西原春夫・早大元総長を悼む

――「東アジア不戦」94歳の志半ばで

名古屋外国語大学名誉教授・日中関係学会副会長 川村 範行

 極寒の朝、早稲田大学元総長、西原春夫先生の訃報に接し、にわかに信じがたい思いでした。西原先生とお会いしたのは昨年6月、同9月に東京で日中共催予定だった「日中国交正常化50周年記念日中関係討論会」の特別講演のお願いをしたのが最後でした。西原先生は「東アジア不戦推進機構」の発起人代表として、第二次世界大戦を知る有識者長老と一緒に関係各国に不戦を呼びかけてみえました。94歳のご高齢にもかかわらず、お一人でご自宅から同機構事務所まで通い、早大のはるか後輩に当たる小生に対して東アジア不戦の理念を滔々と語られました。


 西原先生にお会いした直後に、中国の外交官OBでつくる共催団体から厳しいゼロコロナ政策のため訪日困難が告げられ、やむなく日中関係討論会を今年秋に延期しました。西原先生に電話でお伝えしたら、非常に残念がってみえましたが、特別講演はそのまま引き受けるとおっしゃいました。図らずも、ご逝去され、それもかなわないことになりました。昨年、日中関係討論会が実現していたら、西原先生の不戦の熱弁を中国側にも聞いてもらうことができたのにと、日本側実行委員長として機会を逸したことを悔やみます。
 西原先生は昨年6月、私に対して「アジアがどん底に陥っているから、おまえ、これを救えと天から命じられた」と、余生を賭けて東アジア不戦推進機構の成立に取り組むと話されました。西原先生たち長老が各国に呼びかけて、千年に一度しか回ってこない特異日の2022年2月22日22時22分に、東アジアのすべての国家の首脳が一堂に会して「不戦」を宣言するよう働きかけてこられました。だが、新型コロナの世界的感染のためかなわず、昨年の同じ日時に、日本外国特派員協会(東京)で西原先生と明石康・元国際連合事務次長、谷口誠・元国連大使の3名が代表して記者会見し、次のような提言を発表しました。
 「私たち18人は、第二次世界大戦の時代を直接体験した最後の世代の一員として、『戦争は如何なる理由があろうとも絶対にしてはならない』という信念に基づき、ここに以下の提言を発表する」
 「少なくともまず、私たちの所属する東アジアの国々の首脳が、特定共通の日を期して、共同または単独同時に、『東アジアを戦争の無い地域にする』という宣言を発することを切望し、ここにこれを宣言する」
 西原先生は、「なぜこのような困難で面倒なことを自ら引き受けてやってきたのか」について、「17歳少年の想いに行き着く」と、述べられています(月刊誌『日本の進路』2021年7月号)。「愛国少年、軍国少年に育っていった。日本のアジア政策はすべて正しく、その一環として始まった戦争は、新アジア建設に向けた『聖戦』だと思い込んでいた。1945年、敗戦に伴って襲いかかってきた価値の転換は激烈だった。とりわけ、私を苦しめたのは、過去の日本や日本人が外国でやったことの真相を知るに至ったときである。日本は三代にわたってそれを償わなければならないのではないか――、それが当時の17歳少年の深い想いだった」と、回想しています(同誌)。
 先生の座右の銘は「心の底から欲して、命がけで初心貫けば、この世で成らぬ物事はない」――ヘルマン・ヘッセの作品「デミアン」からの引用といいます。早稲田大学法学部で西原先生の教え子だった岸田文雄氏の首相就任時に、首相官邸を訪れて贈った色紙の言葉でもあると打ち明けられました。
 岸田政権が敵基地攻撃能力(「反撃能力」)を肯定し、増税による防衛費の倍増へと、戦後の安全保障の大転換に舵を切ったそのときに、「東アジア不戦」の志半ばであの世へ旅立たれた西原先生の胸中を察するに余りあります。
 タレントのタモリさんが昨年暮れのテレビ朝日系番組「徹子の部屋」で「来年はどんな年になるでしょう」と聞かれて「新しい戦前になるんではないでしょうか」と懸念を述べました。田中優子・法政大学前総長は今年1月15日付の中日新聞/東京新聞の大型コラム「視座」で「日本が戦時体制に入りつつある」「反戦の準備をしよう」と、訴えました。「新しい戦前」から「戦争開始」になるような事態は、絶対にストップさせなければなりません。黙っていたり、見過ごしたりすれば、いつの間にか、「戦闘開始」になりかねません。フランスの心理学者、フランク・パヴロフが著書「茶色の朝」で警告したように、朝起きたら世の中全部が「茶色」にならないためには「思考停止を止めること」です。
 日中戦争の歴史をたどると、満州事変勃発2カ月前の1931年7月、東京帝国大学の学生に対する意識調査で、「満蒙に武力行使は正当なりや」との質問に対し、88%の東大生が「然り」と答えています。教養水準の高い東大生にして、中国への武力行使を是としていたことは驚きです。その後、満州事変を経て盧溝橋事件、さらに日中戦争が本格化していく過程で、日本の陸軍省などが横暴な支那(中国)を懲らしめよと〝暴支膺懲〟というスローガンを広げ、国民もそれを支持した背景があります。21世紀の今再び、強権的な中国をやっつけろというような〝新・暴支膺懲〟スローガンをはびこらせてはなりません。
 西原先生の「東アジア不戦」の松明を引き継いでいかねばなりません。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