「危機の時に都市を受け入れることのできる農村」でありたい
農事組合法人八頭船岡農場(鳥取県)組合長 鎌谷 一也(全日農副会長)
人生の最終ステージは、「本気の百姓を!」ということで、朝から晩まで、田んぼで働く。
コロナ禍のもと、昨年から寄り合いや会議も減少し、いっそう農作業に打ち込むこととなった。
晴天・曇天・雨天であろうと、汗を流し作業に没頭していれば、農業は新型コロナとは無縁の世界にも思える。実際は、業務用の米や野菜の販売が滞ったり、消費減により価格が下がったり、影響がないことはないが、太陽の下で働くことに閉塞感もストレスもない。米のほか、小麦、大豆、白ネギ、キャベツ、繁殖牛、原木シイタケ、ワサビなど、あれもこれも、やろうと思えばきりがないほど、仕事が増える。
だが、旧町単位の範囲で、260ヘクタールの水田を集積、構成員は545名(旧町エリアの約8割の農家)、職員15名を抱えている農事組合法人の組合長としては、作業だけに明け暮れているわけにもいかず、昨年は10年先を考えて、第3次5カ年計画(がんばる農家プラン)を策定した。
高齢化や人口減少により、10年先は旧町全農地340ヘクタールの半分170ヘクタールは、法人(職員)の直接管理が必要となるであろう。その時に、職員は何人必要か、その職員が食べていくだけの生産体制・経営基盤は。集落で頑張る中核的な法人構成員の育成確保、集落単位での協業や相互扶助体制の確立をどうするか。水田活用、野菜生産、耕畜連携に放牧を利用した和牛繁殖など、事業展開をどうするか。そもそもどういった農村風景・農村社会を想定し、ことを進めるべきか、これまた考えることは尽きない。
基本は変わらず…
12年前に組織化した広域集落営農法人の理念も、そして、東日本大震災の発生日に13団体で設立した「共生の里づくり推進協議会」も、地域の主体性をもとに、いかに地域を守り、人や各組織の相互扶助や連携のもとで、暮らしていくことのできる地域をつくっていくか、が基本である。
若者に、「人も少なくなれば、田んぼも畑も山もすべて自分のものになるような時代になるから、独立国をつくるぐらいの展望と気概を持って頑張れ」と言っている。生きていく、持続していくことのできるコミュニティー(地域社会・共同体)をどうつくっていくか。望むべきは、地域だけに限定せず、都市の消費者・消費団体との連携(顔の見える関係)も含めた、コミュニティー(顔が見え交流ができる人と人の関係、物の価値〈使用価値〉が共有できる生活圏市場)づくりである。
全国各地で取り組まれている自給圏構想でもよい。江戸時代に帰れとは言わない。資本の論理で解体されてきた農村経済や社会構造であるが、そもそも地方は自給経済・自立社会でできていたものであり、現代社会の中にあっても、圏域・地域として基本的な暮らし(生産、労働、消費等の社会的活動)ができ、持続できるスタイルをつくり強固にしていくことは可能ではないかと思う。
特に、新型コロナ禍のもとで思いを強くするのは、閉鎖的ではなく、都市との交流や都市からの受け入れを可能とする農村づくりである。まだまだ、農村が力を失ったとも、農村が都市に養われているとも思ってはいない。中国山地の谷あいにある中山間地域の水田や農村風景を見ても、農地・農村の環境の多くは高齢化した中小農家に、今でも営々として守り受け継がれている。むしろ、コロナ禍のもとでは、農村部より都市部の危機がより深刻に見える。人流については本来であれば「危機の時に都市を受け入れることのできる農村」でありたいと思う。これまで、労働力等を送り出す農村であったが、受け入れることのできる体力・地力をもち、都会に出た息子や娘に「しんどい時には帰って来い」と言いたくなる心境でもある。
さて、今後は・・・食糧問題の主体は、消費者であり国民全体として捉えるべき
少し、農作業の合間に情勢を整理してみる。
2020年3月、新型コロナの発生と軌を一にして打ち出された、第5次食料・農業・農村計画。自給率45%を含め、担い手対策、農村地域政策等、どういう展開をするのか、極めて不透明である。新型コロナでも、世界的な食糧供給の不安定化がいっそう顕在化し、局面によっては深刻な事態になりかねない。
次に、新型コロナだけでなく、食料や社会に与える影響が過大なウイルスの多発(畜産関係でもBSEや口蹄疫、鳥インフルエンザ、豚コレラ等)、温暖化等による異常気象と災害の多発、世界世情の不安定化等、いろいろな分野でリスク要因は拡大している。
当然のごとく農村での高齢化と人口減少は急速に進む。いな、農村の激しさまでいかなくとも、日本全体が人口減や高齢化社会に陥る。すなわち、日本の経済力・国力の低下に直面するという危機である。今後の10年、20年の食料の展望は、そして環境と国土を守る農業と農村のゆくえはどうなるか、という課題にもぶち当たる。
