広範な国民連合主催 安全保障政策研究会での講演
柳澤 協二さん(国際地政学研究所理事長、元内閣官房副長官補)
私はここ2年間、週に2回ずつくらいのペースで講演したり、テレビに出たり、新聞でコメント書いたりしてきました。その中で、各地でお話していると、「安倍はケシカラン」とよく聞きます。しかし、そう言って気持ちは収まるかもしれませんが、物事は何にも変わらないんですね。つまり、安保法制やあるべき外交についての議論を聞いていると、「憲法を守れ」という議論と、「日本を守れ」という議論がまったくかみ合わない状況があるわけです。
私はもうちょっと、本当に腰を据えて、共通の議論ができるものをつくっていかなきゃいけないなという思いです。今、その意味で、「戦争学の論理」を使って、戦争をいかにしないか、あるいはしないように導くかということを考えています。そして、「市民目線の戦争学」のようなテーマで、本が書けたらいいなと思っています。
私も「戦争」を経験していないので、この問題をどう提起していいのか、すごく難しいんですね。ただ、やはり、その問題をつかまないといけない。私は少なくとも、安倍さんが戦争の問題を知っているとは思わないので、先に知った方が勝ちだなとも感じています。
だから、「安倍ケシカラン」ではなく、もう一度、そういう原点を置き直して、モノを考えていきたいという思いがひとつあります。
私は、この10月に70歳の誕生日を迎えました。「どうせ、オレが生きているうちにできることはそう大したことはないよ」とも思っています。そこで、この国を次に担っていく人たちにどういうメッセージを伝えられるかというところに標的を置かなければいけないなという思いがあります。本日話す内容はそうした思いの一端です。
戦争は1つの戦場だけで終わらない
先日、陸上自衛隊幹部学校の幹部高級過程の3人の学生に対して、私が主宰する地政学研究所で講義をしました。今日のお話は、その内容とほぼ同じです。だから、一等陸佐相手の話と同じレベルですが、それでも肩肘(かたひじ)張らない話し方でやっていきたいと思います。
やはり、「平和主義の国民意識」というのは相当国民に根強い。「戦争はいけない」って誰でも思っています。そんなことは改憲派だって思っているはずです。
しかし、一方で「中国が攻めてきたらどうする」ということが、多くの国民にとって心配になっている部分もあります。確かに、冷戦のときと比べても、小競り合いみたいなことはあってもおかしくない状況が現にあるわけです。
ただ、そうした事態が心配であるがゆえに、そうした恐怖から感情的になるのではなくて、どう理性的にこうした問題を考えるかが必要なときではないでしょうか。しかし、実際には「どうやって戦うか」みたいな話ばかり出てくるわけです。
この間も、九州のあるテレビ局に呼ばれて、長崎県にある自衛隊駐屯地での水陸両用部隊の訓練についてのコメントを求められました。
相手が「これで尖閣を守れるんですか」と聞いたから、「ちょっと、待って」と。私は「尖閣を取られるということは島の周りの制海、制空権を相手が全部押さえているということ。そこにオスプレイをもってきても、それは話にならないんです」と答えました。また「さりとて、相手が来る前にこっちが先に上陸したら、中国は『それ見ろ、日本軍が出てきた』と向こうが軍隊を出す口実になる」とも話しました。だから、こういう部隊が能力を高めることは大事かもしれないけれど、それをどう使うかというのはきわめて政治的に難しいことです。
もう、尖閣諸島をめぐる問題は、日中両国にとって「名誉の問題」「民族のメンツ」になっています。ナショナリズムの象徴になっている。これはもう譲りようがないものになってしまった。
「中国軍に対して、自衛隊だけで尖閣は守れますか」とよく聞かれます。私は「1回か2回は勝つ」と言います。しかし、それで終わりではない。相手は名誉が傷つけられたから、さらに余計にしゃかりきに反撃するわけです。だから、「1つの戦場で勝つ」ということが、「戦争の終わり」でもなく、問題の解決ではないということです。
