温暖化と戦後の土地利用、森林・河川政策などの人災
水害がない流域の未来を考える
つる 詳子
2020年7月4日に球磨川流域を襲った水害から9カ月。いまだに被災地はその爪痕を強く残したままである。護岸の樹木がなぎ倒され、見通しが良くなった球磨川の両岸は、補強用の黒いフレコンバッグで覆われ、泥出しや家財搬出を終えた窓、ドアがない家、柱だけになった家、解体して家屋がなくなった更地と、殺風景な景観が広がっている。
全壊・半壊から一部損壊、浸水家屋等被災家屋は、8875棟に及び、避難所暮らしの人はいなくなったものの、いまだに4069名が仮設住暮らしで、故郷に帰るめども立たないままである。特に上流に降った雨が一気に流下する狭窄部にある球磨村、芦北町、坂本町の球磨川沿いの被害はひどく、再建の見通しも立たない集落が多い。支流沿いの道路の修復が進み、支流上流部に入れるようになったのにつれて、山間部の斜面崩壊、土砂崩れの深刻さもだんだん明らかになってきた。
9カ月たった現状と改めて見えてきた問題について報告したい。
球磨川とダム問題
球磨川は急流であったが、人々はその急流の恵みを享受する一方、川のリスクも知り尽くし、危ないところは居住地にせず、利便性から川のそばに暮らす者は、雨の降り方や水の増減を見て、洪水に備え対応をしてきた。また、洪水時には、濁りを嫌うアユが岸辺に逃げ込み、人々は1年間のタンパク源としてのアユの〝濁り掬い〟を楽しんだ。洪水は自然の恵みをももたらしていたのである。
「水害」という言葉は、ダム建設後に生まれた。1950年代から、荒瀬ダムを皮切りに瀬戸石ダム、市房ダム、遥拝堰と次々に本流にダムを建設。しかし、その後、発生するようになった水害に対し、国はさらに大きなダムが必要と川辺川ダム建設計画を発表する。
水没予定地の五木村の反対運動が収まったころから、下流の人吉市に始まったダム反対運動は流域から県内外に広がり、世論の高まりを受け、蒲島郁夫知事は2009年川辺川ダム中止を表明、翌年の10年に荒瀬ダム撤去を決定する。
荒瀬ダム撤去は18年に終了し、ダムがあった坂本村はよみがえった清流を生かした町づくりに取り組み始め、活気を取り戻しつつあった。一方治水に関しては、川辺川ダムの中止に伴い「ダムに依らない治水協議会」を設置、検討されてきたが、流域首長の理解が得られず実現に至らず、球磨川の治水は12年間放置されたまま、今回の水害は起こった。
7月4日の水害
球磨川流域は、U字形に球磨川本流が東から西に流れ、U字の底の部分に、東西約30㎞、南北約15㎞の広大な人吉盆地があり、人吉市がその中ほどにある。その下流は急峻な山々に囲まれた狭窄部になっており、上流に降った雨はこの区間にある支流の雨を集めながら、球磨村、坂本町と蛇行し八代平野まで下る。
7月4日未明から球磨川流域に早朝まで停滞した線状降水帯は、各地に400㎜を超す大雨をもたらした。死者65名、行方不明者2名、橋の流出は本流だけで15、堤防は多くの箇所で決壊、越水した。肥薩線は三つの鉄橋が崩落・流出し、まともな区間はほとんどないほどだ。
特に山に挟まれた坂本町、球磨村は、ほとんどすべての集落が被害に遭い、道路より水位が5mを超えているところも多い。特に瀬戸石ダムで流れが阻害されたその上流側は、水位の上昇が著しく、集落ごと土石で埋まり、下流側はゲート全開で流速を増した濁流に跡形もなく流された。これらの惨状を見た蒲島郁夫熊本県知事が、ダムの建設も含めて球磨川の治水対策を検討すると発表するに時間はかからなかった。
深刻な山の荒廃が起こした水害
今回の本流と支流沿いの合流点にある集落の被害を見ると、今までと明らかに違う。今までは本流の激しい流れが支流側に逆流するバックウォーターに阻まれ、支流の山から来た水がさばけずにあふれ出して被害をもたらしていた。しかし、今回はどこの集落の被災者も山から水と土石が押し寄せてきたと証言する。人吉盆地の被災者も、今回は支流の水が先にあふれてきたと証言する者が多い。実際合流点の集落を見ると、流木と山から来た角ばった岩石と山土が合流点の橋の下に詰まり、その上流まで埋め尽くしているところがほとんどである。
これはただ事ではないと、支流をさかのぼると至るところに崖崩れ、斜面崩壊が見られ、大小を問わず谷はえぐられ、幅が倍ほどになっているところが多かった。しかし、筆者には今回のような豪雨があればこうなる予感があった。
30年ほど前から九州脊梁(宮崎県と熊本県の県境にまたがる山地)から始まったシカの食害は、5年ほど前には球磨川沿いの下流まで広がった。流域全体の森林の林床は丸裸となり、表土は流れ、根が見えるようになった樹木は傾いている斜面が多く、大雨が降るたびにひどくなっていた。特にシカの食害がひどいのは坂本町である。
また、支流沿いぎりぎりにまで植林されたスギは、間伐されていないところも多く、ヒョロヒョロしたモヤシ林が目立ち、いかにも崩れそうな地質のところに植えてあるところも多かった。
加えて戦後の一斉造林で植えられたスギやヒノキは50年を過ぎ伐採すべきという森林政策もあって、ここ数年流域の森林は皆伐地が急激に目立つようになっていた。特に標高の高いところに皆伐地が目立つ。また、皆伐の仕方、皆伐後の施業の違いが被害の程度に影響していた。ワイヤー搬出したところは、搬出道をいっぱい造ったところよりも被害が少ない。皆伐後の植林の有無、土砂止めの有無などが被害の程度を大きく左右している。
