『農業消滅』は何を伝えようとしているか

書評や著者インタビューから本書の読みどころの一端を

東京大学大学院教授 鈴木 宣弘

平凡社新書の『農業消滅』が話題を呼んでいる。まだお読みでない本誌読者の皆さんに向け、著者の鈴木宣弘氏に頼んで、この間マスコミなどに掲載された書評や著者インタビューに触れながら、本書の〝読みどころ〟を紹介していただいた。(編集部)

鈴木宣弘著『農業消滅 農政の失敗がまねく国家存亡の危機』(平凡社新書、2021年7月発行、968円)

農業が消滅して日本人が飢餓に直面する恐れ

 結論から言うと、このままでは農業が消滅して日本人が飢餓に直面する恐れがある。こうした危機を回避するためにどうするか、というのが本書のテーマである。
 日本の四季を象徴する田園風景はかつての色彩の変化を失い、荒れた休耕地、山林だけが目につくようになった。これが自然の移ろいではなく、国の農業政策の結果であることはだれもが認めることである。そのうえ、政府の後押しを受けた特定企業によるバイオマス・太陽光・風力発電による利権目当ての勝手気ままな森林伐採や自然破壊が横行している。
 コロナ禍で国際的にさまざまな輸出規制が行われ、サプライチェーンが寸断したこと、特に中国からの業務用野菜やアメリカの食肉などの輸入が減少したことは、食料が自給できない日本社会の存立基盤の危うさを突きつけることになった。このような農政に委ねたままでは、2035年には国民全体が大幅な食料自給率の低下と飢餓に直面しかねない。しかし、政府には農業従事者を苦しめ消滅に追いやる政策の行く末への危機意識の片鱗も見られない。
 中国の「爆買い」はコロナ禍からの回復による一過性ではなく、傾向的な需要増が顕著になってきている一方、異常気象が通常気象になってしまうほど、自然災害は頻発し、供給の不安定さは増している。このため、需給が逼迫しやすい構造が強まり、ひとたびコロナ禍や自然災害のようなショックが起こると、価格が暴騰し、輸出規制が起こり、中国に買い負けたり、高くて買えないどころかお金を出しても買えなかったりする事態に陥りやすい。
 つまり、穀物価格の高騰は一過性ではなく、ジグザグと上下しつつも、トレンドとしては上昇していく可能性が高い。この状況で、日本はさらに食料自給率を下げようとしている。日本が飢餓に直面するのは、もはや時間の問題ではないか。
 飽食の現代には想像できないが、飢餓の危機は確実に迫っている。だからこそ、本書では食料安全保障の重要性が強調されている。しかし、日本の食料安全保障は量・質ともにガタガタだ。まず「量」だが、日本の食料自給率は下がり続ける一方、海外から食料を輸入するハードルは年々高くなっている。そのため、1億2000万人の国民に必要な量を安定的に確保できる体制はできていない。