「戦争の原因は利益と恐怖と名誉である」というギリシャのトゥキュディデスの言葉があります。あるいは、クラウゼヴィッツの戦争と政治との関係論の概念。イギリスのIISS(英国国際戦略研究所)という有名なシンクタンクを創設したマイケル・ハワードはその本の中で、「善い戦争って何だ」という問いに対し、「それは、戦争の結果、長続きする、相手が受け入れる秩序ができる。それが戦争の目的だ」とそういう言い方をしています。
マーチン・クレフェルトという学者は、1980年代の終わりごろに、「次の戦争を起こすのは、岩山の洞穴に隠れた老人がやる戦争になるだろう」と、まるで「9・11」を予言しているような本を書いています。ISIL(イスラム国)のような自爆テロの論理は「死ぬことが目的」です。「死ぬことが生きることよりも、もっと大事なことで、死ぬことをいとわなくなるから戦争が始まる」という分析をしています。
私は常に考える前提として、こうした人たちの考えた枠組み、概念を使っています。
また、私が戦争を分析する上で思うことは。戦争というのは、さまざまな目的や動機があって、すべて同じではないということです。
例えば尖閣諸島をめぐる日中の争いです。これは、主権の争いであり、これは古典的というか、18世紀以来のヨーロッパの国々がやってきたような主権の争いということになります。
一方、アメリカと中国の争いは、共に主権が脅かされるわけではない。結局、南シナ海、西太平洋をどっちの勢力下に置くかという、覇権の争いです。
ですから、この2つの戦争は論理が違うので、これをいっしょのように考えてはいけない。
また、「承認の戦争」というのは、まさにISILのような、自分のアイディンティティのために戦うということです。それから、「生存の戦争」というのがあります。
いずれにしても、多くの戦争というのは、背景に政治目的があり、それが何かということを考えなければいけない。それによって、戦争をどうやって制約するか、どうやって終わらせるかという一種の「相場観」を分析をしていかなくてはいけないと思います。これはまだ私の中で、完結していない段階でありますが。
さっきも触れた尖閣諸島をめぐる問題ですが、あそこは石油が出るわけでもない無人島です。占領しても実益はないわけです。しかし、争いがあるのは、「自分のモノだ」という主権の問題です。実際、日中が尖閣諸島をめぐって戦争で争えば、私は今までの自衛隊の技量からいって、最初の1回目は勝つと思っています。
しかし、2回目は相手だって必死で反撃するわけだから、1回で終わりじゃない。自衛隊が強くて、尖閣を取れないと思ったら、自衛隊の基地にミサイルを撃ってくるでしょう。そういう形で戦火が拡大することもあるわけです。
2013年末の「防衛計画大綱」では、「離島防衛には海上・航空優勢が必要。取られたら速やかに奪取」とありますが、制海、制空両権がなくなった下ではそれは不可能です。つまり、「戦場で勝てば、次の戦争が待っているよ」ということなんです。だから、相手が島を取ろうという意図が続く限り、終わりはない、勝利はないということです。
戦争を制約することこそ本来の政治の役割
もう1つは、国民が受け止める「命の値段」の問題です。結局、戦死者がたくさん出る戦争を覚悟しないと、島の防衛というのを語れません。
いったん、戦争が始まれば、双方ともに国民感情が背景にあるがゆえに、何か戦果を示さなければ終われません。これは「主権の象徴」であるわけですから。「主権を守れ」っていう言葉に反論のしようがないですね。「主権を守らなくていいのか」と言われれば、「それは守らなきゃいけない」となります。こうやって、国民感情が沸騰すれば、もう止めるものがないわけです。止める有効な論理はない。だから、どんどん拡大して、やがて九州にミサイルが飛んでくるような事態にもなってしまいます。
