ウクライナ戦争1年―安保3文書閣議決定 石破 茂


戦後安全保障政策の大転換とは?
戦争を知らない世代は慎重の上にも慎重さが求められる

衆議院議員・元自民党幹事長 石破 茂

 岸田政権は、「安全保障政策の歴史的転換」と言って大軍拡政策を進めようとしている。衆議院議員の石破茂さんは衆院予算委員会で2月15日、10年ぶりに質問に立ち、質問時間の大半で岸田総理の安全保障政策について質し、自説を展開した。さらに、「サンデー毎日」のインタビューにも答えた。本誌は石破茂さんにインタビューした。(見出しとも文責編集部)

 岸田総理も私も、同じ昭和32(1957)年生まれで、戦争を知らない。私の政治の師である田中角栄先生は、「あの戦争に行ったやつがこの世の中の中心にいるうちは大丈夫だ。いなくなったときが怖い」とおっしゃっておられた。まさしくそういう時代になったからこそ、角栄先生がそのあとに続けておっしゃった、「だからよく勉強してもらわねばならんのだ」との言葉がとても重い。及ばずながら自分なりに努力しているつもりだが、知らないことが多いと日々反省している。
 岸田総理がおっしゃる「戦後安全保障政策の大転換」について、何が変わるのかをもっと明確に示さなければならない。
 戦後の安全保障政策の根幹と言われてきた「専守防衛」はまったく変わりません、「非核三原則」も変わりません。じゃあいったい何が変わるんですか。「大転換」と言うわりに防衛費を増やす話ばっかりじゃないですか。そういう批判に真摯にこたえなければならない。
 日本を取り巻く安全保障環境は確かに大きく変わっている。ただ、それは「今日のウクライナは明日の日本」だとか、「台湾有事が急迫」とかいう簡単な話ではない。以前と比べて不安定だからこそ、真摯な外交努力の積み重ねが求められており、この点も徹底議論し検証すべきだ。

冷戦中の安全保障政策

 「専守防衛」「非核三原則」についても、「変わらない」と思考停止するべきではないと考える。冷戦時代ならそれでよかった。米ソの間に相互確証破壊(「核先制攻撃を受けても、相手方の人口と経済に耐えがたい損害を確実に与えるだけの核報復能力を温存できる状態」=朝日新聞社『知恵蔵』)が効いていたし、同盟国たるアメリカの軍事力は圧倒的に強かった。
 けれど今、中国の軍事力はもう冷戦時代の100倍ぐらいにはなっただろうか、たいへんな実力をつけており、国連安保理の常任理事国たるロシアがウクライナに侵攻してしまった。
 アメリカの軍事力も相対的に落ちている中にあって、冷戦時代と同じ発想でいいわけがないと考えるべきだ。
 「専守防衛」は軍事合理的に考えれば、いちばんいいと言えるコンセプトではない。「専守防衛」は、防衛白書に書いてあるように、相手から攻撃を受けて初めて自衛権を行使する、しかもその自衛権行使は必要最小限度にとどめる、という防衛構想だ。これは、自衛隊は憲法で禁止されている「戦力」にはあたらない、なぜなら自衛隊は「必要最小限度」の自衛力にとどまるからだ、という論理構成から導き出されている。
 「必要最小限度」というが、北朝鮮に対しての必要最小限度、中国に対しての必要最小限度、ロシアに対しての必要最小限度、それぞれ違うに決まっている。一つの「必要最小限度」ですべての国に対応できる、そんなに便利な物差しは世の中に存在しない。
 このように、「専守防衛」は軍事用語ではなく政治用語であって、それが国民の生命と財産を守るためにいちばんいいかというと、そうではない。かつて統合幕僚会議議長の竹田五郎氏は、軍事合理的には非常に疑問だ、自衛隊にとっては非常に負担が重い、そのことをよく認識してほしい、と発言し、即座に首が飛んだ。
 防衛戦略としての「専守防衛」はものすごく難しい。基本的に持久戦で、水・食料があり、燃料があり、弾薬があり、住民が納得する。それではじめて持ちこたえることができる。今の日本は、ほんとうにこの戦略を維持できるだけの能力を備えているだろうか。

