所と東京歯科大学で鑑定され、科警研は「めぐみさんのものではない」としたものの、東京歯科大学に依頼された帝京大学の吉井富夫講師は「めぐみさん以外に2名の他人のDNAが混入していた」との鑑定結果を発表した。しかし、日本政府は「めぐみさんの遺骨ではない」とだけ発表した。その直後、吉井講師は科警研の法医課長に抜擢され、以後、取材を一切受け付けなくなった。
 そのため、日朝間の対話は1年近く途絶えた。再開されたのは05年11月のことである。これを契機に06年2月、国交正常化交渉が行われた。しかし日本側は「拉致問題や核問題を解決した後に、平壌宣言に基づく協議に入る」との態度をとり、日朝交渉を中断させてしまった。

ストックホルム合意

 14年5月29日、日朝両政府はストックホルムで開いていた外務省局長級協議で合意に達した。合意の冒頭部分で「双方は、日朝平壌宣言に則って、不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、国交正常化を実現するために、真摯に協議を行った」としている。そして「日本側は、北朝鮮に対し、1945年前後に北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨および墓地、残留日本人、いわゆる日本人配偶者、拉致被害者および行方不明者を含む全ての日本人に関する調査を要請した」とある。歴史的に起きた順に4つに分けた日本人に関して、日本側が朝鮮側に調査するよう要請したのが合意である。
 ストックホルム合意では、朝鮮側は日本人調査について、特別調査委員会を立ち上げるとし、日本側は特別調査委が活動し始めれば、制裁措置を撤回するとした。14年7月、朝鮮側が特別調査委を発足させると、日本側は制裁措置の一部を解除した。9月末には日朝外務省局長級協議が開かれた。宋日昊大使は「誠実に調査に当たっている。日本人の遺骨・墓地と残留日本人についての調査は終わった」と表明した。これに対し伊原局長は「拉致問題を優先的に調査すべきだ」と訴えた。朝鮮側は「歴史事実に基づいて順次調査している」と答えた。
 15年1月末と2月末に中国の上海と大連で日朝間の非公式協議が開かれた。朝鮮側は「全ての日本人調査が終わったので、報告書を提出する」と受け取るよう求めた。しかし、日本側は拉致問題の調査では従来と変わりはないとみて、受け取りを拒否してしまった。そのため、日朝政府間の対話・協議は再び途絶えてしまった。

安倍首相が日朝首脳会談に言及

 日朝対話の雰囲気が国内に生まれたのは18年のことだった。2月に韓国で開かれた平昌冬季オリンピックを契機として、4月28日には金正恩国務委員長と文在寅大統領が板門店で南北首脳会談を開いた。そして、6月12日には、金正恩国務委員長とトランプ大統領による史上初の米朝首脳会談がシンガポールで開かれた。
 焦った安倍首相は米朝首脳会談が開かれた当日、トランプ大統領に電話して、金正恩国務委員長との会談について打診し、好感触を得た。これに関連して、21日には日朝国交正常化促進議員連盟が10年ぶりに国会内で総会を開催。「いまこそ日朝首脳の直接交渉を開くべきだ」との総意をまとめあげた。
 しかし、翌22日に首相官邸を訪れたのは、拉致議連の会長でもある古屋圭司・衆院議院運営委員長だった。古屋委員長は安倍首相に対し「(北朝鮮問題で)前のめりになると何も得られるものはない」と釘を刺した。日朝議連の思いは拉致追及勢力によって頓挫させられてしまった。
 以後、安倍首相は所信表明演説などで、「拉致問題解決のため、金正恩委員長と無条件で対話する用意がある」と発言するようになった。「拉致問題解決のため」という前提条件に朝鮮側が応じるはずもなかった。

安倍政権以降の日本政府も拉致最優先

 20年9月16日、安倍首相に代わた菅首相は21年4月、訪米してバイデン大統領と会談したが、その直前には「家族連絡会」と面会して、「拉致問題がいかに重要か、バイデン大統領に訴えて協力を求める」とした。しかし、直接訴える相手が間違っている。これでは対米依存外交であり、ただの他力本願である。
 21年10月4日、指名された岸田首相は12月6日に所信表明演説。「拉致問題は最重要課題だ。全ての拉致被害者の一日も早い帰国を実現すべく、私自身、条件を付けずに金正恩委員長と直接向き合う決意だ」と述べた。「日朝国交正常化を実現する」前に「拉致・核・ミサイル問題を解決する」立場は、日朝平壌宣言に基づいていない。
 岸田所信表明演説は、日本政府がこの20年間、日朝平壌宣言を真摯に履行せず、宣言にはない「拉致問題の解決が最優先」との立場に立つことで、実質的に国交正常化を阻んできたことを示している。

平壌宣言が実現しないのは

 以上から、日朝平壌宣言が20年たっても実現されていない理由が日本側にあることが明らかだろう。日本政府が「拉致問題の解決が最優先」とし続けているからである。しかし、その「拉致問題の解決」について、日本政府は「拉致被害者全員を生きて帰せ」とは朝鮮側に正式に要請したことがない。これではいつになってもらちが明かない。
 それでは、なぜ日本政府は平壌宣言を履行しようしないのか。日本政府が朝鮮植民地支配について謝罪し償う気がさらさらないからである。日本政府が朝鮮植民地支配について謝罪・賠償を避ける姿勢は、韓国との関係を見ても明らかである。
 1965年の日韓条約で日本政府は、韓国政府(朴正煕軍事独裁政権)と国交を結んだ。しかし、日韓条約には「植民地支配について謝罪する」との文言は一切出てこない。日本は過去の清算は行っていないのである。なぜか。ドル危機が深刻化した米国が、日本に対し韓国に肩代わり援助するよう要請したことが背景にある。日韓条約の締結交渉は、朝鮮戦争さなかの1951年に、米国の要請で始まっている。日本の対米追従外交の始まりである。
 日本政府が拉致問題の解決を最優先課題とした最大の理由は、朝鮮に対し謝罪も賠償もしたくないからであった。ただ、日朝国交交渉の進展を阻んできた理由として、対外的には米国の存在があることも付け加えなければならない。
 小泉首相の訪朝には、日韓条約の締結交渉とはまったく異なる事情が背景にあった。日韓条約の締結交渉が米国の意向で始まったのに対し、日朝国交交渉は米国の意向ではなく、反対に小泉首相は、事前に米国から了承を取り付けたうえで訪朝したわけではなかった。小泉首相による訪朝は、日本の独自外交であった。
 小泉首相が訪朝したのは、日本の戦後を終わらせるという名誉を得るという狙いも個人的にはあっただろう。しかし、小泉首相を突き動かしたのは、日本の支配層の思惑にほかならない。日本が朝鮮植民地支配の過去に終止符を打つことで、東アジア外交をフリーハンドで展開するためであった。それは、対外的に自立化することで、新たに帝国主義として台頭することを意味していた。
 しかし、米国はこれを絶対に認めるわけにはいかなかった。実際、日本は朝鮮戦争特需と日韓条約に基づく日韓請求権協定により、1970年代には経済的に台頭し、80年代に入ると米国との貿易摩擦を展開するまでに資本主義として急成長を遂げていた。そして、2000年代に入って、経済的にだけでなく政治的にも自立化志向が強まっていた。その表れの一つが、日朝平壌宣言にほかならない。
 そうした脈絡で考えると、日朝平壌宣言がいまだ実現していない現状は、日本が自立した帝国主義になれず、対米追従外交に終始していることを表していると言えるだろう。