2・26緊急集会 島々を戦場にするな!沖縄を平和発信の場に! 仲宗根 藤子


沖縄を戦場にするな!

沖縄市在住(1936年生まれ) 仲宗根 藤子

琉球新報(2月27日)紙面から

 1944年10月10日の米軍による空襲(十・十空襲)を、大人も最初は敵機と気づかず、空を見上げておりました。地響きを立てて飛んでいる異様な巨体の飛行機が頭上を飛び去った。その直後に姉の後を追って山に逃げました。大木の陰に身を隠して、空襲がやむのを待ちました。母と弟は家の壕の中で無事でした。
 十・十空襲で、父の妹(私の叔母)は爆弾の破片がおなかを貫通して即死しました。叔母の母とは「戦争が来たらどうしようか」と深刻に語り合っていました。夫は病弱だし長女は小児まひで手がかかるので戦争のことばかり気にかけていました。真っ先に叔母が息を引き取ってしまい、二人は自決したとひそかに聞いています。今、叔母の孫は「琉球新報」の四コマ漫画を描いています。


 翌年、県内で疎開が始まりました。私たちの家族は親戚を頼って、恩納村山田に疎開しました。自然壕に村人と一緒に避難させてもらいました。壕内の鍾乳洞からしずくがぽたぽた落ち、湿気が充満していました。そんな環境で兄嫁はお産をしました。さぞ過酷な産前産後だったのでしょう。戦争に勝つ願いを込めて、新生児の名前は「勝子」に決めたようです。
 1945年4月1日、米軍本島上陸。早い段階で捕虜になり、石川に収容されました。大勢の避難民が民家に収容され、ささやかな配給でやっと飢えをしのぐほどの食ベ物しか与えられませんでした。四六時中空腹感に悩まされました。大勢の人が使う水もなく、不衛生で頭や洋服にシラミがわき、つらかった。1年ほどたって帰村しました。荒れ放題になった田畑を耕してカズラ・稲を植え、4カ月くらいたってサツマイモ・コメが収穫できました。祖父母と母が片道5キロを徒歩で通って、田畑仕事にいそしんでおりました。
 過労と栄養失調で母は病に倒れました。医療機関もなく、病を治すこともままならず、48歳という若さで他界しました。私は中学1年生でした。父は間もなく再婚しました。その当時の私の日記に「わが家は冷たい風が吹き抜けていく」と記していました。母子が肩を並ベて歩いている光景に出くわすとなんと羨ましかったことか。戦争がなければ、母は病死しなかった。残された家族は暗い沈痛の中にいました。……
 2023年2・26緊急集会「島々を戦場にするな!沖縄を平和発信の場に!」で「リレートークに出て」の声がかかって、一瞬躊躇しました。が、しばらく集会から離れていましたのでお引き受けしました。05年2月23日、五体満足だった夫が、未破裂脳動脈瘤の開頭手術で、右半身麻痺になりました。失意のどん底にいる夫を一人にして、活動するのは気がとがめて、その後は外出を控えておりました。彼は退職後、マンゴー・枇杷の生産に励んでいました。
 久々に登壇したので、記者の質問攻めに遭いました。2月27日の「沖縄タイムス」「琉球新報」に取り上げられ、12名の方から感想が寄せられました。大変嬉しかった。両記者さんにお札の電話を入れました。
 2022年2月24日プーチンのウクライナ侵略戦争に大変驚き、怒りました。ウクライナの人びとは、その日その日恐怖の中を生き延びる苦難に遭っています。平穏な暮らしが奪われ、建物は木っ端みじんに破壊され、不安がいっぱいでしょう。命を奪われた空っぽの乳母車に涙しました。親とはぐれて泣きわめいて危険な道路をさまよっている幼子の姿が脳裏を離れません。あの子は肉親に巡り合えたでしょうか。戦争は弱い者の上に重くのしかかるのです。1日も早く戦争をやめよ! プーチンの戦争で世界中が物価高騰で、生活苦に陥っております。
 沖縄は戦後78年、ずっと米国に占領されているのに自公与党は、沖縄の島々にミサイルやその部隊を送り込んでいます。とても心配です。ミサイル基地があると敵から狙われます。戦争が始まると小さい島々がやられます。ああ怖い!
 標的にされるのはまっぴらごめんです。どこまで沖縄を踏んづけるのですか。「命どぅ宝」です。あの戦争の恐怖がよみがえります。防衛費の増額は戦争に加担する道を開くためのものです。許せません!
 岸田自公政権はこの戦争に乗じて、敵基地攻撃能力を保有するという。許せない! 自衛隊が米軍と一緒になって戦争に駆り出される。今こそ教え子を戦場に送るな! 「台湾有事は日本の有事」にするな! 「日本は非戦の憲法を前面に平和外交に貢献せよ」と沖縄戦体験者は力説しています。戦争は絶対起こすな! 
 「沖縄を平和発信の場に!」