しかし、あの尖閣という無人島を守るために国民の生命を犠牲にするわけですから、それは「命か、主権か」というすごい究極の判断になってきます。
また、尖閣をめぐって日中が戦争になれば、少なくともお互いに経済は大きな打撃を受けます。とくに日本の方がダメージは大きいと思います。中国から「爆買い」する観光客も当然、来なくなるわけです。
そうすると、「これはどう考えても、あの無人島のために戦争するのはお互いに損だよね」っていう結論に行き着くはずです。
こうした戦争を貫く全体像をもっと表に引っ張り出して、議論をしていかないといけないと思います。
少なくとも、この問題の発端は民主党・野田政権時代の「尖閣国有化」にあるわけです。政治が引き起こした危機です。それを戦争で解決するというのが、一番の愚の骨頂です。むしろ、戦争になりそうなときに、それを防ぐのが政治の本来の役割であるはずなのに、政治の問題を戦争で解決するというのは、絶対に出来できないとずっと思っています。
クラウゼヴィッツが言っていることは、「戦争というのは、無限の暴力の応酬になっていく」「最後の1人まで殺して拡大していく」という「戦争の文法」です。そして、その「論理」は「政治が決める」という言い方をしています。戦争にはそれを起こす政治の側の目的があって、その政治が、戦争を拡大させたり、あるいは制約するという関係を解き明かしているわけです。だから戦争について議論するときには政治が何を目的にしているかということをしっかり踏まえて、考えなければいけないということです。
安倍さんは12月にも山口県にロシアのプーチン大統領を呼んで、北方領土問題を「新思考」で解決しようと言っています。尖閣と違って、北方領土は、こちら側が不当に取られているわけですから、取り返しにいったっていいわけです。ところが、安倍首相はこれについては尖閣と違って経済協力などの「新思考」で解決しようとしている。
去年、ロシアはウクライナに攻め込んで、東部を支配下に置きました。あのときにアメリカ含めて各国は何も手の打ちようがありませんでした。あのとき帰属を決める住民投票が行われて、「ロシアに帰属しよう」となって、それがロシアにとって決め手になりました。北方領土には今はロシア人しかいないわけです。
結局、どこかで政治の側が「天の声」になるような基準を出さないといけないのでしょう。
クラウゼヴィッツは「三位一体戦争」といって、主権をめぐる戦争は国民と軍隊と政府が織りなしているとしました。国民感情が燃え上がらなければ戦争できないという。だから、逆に戦争を防ぐには、国民感情をどうコントロールするかが大事だということです。
「自衛官が死ぬのは覚悟の上だからしょうがないでしょ」という話もありますが、自衛官だって、日本国民です。「もしかしたら、自分の子どもや家族が戦地に行くかもしれない」と、わが事として考えたときに、国民がもっと戦争を制約するために関与していくことになるんだろうと思います。
「大国のノスタルジー」に駆られる安倍政権
実は自衛隊がもっと想定しているのは、尖閣よりも南西諸島の宮古島、石垣島などで、相手にとっても相当に軍事的に利用価値があります。中国海軍が太平洋に抜けようとすれば、宮古島と沖縄本島の間の約300キロ弱の水道を通っていくわけです。そこを自衛隊が両側から挟み撃ちにすれば、中国海軍は通りにくくなります。
だから、自衛隊が今行っている「島しょ防衛」というのは実はその面がメインなのです。冷戦のときに、日本の防衛標語は「3海峡の防衛」でした。ウラジオストックの極東ソ連海軍が太平洋に出てくるためには、宗谷、津軽、対馬のどちらかを通る必要があり、そこを自衛隊がしっかりと固めれば、ソ連海軍の動きを封じ込められ、アメリカに優位になるということです。これと同じ話なんですね。
しかし、これは、米中の本気の戦争なんですね。中国は「第1列島線」といって、日本列島から、台湾、フィリピンを経て、インドネシアに至る内側にアメリカ海軍が入ってくることを許さないという「接近拒否の戦略」を取っています。