そして、食料・農業問題にかかる彼我の状況である。昔のように階級社会という視点で見ることができれば、より分かりやすいかもしれないが、そういう整理もできない。富裕層と貧困層の階級的な対立の解決策、富や生産手段の分配、収益機会・情報の分配、格差解消といった整理もできない。主体性の問題、食料・農業という課題に対する主体はいったい誰なのか、という問題である。
農業者もすでに国民の2%を切り、圧倒的な少数派である。生産することへの責任は、自らの暮らしに直結することであるから、責任は持っているが、本来の食糧問題の主体は消費者であり、国民全体として捉えるべきではなかろうか。今や農地・水・山林等の環境保全問題にしても、しかりである。ここの意識が変わり、変革への運動が広がらない限り、食料・農業・農村政策の大きな変革は期待できないように思われる。
価値観を変える…
交換価値(お金で買える)から使用価値(大切な食べ物)で考える。食料・農業、食べ物・百姓仕事と言い換えた方がよいかもしれない。昔の百姓の暮らしは、生産と生活を切り離すことなく、現代風に言われる農的な生活であって、暮らしの中に、農業生産と消費があり、そこに自給的暮らし、農村社会でのコミュニティー的分業と協業、相互扶助の人間関係も築かれていた。
一方近代では、貨幣経済に支配され、商品としての農産物を生産し貨幣に換える。交換できる価格重視で、貨幣にどれだけ交換できるかという交換価値が重視され、貨幣にならないものは無駄なものとして廃棄もされている。
しかし、使用価値で見る世界での生産・消費は違ってくる。食べるために生産し、また生きるために加工し保存する。そのため、食べ物として、大切に使う、大切に食べる。決して廃棄しない生活様式である。交換価値は、必要でも貨幣がなければ手に入らない。一方、農家も買ってもらえなければ廃棄してしまう。高いか安いか、消費者も価格で判断してしまう。本当に、健康とか、身体に必要なものは、という視点では見えない。
そして、現在フードロス等でも問われていることであるが、個々の食料というよりも、社会全体の必要な食糧・食べ物として、何をどう食べればよいか、またどれだけ食料を確保すればよいか。そのためには、農業生産や食料確保、いわゆる食料・農業政策をどうすべきか、といった視点を持ち、意識することも少ない。「食べることは生きること」と言われるように、生存権の最も基礎にある食べ物やそれを生産している農業について、自ら問題として意識し危機感を持つことが少なくなっているのではないかと思う。
そのため、古い思想というよりも、資本主義以前の共同体的、使用価値に依拠した物事の判断をする。その訓練を行う。つまり、本質的な見方といってもよいが、価値基準を確立する。在るもの(有限な資源)を使い生かす。使用価値を見いだす。必要なものを作り出す。少々手前味噌となるが、最近の気がついた事例を紹介してみたい。
白ネギの無人販売・・・
今年の冬は、大雪で白ネギが雪害に遭った。経済的な損失もさることながら、折れていようと曲がっていようと食べられるものを廃棄するのはもったいない。
雪害対策で、無人直売を行ったが、ドロボウはいなかった。コンテナと空き缶があれば、各集落に置いておけば商売になると思ったぐらいである。泥付き1本20円という安値だったが、雪害規格で出荷しても、皮むき・根切り・葉切り・ふき取り・太さぞろえなどの調整作業した後に、1本9円程度であったため、無人直売は随分助かった。通常のネギも曲がっていれば出荷はできないが、そうしたものも、畑から掘った状態で販売した。売り上げは50万円超えであった。規格がないから、ネギの太さも関係ない。地域のお母さん方には随分喜ばれた。旬なものほどおいしいと評価を得るものだ。
いわゆる地域内流通を考えると、廃棄しなくともよい野菜も随分ある。価格も含め、提供の仕方も工夫ができる。高い送料・運賃、出荷資材、そして手間を省くことができる。つくづく、大量生産、市場流通、業務用規格等にも、けっこうロスも多く、不合理である点があることにも気づく。
現在の地域内流通、あるいは自給圏をイメージしながら多様な食べ物の生産に取り組むのであれば、活用できる農地はたくさんある。米や大量生産する野菜以外でも、作ろうと思えば、何でも栽培できる。必要なものを作り、できたものは廃棄しない取り組みも可能である。
分業と協業、できる限り自分たちの手で…
農業は、国の基と言われるが、農業ほどあらゆる知識や学問、そして思考方法や哲学が問われる分野はない。
周囲には、たくさんの地域資源がある。農地、山林、里山、樹園地、集落内の共同施設、空き家、そして人間、活用を待っているものはいくらでもある。昔は、ワラは、笠やミノ、わらじなどの衣服、縄やござなどの生産資材、家の屋根(わらぶき)まで活用されていた。竹も、たけのこだけでなく、ザルから、垣根、竹箒、花立て、葬儀のヤナギ(飾り)まで、いろんな活用がされている。要は、何が必要で、その対策として、在るもの、調達できるものをどう使うか。もう一度、生きる知恵を磨く必要がある。
