特集 沖縄「日本復帰」50年  玉城 愛

復帰50年に思うこと

うるま市 27歳 玉城 愛

 「復帰50年」の節目に私が考えていることはいくつかある。沖縄における性差別問題や、沖縄における「復帰運動と天皇制」についてだ。
 私が沖縄の「復帰50年」に思うことは、「特別」で「めでたく」、「喜ばしい」ことではないことは確かだ。今日も続く天皇制、第二次世界大戦末期の沖縄戦と日本の敗戦、そして沖縄の米軍政府による統治を、私は、沖縄は、忘れてはいない。「復帰50年」は、日本が沖縄を統治するために、沖縄の「節目」を装った日本政府によるプロパガンダにすぎないからだ。


 NHKの朝ドラの舞台が沖縄であることや、「復帰」にちなんだイベントが数多く開催され、連載や特集が紙面に躍る。当時を知るとても貴重な機会だ。ただ、「何が変わって、何が変わらなかったのか」という、なんとなくぼんやりとした議論ですませてはいけない。日本的な「オキナワ」という幻想で「復帰」が語られても、沖縄と日本の溝はさらに深まっていく。沖縄人も、日本人が見た沖縄人を演じ、身にまとう必要もないのだ。
 一方で、沖縄というナショナリズムに組み込まれたくないという思いがある。それは、沖縄で暮らしている中で直面する問題が、日本と米国に翻弄される沖縄として受ける差別だけでなく、女性であることで受ける性差別問題など、複合的な差別に直面するからだ。よって、家庭や社会運動の現場で性差別問題を体験するとき、「沖縄」に対して抱く気持ちも非常に複雑なものである。複合的な問題を単純に捉え、沖縄を美しく語ることはできない。さりとて、「野党の野党は与党と結びつく」というような通説のように、私の意見は日本的に都合よく解釈され、沖縄を差別的に攻撃する材料になっていいわけでない。なぜなら沖縄というポジショナリティの問題はとても重要だからだ。同じ言葉を発しても、その背景や文脈は沖縄と日本では違う。それを大前提に、私の言葉を読んでほしい。

「AV女優に似ている」は冗談の領域か

 まずは、沖縄における性差別問題についてだ。断りたいのは、私の投稿は男性向けの性的動画サービスに出演する女性たちや、セックスワークに携わる女性たちを蔑むものではないということだ。
 2019年、沖縄の男性政治家から「AV女優に似ている」と言われたことがある。その衝撃は瞬時に怒りへと変わったが、同時に無力感に襲われたことが否めない。この場所にいる人々や、共通の知人などが頭をよぎり、何も言えなかったのだ。「AV女優に似ている」という発言を受けた際、隣にいた別の男性は、その言葉を否定すると思っていた。当時、私は彼をとても信頼していたからだ。しかし、彼は「似ている」と政治家の言葉を容認した。それを私は、私に対するセカンドレイプだと呼びたい。ちなみに彼も将来を有望視された政治家だったこともあり、悔しさを生々しく覚えている。この男二人に対する怒りは収まることなく、激しい怒りに変換されていった。どう復讐してやろうかと考えたこともあった。特に、二人が公の前でスピーチし、大衆から拍手をもらっているときには、「お前らに税金は払いたくない」と叫びたいくらいだ。
 ただ、私が自らの体験を記したとしても、沖縄から性差別問題が消滅するわけではない。私に発せられた性差別的な言葉が、政治家二人の人格の問題なのではなく、女性を蔑んできた沖縄の社会が次世代へ継承されている結果、あのような発言が飛び出してきたのだ。沖縄における性差別問題については、1970年代から80年代の女性たちの社会運動によって問題提起されてきた。
 1980年、「80年沖縄女の会」という女性グループが誕生した。沖縄女の会が発足した背景には、沖縄の慣習に対する抵抗があった。その慣習とは、沖縄が美化しがちな家父長制を維持し続ける行事などであり、慣習を通して見える性別役割分業や男性優位の境遇などを指す。性差別をはらんだ慣習が根深く染み込んだ土壌は、家父長制により、健康な男性たちにとって都合がいいように解釈され、維持されてきたと女たちは指摘した。
 例えば、80年沖縄女の会は、沖縄の基地撤去運動にかかわる組合青年部の男性たちが、沖縄や東南アジアへ行って買春行為に走るという彼らの矛盾を露呈させた。性差別は、あらゆるコミュニティーの内部に今日も生き続けている。もちろん社会運動の現場や「神聖な場所」と語られる議場でもそうだろう。
 上記の性差別問題について、3月8日付の「琉球新報」の論壇に寄稿した。掲載された後、たくさんの女性たちからメッセージや手紙が届いた。「私も同じことを言われたことがある」「とても力強い言葉で、本当にそうだと思った」「書いてくれてありがとう」という、共に怒りの声を上げる女性たちがいることを知った。彼女たちの言葉にエンパワーメントされ、世代や地域を超えた女性たちとの横のつながりをずっと大切にしたいと思った。一方、男性たちからも声が届いた。詩的な反省文のようなもの、組合の社会運動を侮辱したというもの、教育関係者からは「貧困の問題に触れながら書け」という指導じみた助言もあった。そして、寄稿した内容とは一切関係のない「子どもは産んだのか」という質問が一番多かった。あきれ果て、男たちに言いたいことは何もない。

「復帰運動と天皇制」という問題関心

 今後、私自身が考えていきたいテーマがある。沖縄における「復帰運動」と「天皇制」についてだ。この問題意識は「復帰50年」だから考えていることではない。これまでも、このテーマに触れながら書いている文献や史資料があるかもしない。この投稿を機に、復帰運動に関する史資料にあたってみようと思う。ここでは、私の問題関心を雑に書き記しておきたい。
 これまで、沖縄戦を考えるとき、天皇制や日本軍について考えてきた。というより、それらの背景をもって現在認識される「日本人にとっての天皇」像とは、どのようなものなのだろうかと言った方が正確かもしれない。天皇制について触れなければ、当然、日本におけるあらゆる問題の根の部分がつかめないのではないだろうか。なぜなら、天皇制という複雑で政治的な立ち位置が、ただ美しいものとして捉え、語られるには、権力を維持する人々にとって一番痛い部分だからだ。強い力によって、本当に重要な部分が意図的に、かつ政治的に隠されてしまう危険性が否めない。天皇制の問題は、現在の米軍専用施設や自衛隊施設とそれに関連する問題だけでなく、その背景の一つとしての沖縄戦や第二次世界大戦における日本の敗戦、あるいは、日本が植民地支配していった東・東南アジアの人々に対する人権侵害の問題を考える際にも重要な位置付けとなる。
 そんなことを前提に、沖縄における「復帰運動」と「天皇制」について考えている。よく文章や写真で見かける「祖国復帰」の「祖国」いう言葉の背景には、日本という地域を指すだけではなく、天皇制への回帰とも読み取れるものがある。沖縄戦時、激しい地上戦が繰り広げられたこの場所で、再び日本国旗を手にしてそれを振るという行為自体、私の中で矛盾が生じるのだ。
 「平和憲法のある日本」という語りの文脈に覆い隠されてしまう日本における「象徴天皇」は、敗戦の前後で変化したようで変化していないからかもしれない。今後、「交差性」(=intersectionality)という考え方を踏まえて、新たな視点から沖縄における「復帰運動」と「天皇制」を考えてみようと思う。

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