それに対してアメリカは、「エア・シーバトル構想」を打ち出しています。
いざ、中国との戦争が始まれば、沖縄や西日本にいる米軍はいったん、沖縄からミサイルが飛んでこないところまで退くんですね。当面は自衛隊に任せておいて、その間に態勢を立て直して、相手のミサイルが届かない遠方から、中国全土のミサイル施設を全部叩き潰すという戦争の仕方を考えているといわれています。
しかし、これはアメリカの軍事専門家の中でも「そんな戦争出来ない」という見方をする人の方が多いのです。米中全面戦争の中で日本がその役割を担わされようとしている点については誰も言わないですね。
1978年の日米ガイドラインでは、日本有事にはアメリカ軍が来援することになっていました。当時想定されていたのは、ソ連とヨーロッパ戦線で争って、その分、極東がガラ空きになっているときに、ソ連が攻めてくるかもしれないということでした。それに対して自衛隊は1カ月間、持久して全滅覚悟で守り抜き、その後、アメリカが来援して、ドラえもんのように必要なモノを全部出してくれて、そこで全部おさめるというシナリオでした。しかし、それが今はないんですね。
だから、こういう米中本気の戦争になったときの自衛隊の役割、あるいはどこまでアメリカに期待できるか分からないという状況です。
昨年4月に改定された、最新のガイドラインでは、日本の防衛は、島しょ防衛でも、ミサイル防衛でもなんでも自衛隊が主体となってやるとなっています。アメリカ軍は「補完をします」と、非常に素っ気ない書き方になっています。そこでいう「補完」とは何か分からないということです。
その違いはなんだというと、現在の米中対立構造が、冷戦当時の米ソ対立構造とは性格が違うということだと思います。
冷戦時代は、日本はアメリカの本土防衛にとっての防壁であったわけです。ですから、日本防衛がアメリカ防衛でもあったわけです。
しかし、今は中国との対立関係の中で、まだ中国が本格的な戦争を起こす能力がないということなのか、あるいは米中両国が全面戦争をしないと認識しているのか、だとすればそれはなぜか、そうした面をもっと分析していくことで、何か役に立つ答えが出てきそうな感じがしています。
ここで考えるのは、南西諸島の争いのような覇権争いにどうかかわるのかということです。
最近、フィリピンのドゥテルテ大統領が物議をかもしています。日本と同じようにアメリカの同盟国であり、お互い中国との最前線に立たされているわけですね。
日本は、アメリカにもっと寄り添って守ってもらおうという選択をしていますが、フィリピンは「アメリカなんて出て行っていい」って言っています。
だから、同盟関係というのは、なにも日本のような生き方だけが唯一の答えではない。日本は強い方に乗って、アメリカと「運命共同体」になろうとしています。
一方、フィリピンは米中どっちが勝ってもいいようにしているという選択です。私は、この方が実は賢いし、知恵があるやり方かなと感じています。
韓国も結構、反米感情が強いんですね。大統領選の結果を左右したりもします。
こうした国々と日本は何が違うのか。地政学的には脅威が目の前にいて、アメリカがずっと後ろで控えているというこの関係は変わらないんだけど、何が違うのか。
日本になくて、フィリピン、韓国両国にあるのは、昔、大国に支配されたという、ルサンチマンだと思うんです。だから、その部分が非常に敏感に反応してくるわけです。日本は逆に支配した側ですから、「昔、オレは大国だった」というノスタルジーがあって、大国であり続けたいみたいなところが、日本の生き方を規定しているんじゃないかと思います。
「恐怖」より安心感与える外交こそ
もうひとつ、「北朝鮮が核保有国になった」「北朝鮮のミサイルから守るためには、やっぱり集団的自衛権だよね」という話が全然、脈略なく出ています。
そこで、MD(ミサイル・デフェンス)で北朝鮮のミサイルを打ち落とそうということですが、100%打ち落とすことは到底無理です。何発かは日本に落ちてくるわけですね。それが、ミサイル防衛の限界ですね。