上流部の山地やそこを通る道路沿いには、そこで踏みとどまった土石や倒木が今なおゴロゴロしている。次回大雨が降れば、間違いなく下流へと流れる災害源である。
森林の公益的機能がいわれて久しいが、放置された森林は保水力も落ち、かえって災害を引き起こす、そんな状態にある。
被害を大きくした瀬戸石ダム
瀬戸石ダムは、広い人吉盆地に降った雨が八代海に注ぐまでの狭窄部に建設されたダムである。ただでさえ、狭い狭窄部に、川の横断面の半分以上を占める障害物を造ったらどうなるかは素人でも分かる。また、ダム湖にたまった数メートルの堆積物は、水害の原因になると国交省にも指摘され、毎冬土砂除去作業をするも追いつかない状況が10年以上続いていた。
短時間に400㎜以上も降った雨は瀬戸石ダムの水位を見る見る上げ、ダム上流を広大な湖に変え、そこに支流からの土石が流れ込み、集落を埋め尽くした。しかも、奇妙なことに家屋は壊されることなく、屋内も含め土石に埋もれ、その堆積面は平らである。ある集落では2階の床上50㎝ぐらいまで水が来た形跡があったが、泥はうっすらと同じ厚さで堆積し、洗濯物干しや植木鉢も倒れることなくそこにあった。水の勢いがなかったということである。
これが、瀬戸石ダムの上流の被害の状況である。
一方、瀬戸石ダム下流の被害の状況は対照的である。家屋は原形をとどめないほどに壊されているのはいい方で、跡形もなく流され、その土台や道路は数メートルもの深さにえぐられている。土石を含んだ水の流れがいかに強かったかを物語っている。この上下流の被害の違いを、瀬戸石ダムの存在な
くして説明するのは不可能である。
土地利用政策の間違い
山間部を蛇行した流れが続く球磨川は、その湾曲部に多くの集落がある。しかし、1950年前後の写真を見ると、昔は田圃ばかりのところがほとんどだ。今回はそんなところが被害に遭った。14名の死者を出した老人ホーム「千寿園」がある渡地区もそういうところにあった。
また、湾曲部の田畑には、昔は川沿いに樹木が植えられ水害防備林が形成されていたところも多かった。田圃として今も利用されているところで、防備林が切られたところと残されているところの今回の被害の有無も現場を見れば明らかである。
ダムや堤防があれば安全だと人を住まわせてきた現代と、自然の地形を読み、危ないところには住まなかった昔の考え方の違いを痛感させられたのが今回の水害である。
流水型ダム建設の問題
7月4日直後の翌日、「川辺川ダムの復活はない」と断言した蒲島知事は、その翌日には「新しいダムのあり方含め再考する」と考えを変える。そして、その後開かれた2回の球磨川豪雨検証委員会と、球磨川流域治水協議会を経て、熊本県は流水型の川辺川ダム計画が必要だという結論に至り、国交省へダムの建設を要望する。
これらの会議は、県理事、県の担当者、国交省以外は流域の首長が主な構成要員で、国交省の「ダムがあれば被害は6割低減できた」という説明に、誰も異論を挟む者はいなかった。先に述べた、山の問題や瀬戸石ダムの問題を指摘する者は皆無であった。
蒲島知事は、環境にやさしく治水と両立が可能だという理由で、流水型の川辺川ダム建設を決定したのである。穴あきダムの効果や環境への影響に関するデータはほとんどないにもかかわらず、流水型ダムは環境にやさしいというイメージを県民に植え付けてしまった。
しかし、知事は流水型ダムを国に要望する際に、「特定多目的ダム法にもとづく貯留型『川辺川ダム計画』の完全な廃止」と「法にもとづく環境アセスメント、あるいはそれと同等の環境アセスメントの実施」を国に求めた。にもかかわらず、国はそれに明確に回答しようとしない。また、流域の首長には、「過去アセスを実施したので、必要ないのでは」旨の意見を言う者もいる。以前の川辺川ダム計画においては、アセスの実施など全く行われてないことを知らないのである。こういう治水協議会のメンバーの議論や結論に流域住民はまた翻弄されるだろう。
今必要とされる治水対策
山の荒廃は、日本全国が抱える問題である。シカの食害も今後広がる一方だろう。また、温暖化に伴い線状降水帯はどこで発生してもおかしくない。一方、ダムの緊急放流が起こす水害も多発している。今回、球磨川で起こった水害は、今後どこで起こってもおかしくない。
最近、国交省もダムだけによる治水には限界があるとして、「流域治水」を持ち出してきた。しかしその内容は、ダムや砂防ダム、堤防といったコンクリートの構造物で防ぐことをイメージしている。だが、今回の水害は、人工の構造物で水害を防ぐことには限界があることを示している。
今回見てきた被災の原因のすべてが、温暖化も含め、戦後の森林政策、河川政策、土地利用政策や技術等、規模の大小を問わず自然に対して行ってきた改変の積み重ねの上にあった人災であったと多くの現場を見て確信している。昔の日本人が自然や地形を読んで暮らしてきた知恵や工夫等も含め、この100年間の検証なくしては、今後安全な暮らしは守れないのではないかと、今回の災害は全国に問いかけている。
鶴 しょうこ 熊本県の自然保護活動に長年かかわり、川辺川ダム問題、荒瀬ダム撤去運動に関して流域のフィールド調査を実施。2014年、日本自然保護大賞特別賞「沼田賞」受賞。自然観察保護員熊本県連絡会会長。八代市在住。