アメリカの「占領政策」からの脱却

 このような日本の農と食の深刻な危機がどのようにして引き起こされたのか。そしてそのような異常な事態がなぜまかり通るのか。本書は、農政の面から歴史的・構造的に迫り、それが特にアメリカとの2国間交渉、TPP、日欧EPAなど貿易自由化と密接に関係していることを詳細なデータで浮かび上がらせている。
 日本の農政がどうして失敗だったのかの大きな要因として、対米従属下の米国企業への配慮、米国企業の利益増進に屈服したことが取り上げられていて、日本の政治が大きくゆがめられている対米従属の最も重大な影響が出ているのが農政であることが読み取れる。
 さかのぼれば対日占領政策に行き着く。故・宇沢弘文教授は、米国の知人から「占領政策の目的は日本の農業を弱体化して米国に依存させ、米国の余剰作物を日本に買わせることだった」と聞かされたと証言している。日本の農業をズタズタにし、米国産に依存する構造をつくれば、日本を完全にコントロールできる。今や総仕上げの段階にきていると言っていい。主要穀物の自給率は小麦15%、大豆6%、トウモロコシ0%。食料を十分に自前で調達できない日本の最後の頼みの綱がコメで、コメだけは確保できるというストーリーさえも崩れ去ろうとしている。この占領政策は、現在まで続いている。米国が日本の農政をゆがめているというのは陰謀論ではなく、陰謀そのものなのだ。
 本書は、農業政策とは「農家保護政策」ではなく国民の安全保障政策であることを、国民的に共有し合う意義を強調する。そして、国民の命と地域の暮らしを守る真の安全保障政策としての食料の国家戦略を確立することを、農政の要の位置に据えるよう求めている。食料の確保が軍事、エネルギーと並んで国家存立の重要な三本柱の一つであることは国際的な常識であり、各国とも当然ながらそのような政策をとっている。しかし、日本の戦後農政はその根幹部分を欠落させてきた。それは、国民の命よりもアメリカの国益、企業の利益を優先することが当然であるかのような農政として体現されてきた。
 本書から、誤った戦後農政のもとで「食料こそが国民の命の源」であるという至極当然な道理が崩されてきたことに気づかされる。そのもとで、農業問題が「農家の問題」に矮小化され、担い手不足や限界集落に象徴される農業存続の危機が何よりも国民の命の危機、国家存亡の危機であることを覆い隠すやましい力が働いてきたことも。
 国防より、エネルギーより、命と生存に直結する食は安全保障の根源だ。その根源を見失ってはならない。しかし昨今の農政は、農業が食料を支えている、命を支えているという根幹を見つめずに、政府は自動車などの輸出産業を維持するために、国民の命の源たる農業を外国に売り渡したのだ。この愚策は強く糾弾されなければならない。もちろんこの背景にはオトモダチ政治があることは言うまでもない。「規制緩和」を謳いながらTPPにおける著作権などは「規制強化」する。外資やオトモダチの利益のためなら規制を強化し、国民全般の利益は顧みず規制を緩和する。こうした国民いじめの政治の犠牲になっている象徴が農業なのである。
 欧米各国の食料自給率は軒並み100%超えなのに日本は37%で、半世紀で半減。どうしてこうも差が開いたのか。食料の安全保障に対する姿勢の違いだ。自国民向けの食料を十分に確保した上で輸出力も蓄えておけば、世界的な災害で物流が止まっても国民が飢えることはない。戦略物資としても価値があり、「兵糧攻め」にも利用できる。国家戦略として食料を輸出している。だから多額の補助金を投じて農業を守る。「攻撃的保護」と言ってもいい。命を守り、環境を守り、国土や国境を守る産業は国が支える。それが諸外国の覚悟。食料自給は独立国の最低限の備え。世界の常識が日本の非常識。コロナ対応はもとより、近年の水害など自然災害でも政府の対応は遅れに遅れているが、大統領の一声でアメリカの戦闘機の購入には間髪を入れず、「安全保障」を大義名分に巨費を投入するのである。しかし、食料がなくて困ったからといって、オスプレイをかじっても空腹は満たされないのだ。
 著者はこうした農政を決定づけてきたアメリカと日本の関係から、「安保によって日本は守られている」というのは幻想にすぎず、在日米軍基地の存在は日本を犠牲にしてアメリカを守るためのものであると、踏み込んで論じている。
 本書の農政批判は、アメリカの言いなりになって、また自動車の輸出など工業を優先して農業を犠牲にすることに向けられている。だが、それは短絡的な政策変更の要求ではない。日本の為政者の国民の食料保障に真剣に向き合う姿勢の欠落、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の浮ついた農業観を根底から批判し、本来の公共のための協同を基本とする生命力のある農業を再興させるための建設的な提言となっている。