そこで、「アメリカの報復力が抑止力になる」という考え方が出てきます。しかし、そのときは日本にはもうミサイルは落ちているという状況です。だから、アメリカの抑止力というのも、日本人の命を守るという意味では完全ではないということです。
最初に敵のミサイル基地を叩き潰すという先制攻撃だって、すべてのミサイル基地を一気に破壊することは無理です。だから、アメリカもなかなか手を出せないんですね。
トゥキュディデスの「利益と恐怖と名誉」では戦争の動機の1つとして、覇権をもつ国が、自分の覇権が脅かされるという恐怖を挙げています。現状維持国が「このままではやっていけない」という恐怖から戦争を起こすケースの方が多いんですね。いずれにしても、軍事力だけで、ミサイルから日本の安全を守り切ることはできないということです。
そこで考えなくてはいけないのは、「ミサイルが飛んでこないようにする」という課題です。そういう言い方をすると、「お前は現実を見ていない」とか言われますが、私は「それこそが現実だろ」って思うんですけどね。
なぜ、北朝鮮はミサイルを持ち、核を開発するか。アメリカが怖いからだと思うんですね。北朝鮮は本気なんですね。イラク戦争では当時のブッシュ米大統領がイランとイラク、そして北朝鮮を「悪の枢軸」と決め付けて、実際にイラクのフセイン政権を武力で転覆させたわけです。あれを見て、北朝鮮は本当にショックを受けたと思いますよ。「イラクは核をもっていないからやられた」「自分たちは本当に核を持たなきゃダメだ」と、かれらはあのときに本当に心底思ったんじゃないかと思うんです。ここに、核を持つ動機があるとすれば、北朝鮮を脅していたら、かれらは余計に核を持つ意思を固めるばっかりじゃないかということです。
つまり、「抑止力」も結局は脅威を与えるということなんですね。「抑止力」はそういう非常に危険な武器になってくるわけです。
北朝鮮が日本にミサイルを撃ってくるとすれば、それは三沢や岩国などの米軍基地にです。そうした基地から、自分たちをやっつける爆撃機が飛んでくるからです。そういうことを考えてみると、「米軍基地があるから、日本にミサイルが飛んでくる」という結論に行きつかざるを得ないですね。
私のような防衛官僚もそうなんですが、アメリカの強大な核戦力があれば、それが、最後のよりどころだと思っていた。それが北朝鮮という、「弱者」の一発の核で逆に抑止されてしまうのであれば、「核抑止力」って一体なんなんだという話になって、それは新しいテーマとして非常に興味深いなと思います。
結局、北朝鮮が核を持ったとすれば、不愉快だけどその現実を認めざるを得ないと思います。もちろん、核保有を正当化するのではなく、その現実の上でその核を使わせないようにしなければならないということです。「核を使わなくてもいいな」という安心感を与えなきゃいけない。
そうしたことを考えるなら、アメリカのオバマ政権が考えていた「核の先制不使用宣言」というのは、価値があったと思うんです。アメリカが「核を先に使わない」と言って、北朝鮮が核を持つ意味はないという説得だってあり得たのではないでしょうか。
私は、今まで欠けていたのは「抑止力」ではなくて、「安心感」を与えることだったんじゃないかと、北朝鮮の核実験を見て思い至ったわけです。
トゥキュディデスが言う、「恐怖から起きる戦争」というものを考えたときに、安易に恐怖で相手を追い込んではいけないし、そのためには「強い側」が、必要以上の余計な恐怖を持ってはいけないということだと思うんですよね。こちらの恐怖は、必ず相手の恐怖になって跳ね返ってくるわけだから、そこの管理をどう理性的にしていくかということが課題になっているということです。
身の程知らずのプライドは危険
それから、南シナ海の話ですが、ここで問題になっているのは、フィリピンの主権であり、ベトナムの主権の問題です。日本の主権の問題ではありません。だから、日本が自分の主権の問題として対応してはいけないということです。そこで日本がアメリカによる覇権戦争をお手伝いしたら、中国は遠いアメリカ本国より、目の前の日本に向かってくるわけです。