「核の傘」を検証する

 「非核三原則」は、佐藤栄作内閣の昭和43(1968)年に確立された。冷戦真っただ中のこと。これも政治用語であって、非核三原則が日本の独立と平和、国民の生命と財産を守るのにいちばん適していた、というわけじゃない。つまり、この政策にも政治的スタンスの代償としてのリスクがあるわけで、それは一回、国民の前に検証し、明らかにして、今後はそのリスクを認識して政策を決めて進めなければいけない。
 防衛庁長官時代から言っていることだが、安全保障にパーフェクトなんてありえない。「核の傘」にしても、破れ傘かもしれないし、身体がはみ出る小さな傘かもしれないし、気が向いたら差してくれるようなものなのかもしれない。それでも、ないよりはいい。
 だからこそ、必要なときに必ず差してくれるよね、ちゃんと大きさあるよね、穴はあいてないよねっていう検証はいつもやっておかないといけない。実効性を常に確認する、それがニュークリアシェアリング(核共有)の本質だ。
 NATOのファクトシートにも書いてある通り、核共有と言ってもそれは核兵器を共有することではない。核抑止が極めて政治的、あるいは心理的な戦略である以上、提供国と被提供国双方の利益、リスクそして意思決定過程、これを共有するということだ。これはわが国としても、少なくとも検討はする必要がある。
 ニュークリアシェアリングについて、日本が核兵器を共有することだと考えている向きもあるが、今の日本にとってその選択肢にはあまりメリットはないし、アメリカが現時点で中距離核を持っていない以上、日本に核兵器を配備することも現実的ではない。しかし核共有の議論を閣僚レベルの常設の会議体とし、核の傘、拡大抑止の実効性を担保することで、わが国の抑止力は確実に向上する。
 これに加えて、ミサイル防衛システムのさらなる向上・強化、それにシェルターの大規模整備と避難・誘導・備蓄などの国民保護体制の抜本的強化は喫緊の課題だ。この三つが重層的に機能してこそ、わが国の抑止力が強化されるからだ。

大転換は防衛費を増やすだけか

 安全保障政策の大転換と言うからには、防衛費を増やす話ばかりではダメだ。防衛費について留意しなければならないのは、陸上自衛隊はこんなものが欲しいからいくら必要だと言っている、海自は、空自は、というのを金額だけ査定してガチャッとホチキスで留めるようなやり方が今まで通用してきたということだ。今後はそれでは納税者の負託に応えられない。
 例えば台湾有事はどのような態様か、それに対して日本はどうするか、朝鮮半島有事はどんなオペレーションになっていくのか、そういったケースごとのシミュレーションに基づき、そのために陸海空サイバーでどういう役割分担をするか、防衛力の全体を統合的に整備しなければならない。
 そうなっていないから、戦車が載らない、載せたら飛べない輸送機とか(国産の空自C2輸送機は、国産の最新鋭10式戦車を運べない)、大型ヘリコプターが載らない輸送艦とか、非合理なものができる。その体制を変えなければ、単に金額を積んでも意味がない。

「毅然たる外交」という言葉は嫌いだ

 外交というのは、国内の人気取りに使っては絶対だめだと私は思っている。例えば、韓国の李明博大統領が支持率が下がったときに竹島に上陸して反日感情に訴え支持回復を狙った。
 このように外交を政権の道具に使ってはいけない。外交の3分の2は国内世論を説得することだと思う。
 「毅然たる外交」とかいうことを言いたがる向きもあるが、私はあの言葉は嫌いだ。「毅然とした外交」が良かったためしはほとんどない。外交というのは、51対49で利が取れたならばもう上出来だということを自覚しないといけない。
 そして、感情で左右されてもいけない。例えば台湾は親日的だ、日本も台湾が大好きだと言うけれども、台湾の歴史をどこまで知っているか。逆に韓国は反日的だ、嫌いだと言うけれど、朝鮮半島の歴史をどこまで知っているか。
 朝鮮半島や中国のことを悪く言えば受けるから、政治家というのはやっぱり受けたいという誘惑にかられる。しかしそれをやっては、結局国益を損ねることになる。

外交で日中関係も前進させるべき

 米国やG7諸国との外交はもちろん大切だが、それだけでは足りない。
 今回の安保政策の大転換の背景として台湾有事を念頭に置くのであれば、それを意識して日中外交をむしろ積極的に行い、日中関係を前進させるべきだ。この期に及んで、親中派とか媚中派とかいうレッテルを貼って異端視する雰囲気が自民党内にあるのだとすれば、極めて憂慮すべきことだ。
 中国の軍拡は確かに懸念事項で、これに対してわが国が抑止力を強化するのは当然だが、軍事大国になってはならないこと、防衛力は節度をもって整備されるべきことを、最も説得力をもって中国に伝えられるのはむしろ日本ではないか。軍の組織維持が自己目的化して痛い目に遭ったことがわが国にはあるからだ。ここも歴史に学ばなければならない。
 そして中国が何に懸念を持っているか、それに対して日本はどう対処するか。特に人口急減や超高齢化、環境問題などの国内要因について協力できることは多くあるはずであり、そういったバランスを意識すべきだ。中国の悪口だけ言っていると、状況はどんどん悪化する。