山仕事であれば、間伐、植栽、牛の放牧、竹林の整備、原木シイタケ、薬草の栽培など実践行動はいくらでもある。そのうち、納屋がいる、道具がいる……とくる。そして、土壌や植物の生態、牛の飼養管理から、さらに道具の利用マニュアルや修理技術、そして、各分野別の収支や決算報告まで、いろんな知恵・仕事も農業には詰まっている。さぞかし面白い暮らしとなる。お金があれば、もっと加工しやすい道具を購入し使うのも一手であり、今はやりのスマート農業を活用するのもありだ。
農場でも、40年前の79馬力のトラクターを活用している。育成牛舎は、森林組合から丸太を切り出してもらい、杉皮は自分たちで剝いで立てる。さすがに、屋根だけは大工さんだったが、コンクリート打ちから、土台作り、柱等は、すべて農場自前である(構成員による)。けっこう何でもできる。地域の中での協力体制や、資金が回る仕組みづくりなど、還元をどうつくるか。毎日、草刈りをし、耕運をし、天を仰ぎ、気象を気にし、ああくたびれたと寝床に入るだけの生活ではすまされない。
準備を、次の世代に向けて…
社会や情勢の変革、特に食料・農業・農村の価値を大事にし、その存続のための国民的な合意形成ができるためには、今回の新型コロナウイルスに代表されるような外部的な衝撃的な要因による意識変革、もしくは確固たる主体による広範な運動によった意識変革でしか、実現できないのではないかと思う。どうすればよいのか。本当の主体がしっかりしない限り、どんなに唱えても、危機を迎える準備段階にしかならない。危機が訪れるか。食料問題に対する多数派である主体・消費者の運動による変革と多数派の認識の形成が相互にされるか。危機によって、一挙に意識が変わる局面、生活様式が問われる局面が訪れるか。
店舗での若手農業者の直売コーナーや有機農産物の直売など意識的な取り組みを展開し、かつそれが農家の支援・育成につながっている生協の事例もある。しかし、産直運動、都市と農村の交流など、生協・消費者との連携でそれなりに足跡は残し、歴史も引き継いできたつもりだが、圧倒的な影響力をもつ消費者が農業・食料の課題についてどこまで、認識できているか疑問である。
そのためにも時間がかかろうとも、準備段階として、農村での自立した経済・生活圏の確立、人とモノの循環が伴う都市と農村の連携の強化に地道に取り組むしかないと考える。最近は責任の持てる範囲で、自給圏や相互扶助の生活圏の形成を考える。そして、対応できないかもしれないが、準備し、自らの地域にいろんなものを取り込んでいきたいと考えている。
農業のもつ普遍性、食べることの大切さ、自然の中で働くこと・・・
新型コロナウイルスが直接的に農作物に害を与えるものでもないし、都市部のような閉塞感があるわけでもない。しかし、もともと農業は、ウイルスや病原菌との闘い、異常気象との闘い、それほど大きな変動でなくとも、日常的な危険との闘いに常にさらされている。もちろん、危機管理という面では、交通事故や製造ミスなど、人間社会的活動による危機から起因するものの危機管理もある。
しかし、今回のコロナウイルスのように、外的な要因による(もちろん人間を媒体にしての話だが)危機の発生は、農業においては常である。そこに、自然災害に対する長年の知恵があったり、思想があったりする。
世界的、全国的な危機でないかもしれないが、これまで畜産農家にとっては、O157ウイルス、BSE、口蹄疫、人や家畜の死亡・感染だけでなく、その発生による経済的かつ生産的なダメージも大きかったことを経験している。歴史的に見れば、農業や地域社会は常に直面してきた問題である。
死生観としては、生き抜くための努力とともに、一方では、天や成り行きに任せ、逍遥として死をも受け入れることもできる。できることはするが、日常的な営みは営々と繫ぎ紡いでいく。
最大の課題は、やはり人と人の関係、共同体的な社会構造を集落や農村社会に存続させ、残していくかにある。人が少なくなっても、助け合う関係があり、自然や環境と共存できる関係があれば、続いていく。
農業生産は割と簡単に取り組むことはできるが、農業や里山、そして集落を担っていく組織づくりをどうしていくか。在るものを利用し、事業を利用し、機会を利用し、進めていくことを思案中である。農事実行組合の中に、女性部をつくり、集落の自警団に原木シイタケの伐採・植菌などの取り組みを行ってもらう。多面的支払いの水路工事等はすべて直営工事で行える体制をつくる。多面的支払い制度では、集落でできなければ農場が事務局をもって広域協定で地域を結び守る体制を確立する。やることは多いが、齢も考えほどほどに進めたい。