共助組織、共同体の重要性

 本書は真に強い農業を育成するためには、高くとも品質が良いので国産品を買う、という消費者意識の醸成が必要だと説く。スイスでは1個80円もする国産の卵が輸入品を差し置いて売れているという。それは「これを買うことで生産者の生活も成り立つのだから高くても当たり前でしょう」という食料安全保障意識と、品質への信頼を保つ仕組みの確立だ。究極的には農業問題は信頼と安全保障に尽きる。そうしたことを議論せずにいれば安かろう悪かろうの輸入品に人心がなびくのは無理からぬことなのだ。そのためにも「生産者の顔が見える」地産地消の取り組みは必須だ。
 そこにこそ協同組合を持つ本来の意味がある。農協はそうした地域を支える拠点として活動することを使命とするべきであろう。市場原理主義による農協解体を許してはならない。
 農協解体がアメリカによるマネー収奪であり、「地方創生」「コンパクト・シティ」「スマート農業・デジタル化」「森林法・漁業法の改定」などが多国籍企業の利益のための地ならしであることも見えてくる。それは、グローバル種子企業の最後の草刈り場として日本の市場を提供し、それこそ「命の源」であり公共のものである種子を営利追求の具に取って換え、農家をさらに撤退に追いやる種子法の廃止・種苗法の改定につながっている。
 本書はそうした「国家私物化」政治の抜本見直しを訴えているのだが、一つ興味深いのはこうした国家私物化政治を改めるため対米自立的政治を模索する過程で、アジアとの連携を主張しているところである。本書はアジア諸国と「共通農業政策」を結びアジア共通の農業利益を世界に主張するという。一国ではどうしても利害関係の主張が弱くなるところを、多国間連携で補おうという発想である。
 さらにその構想はアジア全体での食料安全保障システムの構築にまで及ぶ。東アジア地域での食料安全保障の強化と貧困の撲滅を目的として各国で食料備蓄を行うというものである。本書での提案は国際金融資本への対抗としてのアジア連携であり、重要なことではないだろうか。

日本農業過保護論の虚構

 食料自給率が37%という世界が驚く低水準までに陥ったのは戦後続いてきた農業を犠牲にした貿易の自由化によってもたらされたものだ。すでに関税を撤廃したトウモロコシの自給率は0%、同じく大豆の自給率は6%である。日本の野菜の関税率はおしなべて3%程度で、国際的にもきわめて低い関税の農産物が9割を占める異常な国になっている。そのうえ、グローバル化・規制改革のもとで海外からの「安い食品」が市場に出回るなかで、食の安全が深刻な社会問題となり、特に子どもを持つ親世代の不安を増大させている。
 そして、「農業が弱くなったのは国による過保護のためだ」というウソをメディアを総動員して振りまいてきたことを、各国の農政との比較で検証している。日本の農業は過保護だから衰退するというのは真っ赤な噓、欧米は競争力があるから成長産業になったというのも真っ赤な噓。日本は世界でも最も農業を保護しない国。米国では生産コストと所得との差額は政府が補塡し、輸出穀物の差額補塡に多い年で1兆円も投じている。それとは別に農業予算の6割超を消費者の食料購入支援に回している。消費者の購買力を高めて農産物需要を拡大し、農家の販売価格を維持する仕組みだ。下支えのシステムはカナダやEUでも機能している。欧米では戦略的に農産業を保護しているがゆえに、成長産業として成り立っている。農業所得のうち補助金が占める割合は英仏9割超に対し、日本は3割程度。
 つまり、本書の最も重要な指摘の一つは農家に対する補助のあり方である。欧米先進国の農政が手厚い農家保護を実施している一方で、わが国ではほとんど農家保護がなされておらず、失政が最もよく表れている点だ。農家への所得保障などとともに、貿易自由化が自動車をはじめとする工業製品の輸出促進に偏重している一方で、農産物の保護が置き去りにされ、農家経営とともに国民の健康や安全が軽視されている。