「台湾独立」のスローガンが中国を利する

 台湾との関係で、けっして採ってはいけない方策が「台湾の独立」を声高に主張する、ということだ。もちろん台湾の一部に、われわれは台湾民族であり、独立が本来あるべき道だ、という主張があることは百も万も理解するが、今の中華人民共和国との関係では最も回避すべき主張だ。
 現在の中国において共産主義に代わる政治的スローガン、国民統合のスローガンの一つが「中華民族の偉大なる復興」だ。だから台湾統一は必ず成し遂げなければならない目標となる。しかしその手段として武力を行使するかどうかについては、さすがにハードルが高い。
 そこで、もし台湾の側が独立を言い出せば、これは中国が言い続けている「内政問題」にあたることになり、武力をもって統一に乗り出す口実ができてしまう。
 台湾が独立など全く考えていないにもかかわらず、万が一にも中国が武力をもって侵攻すれば、それは重大な国際法違反、国際秩序違反となり、各国に介入の口実を与える。
 そういう状況にあることを十分に認識しなければならない。中国はむしろ、台湾の世論を操作して、「独立」という声高な主張が大きくなるように仕向けるかもしれないのだ。

台湾有事における事前協議の可能性

 しかし、このようなバランスがいつまでも続くとは限らない。中国がどんな場合でも絶対に台湾に侵攻しないとは言い切れない。
 その万が一において、日本はどうするのか。そのときに、共に戦うということは無理だとしても、アメリカを間において、どのような関係を築くべきだろうか。
 アメリカが台湾に米軍を展開するために、嘉手納や岩国や佐世保の米軍基地を使うにあたって、日米安保条約上の事前協議が行われる可能性もある。
 そのとき中国から、「日本が在日米軍基地を使うことを許可するのであれば、日本を攻撃する。核による攻撃も辞さない」と言われたとき、日本としてどうするか、ということはちゃんと考えておくべきだ。日米安保条約を破棄されても中国の言うなりになるのか。中国が何と言おうと在日米軍基地は台湾のために使用させるのか。そのときにミサイル防衛システムは十分ではありません、国民が避難するシェルターはありません、備蓄はありません、では、国民はどうなるんですかということ。
 こうしたことをちゃんと考えておかないといけない。

朝鮮半島の2国との関係も改善を

 わが国から最も近い朝鮮半島とはどうか。北朝鮮との間では、拉致問題も膠着状態であり、対話すらできていない状況が続いている。しかしこの国と何らかの糸口を見つけることもアジア太平洋の平和、安定のためには必要なはずだ。
 日韓関係の改善は、日本外交にとって最優先の課題だと私は思っている。
 政権交代によって訪れた関係改善の好機を、日本側もフルに活用しなければならない。尹錫悦大統領と岸田総理との間に信頼関係が生まれることを願っている。
 根源にある「日韓併合」について、日本側も理解を深め、それを適切に韓国側に伝えていく努力も必要だろう。
 例えば私は、安重根というのは日本にとっては伊藤博文を暗殺したテロリストであると思っているが、韓国にとっては民族の英雄だ。180度評価が違う。
 大韓帝国の併合が国際法的に見て合法であったことには疑いをもたないが、国の独立を奪われることがその国の民族にとってどれほどの痛みを与えるものか、ほとんどの日本人は考えたことがないのではないか。今の韓国に対して、国際約束を破るのはけしからんなどと言いたいことがあるのであれば、あの併合によって朝鮮の人々の自尊心がどれほど傷ついたか、それを知っているということを誠意をもって伝えなければならないだろう。知ったうえで言うのと知らないで言うのとはわけが違う。
 歴史認識が共通になるということはありえないが、なんでこの人たちはこういうことを言うのだろうかということを理解もしないままで、未来志向もなにも成立しない。それはわれわれの責任だと思う。

脅威は意図と能力の掛け算
わが国を敵にする意図を持たせない

 脅威というのは何なのか。それは、相手国を侵略しようという意図と能力の掛け算だ。掛け算だから、片っ方がゼロならば、いくら掛けても答えはゼロとなる。
 まず、わが国の平和国家としての歩みは変わらない、決して他国を侵略することはない、その強い意思を持つことがいちばん肝要だ。軍事大国になることはあってはならない。防衛力は節度をもって整備されなければならない。
 そうした決意を、明確に内外に宣言すればいい。日本はとにかく侵略戦争は絶対にしません、先制攻撃もしません、と。
 侵略戦争はしない。武力行使は自衛権行使に限る。核兵器はつくらない、持たない、でもシェアリングはしますよと。
 こうしたことをきちんと言わないと、日本は何を考えているんだと、疑心暗鬼を生む。今の日本で、何を従来通りに遵守し、何を変えていくのかを明確にせず、マジックワードみたいに「専守防衛」と「非核三原則」をおまじないのように唱えても、その内容が変わっていれば、結局信用されない。国際的にも通用しない。
 だから現実を直視して、一定の危機感を持ち、適切な防衛力や外交を含んだ抑止力に反映させる努力はするべきものだが、「今日のウクライナは明日の日本」だとか、「台湾有事が急迫している」とか簡単に言うべきではない。
 戦争経験者がいなくなりつつある今こそ、政治家は、近現代のアジア関係史を深く学ばなければならないと、自戒も込めて考えている。