ちょうど8月上旬に、尖閣に大量の中国海洋局の船が来て、領海侵犯を繰り返しました。その直前に、安倍さんがASEAN(東南アジア諸国連合)首脳会議の場などで、ハーグの仲裁裁判所における中国の主張を否定した判決を持ち出して、中国に対して「法の支配」ということを盛んに言って攻め立てました。
これに対して中国は、尖閣へ大量の船を送ることにより、「南シナ海の話は域外の国が口出しするな。そんなことよりも、自分の方を心配したらどうか」というメッセージを出したと私は思いました。
南シナ海では去年の11月から、アメリカが「航行の自由作戦」で、イージス艦を中国が埋め立てた島の周りをウロウロとさせています。イージス艦というのは、敵地攻撃能力のない船です。つまり、アメリカは「ここは中国の海ではない」というのと同時に、「本格的な戦争をする気はない」というメッセージを送っていると思います。
こうした、アメリカと中国がどこで落とし所をつけるかという、そのせめぎ合いだと見ています。そこへ日本が出ていくことは、アメリカにとっても迷惑な話です。「日本が出てきたら、話がややこしくなって米中の話が進まなくなるから勘弁してくれ」っていうことではないかと、私は推測しています。「あそこが重要影響事態です」なんていうのはあり得ないだろうと、私は思っています。そんなことをすれば本当に「存立危機事態」になってしまう。
要は米中のような覇権国同士の争いに、日本のような軍事的中級国家がおっとり刀で出てくるのは、アメリカにとっても自分がコントロール出来ない要因が1つ入ってきちゃうという意味で迷惑だということです。
日本が、中国という大国との戦争をしても、さっき申し上げたように最初の1回は勝てたとしても、長期戦になったらそれは勝ち目がないんですね。中国は毛沢東の時代、アメリカでもソ連でも攻めてきたら、人民の海の中に導き入れて消耗させると言っていた国です。かつての日本軍も昔、それでさんざんな目に遭ったわけですよ。他方、太平洋から上陸したら、すぐ日本海に抜けられちゃうような、そういう狭い島国でまともな戦争は考えられない、出来ないんですね。そのことをまず前提にして考えなければいけないと思います。
ですから、南シナ海問題では、日本は余計なことをしないでしばらく見ているのがいちばん。まして「一緒に戦う」と言う必要もない。黙って見ているのがいちばん賢明だと私は思います。
アメリカに守ってもらうため、そのお手伝いをしなくてはという発想で今、安保法制は出来たけど、覇権戦争の始まりと終わり、妥協の仕方はあくまで覇権国が決めます。そこに、日本のように「お手伝い」に入っても本当にただの「お手伝い」で終わってしまい、何が国益なのか全然分からなくなります。
それでも、安倍さんのように南シナ海問題で存在感を示そうという発想が出てくるのは、「大国としての沽券(こけん)にかかわる」という、「大国のプライド」があるからなんですね。それは身の程知らずのプライドですね。
少なくとも、対米従属を戦後一貫してやってきたのは、冷徹な計算にもとづく自覚的な選択だった吉田ドクトリンだったと私は思っています。それは「平和の代償としての対米従属」だったといえます。
しかし、今、安倍路線は一体何を代償として得ようとしているのか。「平和の代償」という意味では、あまりにも代償が大きすぎます。むしろ、「大国のプライド」を維持するために、アメリカに余計従属するという、それ自体矛盾に満ちた「大国の代償」というのが、安倍路線の発想にあるんじゃないかと見ています。
安倍さんが一生懸命やっている「地球儀俯瞰(ふかん)外交」では、原発や鉄道、武器などを売り込む一方、「法の支配」を中国に向けて叫んでいます。これは、大国外交の「お手軽バージョン」みたいな話で、各国の原発、鉄道など基本的なインフラを押さえることで、その国を日本の影響下に置こうという発想が透けて見えます。
