交渉力低下の背景に経済の構造変化
早川行雄(元JAM副書記長)
底上げ・格差是正には力不足
2014年春闘で久々にベースアップ(ベア)要求が復活して5年が経過した。18年春闘は、景気拡大がいざなぎ景気を超える戦後2番目の長期にわたり、企業業績も上場企業の多くが過去最高益を更新するという景況の下で、5年連続のベア要求が方針化された。一方、政府・官邸サイドも法人税の実効税率を25%程度まで引き下げる賃上げ優遇税制を導入するなどして、3%の賃上げを経済界に要請する「官製春闘」が継続された。
それにもかかわらず、18年春闘における労働側の取り組みは、要求論議の段階から必ずしも攻勢的に展開されたわけではなかった。連合の要求基準はベア(賃金改善)2%程度に定昇相当分を加えた4%程度であった。官邸が経済界に求めた3%を上回るものの、賃金低迷を打破するほどの迫力には欠ける。またJCM(金属労協)の大手産別はおおむね3000円(1%弱)のベア要求で、満額を獲得しても辛うじて実質賃金を維持できる程度の要求であった。ベア復活後も賃金要求が控えめとなっているのは要求根拠の考え方に混乱が生じていることにもよる。
今の議論を聞いていると、あたかも物価上昇がなければ賃上げを要求できないかのごとくだが、物昇確保は賃金の実質価値を維持するための当然の前提にすぎない。労使の賃金交渉は企業が算出した付加価値の配分を巡るものであり、その意味で1984年に経済・社会政策研究会が提唱した「実質賃金上昇率を実質生産性上昇率と等しくする」という逆生産性基準原理は一定の見識を示すものであったが、今日の要求策定論議ではそれすらも考慮の外に置かれているかのようだ。
連合が4月6日に発表した18春闘の回答状況(第3回集計)によれば、企業規模にかかわらず昨年同期を上回り、ベア部分については中小の引き上げ率が大手を上回っている。とはいえ全体の賃上げ率は3%に遠く及ばず、家計の購買力上昇や規模間格差是正の観点からは心もとない数字と言うほかない。実質賃金はこの2月まで3カ月連続で前年割れとなっており、今春の賃金改定以降も大きな変化は望み薄だ。
今春闘では3月の集中回答日にトヨタの労使が月例賃金の引き上げ額を公表しないという事態が生じた。トヨタ労組は実質的に戦線を離脱し企業内に引きこもってしまった。トヨタの経営陣はメーカーと関連企業の賃金格差の是正を言うのだが、そのためにはベアを抑えたり隠したりするのではなく、関連企業からの購買単価を引き上げることが不可欠なのである。つまり連合が提唱するサプライチェーン内における付加価値の適正配分を実践することだ。前述のように賃金交渉は労使間における付加価値の配分を巡るものだが、付加価値(売上高–中間投入)は適正な単価で販売できなければ圧縮されるばかりだ。パイ(付加価値)が確保できなければ中小の賃上げによる格差是正もまたあり得ない。中小企業は賃金が低く労働分配率は高いという不条理に立ち向かうことが必要なのだ。
何が賃上げの障害か
従来の基準からいえばやたらと長い景気回復が続き、大企業の業績は史上空前。労働力需給も人手不足が喧伝されるほどに逼迫している。それなのに賃金が上がらないのはなぜか。換言すればなぜ労働組合の交渉力は低下したのか。その根因を探るには一見順調そうに見える経済環境の再検討が必要だ。20世紀の高度成長期にあっては好不況の循環はあっても成長トレンドは右肩上がりであった。しかし現下の名目GDPは530兆円程度で、過去のピークであった1997年度とほとんど同水準となっている。経済の「成熟」によって拡大は止まり定常状態に入ったと見るべきだろう。
しかし企業は拡大再生産の時代と同様に増益基調を継続すべき宿命を負っている。経済の定常化は個々の企業にとっては売上高の停滞であり、その下でも利益を拡大するには人件費を抑制して損益分岐点を下げるしかない。そこで登場したのが旧日経連が1995年に提唱した雇用のポートフォリオである。以降、非正規労働者の比率は著増して4割に迫り、今日ではクラウドワーカーのような非雇用就労も拡大している。こうした産業予備軍的労働者層の拡大が労働組合の交渉力を弱体化させていることは疑い得ない。
昨今、グローバル化が底辺への競争を加速し、デジタル化が雇用の二極化を促進しているとの所見も聞かれるが、成長経済下の海外生産拡大は棲み分けの問題であったし、デジタル化による効率上昇は時短に配分すればよいだけの話だ。これらが雇用の劣化をもたらすのは必然的なことではなく、労使の力関係を反映した攻勢的な経営戦略の結果であることをみておかねばならない。現在の労働力需給が逼迫しているように見えるのも、低賃金・短時間労働の不安定な雇用機会を大量に創出した国策ワークシェアリングの結果であり、マンアワーで見た労働投入はほとんど増えていないため、正社員の賃金上昇への圧力とはなり得ないのである。
「働き方改革」で焦点化する労働時間問題
春闘における労働組合の交渉力低下の背景には、定常状態経済の下でなお増益を維持しようとする経営戦略による雇用の劣化があった。これらの労働者は労働者保護法の適用も難しく労働基本権の行使もままならない、あたかも資本の原始的蓄積過程に退行したような劣悪な働き方を強いられている。
一方、今国会では「働き方改革」関連法案が審議されようとしている。これらの法案は行き過ぎた雇用破壊を是正しようとするものでは決してない。相対的には改善とされる項目もしょせんは限定正社員など低賃金正社員層の形成と連動した低位平準化の「同一労働同一賃金」であり、安全配慮義務・健康配慮義務を空洞化させる過労死合法化の「残業上限規制」にすぎない。先に見た不公正な付加価値配分の結果として中小企業にはそれでも過酷な規制となりかねないが、大企業にとっては総額人件費抑制の格好の手段となる。
一連の法案における最大の焦点は「高度プロフェッショナル」職種の労働時間規制適用除外である。一般に労働時間に関する協約は、賃金のようにインフレで影響を相殺するといったごまかしの利かない非妥協的な協約である。したがって交渉力のない組合は時短を進めることなどできない。経営側にしてみれば時間管理をなくして賃金との連動を外すことはまさに垂涎の制度に違いない。この制度は正社員をも労働者保護法の埒外に置く労務政策に道を開くものであり、ここにも経済成長が望めない中で増益基調を維持しようとする経済界のなりふり構わぬ攻勢を見て取ることができる。
最初のメーデーの要求が8時間労働制であり、今年のドイツIGメタルの産別交渉における最重点課題が週28時間制(育児・介護時)の導入であったように、労働時間を巡る攻防は労使交渉における最重要課題のひとつである。この課題に敢然と取り組まなければ労働組合は存在意義を失うであろう。