未曽有のコロナ禍の沖縄から将来を展望する
南風原町議会議員 照屋 仁士
原爆の日に沖縄から
8月6日朝8時15分、広島の平和祈念式典にチャンネルを合わせ、6歳の娘と3歳の息子に説明をしながら、黙とうを行った。子どもたちに理解できるかはわからない。でもこの間、戦跡巡りのバスツアーや、普段から沖縄の至るところにある戦跡や米軍基地を一緒に見せながら、子どもたちに語りかけてきた。ふとした時に、「たくさん爆弾が落ちたんでしょ」なんて言葉が返ってきてびっくりさせられる。
8月9日の11時2分をどう過ごそうかと考えていた。正直に言うと、コロナ自粛で夏休みどこにも行けない子どもたちに、最後の週末、思い出をつくってあげたい考えが優先していた。「普段行けないところまでドライブしよう」軽い気持ちで出発した。狭い沖縄でも、本島南部に住む私たちにとって山原路は特別で、息子は初めてだったので少なくとも3年ぶりになる。11時2分は、目的地には間に合わず、車中での黙とうになった。
久しぶりの辺戸岬に着くと、新しい2階建ての建物ができており、1階が展示室、2階がカフェになっていた。屋上の展望台に上ってみると、うっすら北側に与論島が見える。
かつて米軍統治時代には、海を隔てた与論島とこの岬でかがり火を焚き、年に一度、中間の海上で本土復帰を訴える集会が行われたという。私たちは強風の辺戸岬北端へ歩き、そこに建立されている「祖国復帰闘争碑」に頭を下げた。この碑が建立されたのは1976年4月、本土復帰から4年後で私と同い年になる。なぜ復帰記念ではないのか、なぜ4年後だったのか、当時の方々の想いと状況が碑文に記されているので、ぜひ紹介したい。
祖国復帰闘争碑
全国の そして世界の友人へ贈る
吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなしとげた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み 平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
鉄の暴風やみ 平和の訪れを信じた沖縄県民は
米軍占領に引き続き 一九五二年四月二十八日
サンフランシスコ「平和」条約第三条により
屈辱的な米国支配の鉄鎖に繫がれた
米国支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声はむなしく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬せられた
しかし独立と平和を願う世界の人々との連帯であることを信じ
全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
二十七度線を断つ小舟は船出し
舷々合い寄り 勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
今踏まれている土こそ
辺戸区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ
一九七二年五月十五日 沖縄の祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのでもなく
まして勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確かめ合い 決意を新たにし合うためにこそあり
人類の永遠に生存し
生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
生きながらえ得るために 警鐘を鳴らさんとしてある
私自身や、今なお沖縄県民に託された想いを、この長崎原爆の日に再認識させられた。
辺野古新基地建設反対は全県民の願い
私は15歳から地域の青年会でエイサーや伝統芸能にふれ、地域を盛り上げる活動を続けるうちに、全県全国へと活動を広げさせてもらった(注:筆者は2015年から3年間、日本青年団協議会会長を務めた)。その活動や運動には、いつも道があり、先輩たちがつないでくれた歴史があった。青年運動を卒業し、地方議員として節目の10年目、政治にも歴史があり、そこに多くの政治家はもちろん、住民の不退転の決意と戦いがあったことを実感する。しかしいつも考えさせられていることは先の碑文にもある「揺るがない決意」がある一方で、「世の中の不条理」や「後進や世間への嘱望」を思い起こさせる。44年前に刻まれた言葉は、現在に置き換えてもその「嘱望」は満たされてはいない。
先日県議選を共にした選挙仲間から、ひとつの問題提起を受けた。「オール沖縄の辺野古新基地建設をめぐる闘いは、本当に実現すると思うか」という投げかけだった。少し言葉に詰まった。私の正直な気持ちも「ダメかもしれない」と揺らぐことは確かにある。でもこれまで県民が示してきた民意は、またあまりに理不尽な今の沖縄の状況は、絶対にこのままではいけない。併せてシュワブゲート前で体を張って座り込む方々、毎週地域の交差点で看板を掲げてスタンディングを続ける人たち、行動を共にする仲間を、裏切ることは絶対にできない。「辺野古容認」の保守的な人たちだって、誰も心から政府に賛同しているわけではない。あくまで現実を見据えた「容認」であり、基地賛成・アメリカ追従を望む県民はひとりもいない。
解決のために他者を「おもんばかる」
かつて先輩たちは「小指の痛みは全身の痛み」と沖縄問題を全国へ訴えた。そして今、玉城デニー知事を先頭に、「沖縄の問題を全国の問題ととらえてほしい」と訴える。しかしこの方法は今の政府に対し、また全国民に対し、果たして響いているのだろうか。これまで沖縄戦の多大な犠牲や、占領下で遅れた社会基盤、また近年はアジアへの橋頭堡としての可能性など、さまざまな視点で沖縄の課題解決を訴えているが、県民の望む未来像に、政府や全国が向き合っているとは決して言えない。これからの沖縄には新たな手法が必要だと感じている。
私がもし、安倍総理の立場なら、沖縄県民の声を聞くのは本当につらいと思う。
私たち沖縄県民は、自らの境遇を訴えるだけでなく、もっと他者を「おもんばかる」必要があるのではないだろうか。日本政府やアメリカの立場を考え、彼らが方針転換できるような口実を、ぶつかり争うだけでなく、相手の立場に立って積み上げていく必要があると思う。
そのためにも、アメリカや日本本土にどういう民意をつくれるかがカギになる。私は、広島・長崎原爆被害や世界の核兵器廃絶、いまだ返還への道筋も見えない北方領土問題、東日本大震災をはじめ全国で頻発する災害からの復興、深刻化する少子化と過疎化や、歴史認識と国際交流など、沖縄の問題を訴えるだけでなく、他者を理解し、共感し、課題に寄り添うことで長く活動を続けさせてもらった。活動を通して多くの仲間や先輩方に、沖縄に対する共感の言葉も頂いてきた。
私たち沖縄県民は、自らの主張だけでなく全国民を、世界を「おもんばかり」、さまざまな問題に目を向け、沖縄から全国各地の課題解決に奔走するような人材育成や政治が行えないものだろうか。私自身は、南風原の偉人「新垣弓太郎」に学びたい。
自らの歩みを見つめる
昨年から地元南風原町にある戦跡「沖縄陸軍病院南風原壕群20号壕」で平和ガイドを行っている。現在はコロナ自粛で休壕中だが、訪れるのは県外の方々が多い。いつも私は「どちらからいらしたんですか」「〇〇県にはこんな所がありますよね」と話しかける。自ら語る前に相手を気遣い共感する。そんなガイドを心掛けている。
娘と息子にこれからも語りかける。きっとこの子たちが迎える未来の沖縄が、少しでも先人の憂いを払しょくしているように、政治や活動を、皆さんと一緒に続けていきたい。
新垣弓太郎 1872年~1964年。南風原間切宮城村生まれ。彼は東京で、亡命中の中国の革命家孫文を助け、中国へ渡り、清朝を倒すため起こっていた辛亥革命の司令官となった。革命に勝利した孫文は中華民国の初代臨時大統領に就任した。孫文は、革命での新垣の功績をたたえ「熱血可嘉(ねっけつよむすべし)」の扁額を送った。新垣は、1923年帰郷、戦後は沖縄独立論もとなえた。