アメリカ頼りからの脱却が課題
「アメリカ軍が日本にいなくなったら、毎年20兆円の防衛費が必要だ」といわれます。聞くと「空母を2隻もたなくてはいけない」という話が出てくる。「ちょっと待て、空母って何のために持つんですか」「それはアメリカ軍は、アメリカ本土から遠いところで軍事行動をするから必要なわけですよ」。
日本が中国や北朝鮮との戦争するとしたら、もっと近くの敵地攻撃するのであって、空母は必要ないわけです。使い道がない空母なんて持たなくていいという話です。
「専守防衛」の自衛隊では、飛んでくる火の粉は払うけど、火の粉の元を叩きにいけないということでした。だから、日本に駐留するアメリカ軍にそこは何とかしてもらおうと思っていた。しかし、現在はアメリカにその気があるかどうか分からない状況になってきた。そもそも、そういう戦争が起きるかどうかも分からない状況になってきている。だから、「日本を守るために空母がいるか」という問いは、実はそういう問題ではなくて、どこまでの戦争を想定するかっていうことと、そのアメリカがどの程度、来援してくれる意思があるか……まあ、能力を疑う人はいませんから、アメリカが来援する意思があるかどうかがカギなのでね。そこにアメリカがいることがカギではないんですね。
そういうことを考えると、私も有事の際だけアメリカ軍が駐留する「常時駐留なき安保」という考え方はあり得ると実は思っているんですが。
「護憲派」である私も、今までは「日本は専守防衛で、他国に脅威を与えるような軍事大国ではない」と言ってきました。しかし、それが言えたのは、在日米軍がいて有事には背後から助けにきてくれるという安心感が前提でした。アメリカという軍事大国の存在とセットになることによって、日本が軍事大国にならないという政策が、初めて可能になったのではないかと思うと、それは「ダブルスタンダード」ではないかという反省があるんです。
このアメリカに頼っていたところからどう脱却するかということが問題です。日本が、米軍抜きで自前で防衛を賄おうとしたら、それは20兆円はかかるでしょ。そこをどう判断するかがポイントになってくると思います。この点はまだ、私も自信をもって言えませんが。
「専守防衛」こそ日本の生きざま
結局、戦争になったときにどういう判断をするかが問われてきます。「皆、死ぬまで戦いましょう」と言うのか、あるいは手を上げて占領される、そこは本当に国民の選択だと思います。仮に戦争が始まったら、できるだけ早く終わらせることを考えなくてはいけないし、そういう専守防衛に徹するのが日本の生きざまに合っているんだろうというふうに思うんです。
ただ、こういう議論はなかなか通じないんですね、特に「脅威論」の前ではね。そこをもう少し何とかしたいから、私も感情的になって「日本が主権を自分で守れなくて、何の主権だ」と言う。そうすると話は通じるけど、相手と同じレベルにされちゃうと思うし、ここは少し悩ましいところではあるんですが。
ただ、結局、大事なことは、そうやって「白旗を掲げる」と失うものがあるわけですね。それをしっかり認識することが必要だと。私は「降伏する覚悟」も選択としてあり得ると思うんですね。言いたいのは、「全滅しても戦う」のか、「白旗掲げて屈服するのか」というその覚悟が取れないゆえに、足りないところはアメリカに頼るという根拠なき期待感でお茶を濁していた現実があるということです。
私はまだ「これだ」という結論は出せないけれど、やっぱりそういう国であるとしたら、自分からもめごとを起こしちゃいけないし、仮に戦争が始まったら、できるだけ早く終わらせることを考えなくてはいけないし、そういう専守防衛に徹するのが日本の生きざまに合っているというふうに思います。
(本稿は、広範な国民連合主催の安全保障政策研究会での柳澤協二さんの報告をもとに編集部の責任でまとめたものです。なお、この研究会は今後も随時開催します。参加希望者は、全国事務局までお問い合わせください。)