質の食料安全保障も崩壊

 食の安全保障はまず量の確保。そして質、安全性も非常に重要である。本来、日本人の安心・安全のためになされている食品に関する規制についても、米国企業の要求を幅広く受け入れる形でゆがめられている点が本書で明らかにされている。特に、欧州が米国の要求に屈しないのに比べて、日本の対米従属の姿が浮き彫りにされている。
 企業の営利第一で、日本国民の安全は二の次という態度はGM(遺伝子組み換え) 食品、ゲノム編集食品、グリホサート、成長ホルモンなど安全が確かめられていない食品や農薬、飼料などに各国が規制を強めるなか、日本をそのはけ口にしていることにも表れている。
 米国から突き付けられた農薬や添加物の基準緩和を求める要求リストは膨大で、日本は順次緩めている状況。国内では認可されていないのに、輸入に対してはザル。成長ホルモン剤についても同様。EUは「エストロゲン」を投与して育てた牛肉を禁輸しているが、日本には米国産や豪州産、カナダ産としてどんどん入ってきている。乳製品にも同じことが言えて、ウォルマートやスターバックス、ダノンが不使用にしているrBST(遺伝子組み換え牛成長ホルモン)を使用した商品が輸入・販売されている可能性がある。米国で富裕層に人気があるというホルモン・フリーの牛肉は4割高で流通しているとも聞く。危ない食品はこぞって日本向けになっていませんか、ということなのだ。

「食べない」という抵抗

 安いものには必ずワケがある。日本の農家をこれ以上痛めつけてはいけない。日本人が飢える状況が起こり得ることを認識し、食料自給率を引き上げる努力が必要である。安全・安心の国産を食べることは健康リスクを低減し、長期的には安上がりにもなる。
 日本政府が米国の意向で農業を犠牲にしているとしたら、私たち国民はどうしたらいいのか。一番大切なのは、最終的な決定権・選択権は、私たち消費者にあるということ。未来を選ぶのは、私たち。
 たとえ米国の意向で危険な食品が輸入されても、最終的には私たちが買わなければいい。ところが、日本の消費者は「とにかく値段が安ければいい」と安くて危ない食品を買い続け、輸入食品に依存してきた。その結果、日本では危険な食品があふれ、食料自給率も下がり、飢餓に直面するリスクが高まっている。これは、日本の消費者の選択の結果。
 今こそ「発想の転換」が必要。安くて危ない食品を食べ続けて病気になる確率が上がるなら、これほど高くつくものはない。結局、安い食品は高くつく。食の安全や食料安全保障を取り戻すためには、EUのように全国的な消費者運動を起こす必要はない。日々の買い物の中で安くて危ない食品を避け、数百円だけ高い地元の安心・安全な食品を買うこと、それだけでいい。
 私たちは、危険な食品を食べないことで米国やグローバル企業に抵抗することができる。安心・安全な食品を食べることで、自然環境や健康を大切にする生産者を応援することができる。こういう小さな選択を積み重ねることが、日本の農業と食を守ることにつながる。
 潮流を変えるには、一人一人の力が必要だ。政府が私たちを守ってくれないのだから、せめて私たちが購買という〝意思表示〟をしていくしかない。腰が重い人も、まずは本書を読んで、〝農家、食料の現状を知る〟という小さな一歩からスタートしてみてほしい。本書が、読者の皆さんが小さな、しかしとても大切な一歩を踏み出すきっかけになることを祈っている。私たち一人一人が〝国産の安全・安心なものしか買わない〟と強く行動を起こす必要がある。
 真実を語れば風当たりは強くなる。でも、若い世代を矢面に立たせるわけにはいかない。次の世代を守らねばならない。だから、自身が盾にならねばとの筆者の強い想いが本書にはにじみ出ている。

付記 出所を示さずに書評を活用させていただいた皆さまにはご容赦いただきますよう、お願い申し上げますとともに、厚く御礼申し上げます――鈴木。

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