沖縄「復帰50年」を振り返って

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国家権力の手段として利用され、犠牲にされる生き方を拒否する

広範な国民連合顧問・元沖縄県教職員組合委員長 石川 元平

 国家権力を総動員して、辺野古新基地建設を強行しようとする政府の動きを見る時、かつての明治政府が琉球王府の強い反対を押し切って、武力併合した「琉球処分」が思い起こされる。長年、武器のない島、王国として近隣諸国はもとより、欧米諸国とも〝修好条約〟を結んで平和裏に共存してきたが、日本という国だけは違った。近年明らかになったように、明治政府は「主権国家」である琉球を軍隊と警官隊をもって、武力併合したのであった。

 1879年の琉球併合後、95年に台湾を、1910年に朝鮮を併合し植民地化した。朝鮮半島は大陸への橋頭堡を築くため、沖縄は南進政策の拠点づくりが目的であった。いずれも帝国主義による領土拡張が狙いで、こうして沖縄は軍隊が駐留する島となった。

沖縄戦「慰霊の日」、「魂魄の塔」の前で(2005年6月23日)

 やがて軍隊の駐留する島は戦場と化したが、軍隊は住民を守らなかった。それどころか、皇土防衛の「捨て石」作戦によって、軍人をはるかに上回る一般住民が犠牲となった。そのことと関連して、栗栖・元統合幕僚会議議長は『日本軍隊を創設せよ』という著書の中で、「国民は、軍隊は国民の生命や財産を守るものだと誤解している人が多いが、軍隊は国家体制を守るためにある」と、本音を吐いている。軍隊の本質は昔も今も変わらないのだ。

 沖縄戦が終わっても、沖縄に平和は訪れなかった。米軍占領につづき、51年9月8日に締結し、52年4月28日発効の「サンフランシスコ講和条約」第3条によって日本から分離され、米国の施政権下に置かれたからである。そのことについては、47年9月の「天皇メッセージ」が広く知られているが、48年4月につづき、朝鮮戦争が勃発した50年6月25日の翌日、天皇がダレス米国務長官顧問に発した「第3のメッセージ」について『提言』(中小企業組合総合研究所 2016年5月1日発行)は、「日米安保条約と日本国憲法」シリーズで、吉田茂が「日米安保条約」と「行政協定」締結を単独で行ったのは、米国の「基地特権」に関する密約で、天皇の意思が働いたためだという。事の真相は未解明のままである。

 安保の犠牲を強いられている沖縄から見れば、対米従属から脱却して、真の主権国家・独立国家回復を目指してほしいものだ。

県民の復帰要求は何だったのか

 沖縄の復帰運動は50年代から60年代初めにかけて、民族主義的色彩を帯びたものであったが、65年の佐藤首相来沖やベトナム戦争を機に、大きく変容していった。68年、沖縄で初の主席公選が実施された時、革新統一候補の屋良朝苗は復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)の方針である「即時無条件全面返還」を掲げて当選した。異民族の長期支配には「即時」、核付き条件には「無条件」、先島などの分離論には「全面返還」である。

 屋良の当選は日米の権力者を震撼させた。71年11月、屋良琉球政府行政主席は県民要求の詰まった「復帰措置に関する建議書」を携えて上京した。ところが当日、衆院返還協定特別委員会は、自民党委員の動議によって審議を打ち切り、返還協定と米軍用地暫定使用法など沖縄に関する法案を強行採決した。沖縄復帰に関する協定や法案が沖縄の要求を無視して強行されたことに対して、屋良の当日の「日記」には、沖縄が「弊履」のように扱われたことへの心情が記されている。翌日になって佐藤首相や国会関係者に抗議したが、後の祭りであった。「建議書」には、「即時無条件全面返還」と併せて、自衛隊配備や日米安保条約に反対し、平和を希求する沖縄県民の強い願いが込められていた。

 一方、沖縄に対する政府の施策は、「核抜き・本土並み」返還であったが、この県民だましの返還論は69年3月8日、政府の諮問機関である「沖縄基地問題研究会」(久住忠男主宰)が、佐藤首相に答申したものであった。69年11月「佐藤・ニクソン会談」後の共同声明で、核隠し・基地自由使用が明らかになると、沖縄では復帰協に結集する県民をはじめ、日米共同声明路線による欺瞞的返還を糾弾し、佐藤内閣打倒へと闘いは高揚していった。

「復帰50年」沖縄の現実

 施政権返還は「沖縄の本土化」と「本土の沖縄化」を招いた。沖縄への日米安保適用と自衛隊配備は強行された。沖縄では米国の支配下で勝ち取ったもろもろの成果は消滅し、有無を言わさず本土並みにされた。一方、核隠し・基地自由使用返還によって、日本全体が「核安保体制」に組み込まれるという、日米安保の変質を招いた。

 政府が約束した「本土並み」は、過密な沖縄の基地を本土並みに整理縮小するというものであったが、約束は反故にされた。北部訓練場の一部が返還されても、在日米軍基地の約70%は依然として沖縄に集中し、それどころか、古い基地の返還は県内移設の条件付きで、新しい基地への再編強化策謀であることがわかる。

 街なかにある「世界一危険」といわれる普天間飛行場を辺野古に移設するというのも欺瞞で、現在の日米安保体制下で将来の「日本軍」基地を確保するのが政府の狙いだろう。V字型の滑走路と大浦湾への軍港を備えた新基地は、核基地の疑いの強い辺野古弾薬庫とキャンプ・ハンセン海兵隊基地とも連動する総合的機能を持つ最新型の基地に変貌するだろう。キャンプ・シュワブ基地では、米海兵隊と自衛隊による尖閣有事を想定した共同訓練も展開されている。

 昨年末から今年にかけて、米空軍のMC130特殊作戦機による超低空飛行訓練が、沖縄本島最北端の祖国復帰闘争記念碑の立つ辺戸岬近海でも何度も確認された。4月16日の日米首脳会談でも、52年ぶりに台湾問題が取り上げられたが、沖縄に住む者として尖閣有事の悪夢は見たくない。

 琉球弧の南の与那国から北の奄美に加え、最近では馬毛島に至る列島が自衛隊の軍事要塞と化しつつある。政府が今国会に提出した「土地規制法案」は審議不足のまま強行採決された。地元紙によれば、沖縄の全ての有人島全域を「注視区域」や「特別注視区域」に指定できる仕組みになっているという。これは軍事化を拒む住民対策ともいわれ、戦前の治安維持法の再来にならないか、懸念を伝えている。

結びにあたって

 沖縄がヤマト世になったのは戦前の66年間と戦後(復帰後)の49年、合わせても115年である。屈辱と悔恨の思いが重なってしょうがない。

 明治以降の近現代史の中で、とくにこの国がアジア・太平洋戦争の戦後総括を封印したことは、歴史的に見てこの国の最大の不幸だったと思う。だが、歴代の政権も多くの国民も不都合な過去と正しく向き合おうとしない。もう一度誤りを繰り返さないと目覚めないのか。

 6月、イギリスで開催されたG7首脳会議は、自由・人権・民主主義という普遍的価値を共有する首脳の会議だという。私には真逆に映るのだが、菅首相の眼中には沖縄などは入っていないのだろう。

 復帰50年を前に、海外の同胞からは「琉球政府再樹立」の提唱もある。私は、二度と国家権力の手段として沖縄が利用され、犠牲を被る生き方は、断固として排していく決意である。

 

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