沖縄戦没者遺骨混入土砂採取問題から考える

適切な当事者意識を育み、
持続的な国民主権の実践を!

イェール大学学生 西尾 慧吾

 防衛省・沖縄防衛局が、沖縄戦没者の遺骨や血が染み込んだ沖縄本島南部の土砂を用いた辺野古新基地建設を計画している「遺骨土砂問題」。5月14日、沖縄県知事は鉱山開発業者に措置命令を出す最終判断を下した。土砂採取を巡り、県と業者との協議を条件付けた点で一定の評価はある一方、中止命令を求めてきた遺族や具志堅隆松さんらにとって、満足のいく結論ではなかっただろう。特に遺族の方にとっては、「今にも肉親の遺骨が基地の材料として売り払われるのではないか?」と案ずる日々が続くことになる。

 この問題の根本原因は、数多の憲法違反を孕む辺野古新基地建設を強行する国だ。しかし、表面的には「沖縄県が県内業者の鉱業権を制限する」という、沖縄内部の対立の形を取った。この問題に対する全国的な問題意識を喚起するには至らず、入管法や国民投票法への抗議運動などと比較すると、「一人負け」感がぬぐえない。
 「一人負け」は、日本の社会運動全般が持つ脆弱性の必然的帰結だとも思われる。入管法や国民投票法への抗議運動は、「極悪非道の政府に抗議する」という勧善懲悪的なストーリーを描きやすかったのかもしれない。構造的沖縄差別の加害者としての当事者性の自認を迫る「遺骨土砂問題」とは対照的だ。コロナ禍の生活で募る怒りをぶつける機会にもなったかもしれない。
 しかし、入管法や国民投票法の運動に関わった人の中で、国会が閉会し、攻撃の的が定めづらくなってからも、問題意識・当事者意識を持続できる市民はどれくらいいるのだろう。
 適切な「当事者意識」を持てていたのだろうか? 例えば、入管法問題は、これまで在留外国人に参政権を与えず、労働力としてしか見なしてこなかった日本社会の構造悪を暴露した。その構造を支えてきたのは、主語を「国民」に限定し、外国人を権利保障の範囲から除外してきた日本国憲法である。「護憲派」「人権派」を名乗る日本国民は、排外的な日本国憲法と外国人からの搾取によって保障された生活に安住してきた自らの加害者性を自己批判することがあっただろうか?
 「遺骨土砂問題」に限らず、どんな社会問題に関しても、適切な当事者意識を持たぬまま運動を続けることは不可能だろう。問題が日本社会の構造から生み出される以上、その構造を担う主権者としての自分の加害責任を自覚する痛みに、いつか対峙することになるからだ。逆に、加害者としての当事者意識を持てば、自分の醜さを解決したいという衝動から運動に参加し続ける持久力を引き出せる。
 こうした当事者意識を醸成するには、SNSによる広く薄い運動では不十分だ。SNSで運動の門戸を広げつつも、社会問題に対する自身の立ち位置を批判的に考察する勉強会や市民運動の場をその先に用意し、広く濃い運動に発展させねばならない。
 「遺骨土砂問題」は良い契機だ。本来的に人道上の問題なので、左右を問わず問題意識を共有できる。沖縄県議会で全会一致の土砂採取反対意見書が採択されたのがその証左だ。
 「遺骨土砂問題」に連帯して対峙することから、無責任な政治への抵抗と国民主権の実践を始めるべきではないだろうか。

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