中国共産党設立百周年への特別な感懐

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命がけで活躍した中国人青年の想いが乗り移った私

早稲田大学名誉教授・元総長 西原 春夫

 今年7月1日、中国は共産党設立百周年の記念式典を予定している。百年前の7月23日から上海で開かれた初め

ての全国代表大会(以下「中共一大」と略称)で正式に共産党が設立されたのを祝賀するためである。
 私は日本人だし、共産主義者ではないから、中国人と同じような感情は持っていない。ところが不思議にも、私にはちょっと違った特別な「感懐」がある。これは誰にも見当つかないだろう。早稲田大学の元総長である私にとっては、共産党の設立を含む中国の近代化にそれこそ命がけで活躍した多くの中国人早稲田大学出身者の想いが乗り移っているからだ。

中国人早稲田大学出身者への想い

 後に述べるように、早稲田大学は1882年、東京専門学校として発足して間もない頃から、中国と深いかかわりを持ち続けてきた。それは一つの伝統と言ってよい。奇しくも1982年にその代表を仰せつかった私も、いつしか伝統の継承者として尽力するようになった。背後には、17歳で終戦を迎えた愛国少年が、戦争中日本の軍隊が周辺の国で何をやったかを知った時の切実な想いが横たわっていたのかもしれない。
 最初は日中大学間の研究教育交流、次いで日中刑事法学術交流、最近ではアジアの国際法秩序確立を目指した日中国際法学者討論会についていささか努力を傾けた。日中関係は微妙だから、私が採った基本方針は、中国のあり方に対する外からの感想(批判も含む)は堅持しつつ、それを言い立てるのではなく、常に現在の中国の立場に立って、中国の正しい発展のために意見を言う、というものだった。そうして40年。今では何を言っても受け入れていただける信頼感が築き上げられたと考えている。
 しかしその基本方針は意外な結果を招いた。早稲田大学出身の中国人に起こった出来事が、人ごとではなく、まるで身内に起こった事件として感ずるようになったのである。不思議なことに、早稲田出身者が影響を与えた第三者についても同じようになった。
 ひとつ例を挙げよう。1986年、魯迅の生まれた美しい水の都「紹興」を案内されたとき、女性革命家として名高い秋瑾の生家(故居)を見学した。そこで目についたのが、彼女が日本留学中に同郷の「早稲田大学学生」の徐錫麟から革命思想の影響を受け、帰国後反政府運動に従事し、その一環として徐錫麟とともに武装蜂起を計画したところ発覚して、1907年、広場で処刑されたとの説明だった。

秋瑾故居に掲げられた絵(筆者撮影)

 私にとり秋瑾の処刑がことさら気になったのは、彼女が常に短刀を懐にした美貌の女性革命家だったこともあるが、何としても「早大生の影響を受けて」という点が大きかった。それだけで、志半ばにして斃れた秋瑾の哀れさが身内の人のように思えてきたのである。
 このことを「共産党の設立」「中華人民共和国の樹立」という歴史的な事実に即してみると、そのために努力したたくさんの早稲田大学出身者のことが気になり、その人々の想いが我が身のものとなり、それが私をして特別な感懐を抱かせるに至ったことがわかる。
 その経緯を、早稲田大学出身で共産党創立の中心人物のひとりと言われる李大釗と、それをめぐる人物に即して探ってみることにしたい。

李大釗の早稲田大学入学の背景

 李大釗は1889年に湖北省で生まれ、天津の北洋法政専門学校を卒業して1913年来日した。この学校は水準が高く、日本政府から日本の高等学校同様の認定を受けていたので、1914年、早稲田大学政治経済学部に無試験で入学した。
 李がなぜ早稲田大学を選んだかは文献上明らかでない。おそらく当時、早稲田大学が中国青年の間でもっとも評判が高かったからだろう。それには理由があった。
 1882年に創立された東京専門学校は、教員青柳篤恒の尽力により、日本の大学として初めて中国語の授業科目を設置している。そのせいもあろうか、1896年、清朝政府が日本に送り出した最初の留学生は東京専門学校に入学している。さらに1898年、戊戌政変に敗れて日本に亡命した康有為、梁啓超らを自宅に匿ったのも、同校の教員柏原文太郎だった。
 こうして有名になった早稲田大学(1902年東京専門学校から改称)は中国青年の人気の的になり、とくに1905年に、清国政府の要請に日本政府が応ずる形で日本の多くの大学に設置された清国留学生部という、短期の学習を可能とする一種の教育部門が早稲田大学にも設けられると、志願者が殺到した。その中には、後に孫文の片腕となって辛亥革命を成就させた宋教仁や黄興などがいたし、付属の高等予科には廖仲愷が入学している。
 折しも清朝打倒を志した孫文(孫中山)が東京で中国同盟会を作ったから、留学生の勉学意欲は新国家建設の目標を得て、ますます燃え盛ることになった。前掲の早稲田大学留学生のほかに、文学者の魯迅、同郷の秋瑾、共産党創立者の一人に数えられる陳独秀や後の周恩来総理、中共一大の場所として自宅を提供した李書城・李漢俊兄弟の名も見えている。
 清朝末期における中国青年の日本留学熱の最盛期は、日本が日露戦争に勝利した1905年から辛亥革命が成就する1911年まで続く。文献を読むだけでも、その時代の中国人留学生の熱気がひしひしと伝わってくる。日本はまさに辛亥革命の後背地として機能していた。(当時の状況については、後掲参考文献・譚「帝都」が参考になる)

早稲田大学在学中の李大釗

李大釗が早稲田大学在学中に読んだ著作の一部(李記念館に展示)

 李大釗は日本留学にあたり、とくに社会科学の体系を経済という観点から統合する「社会経済学」の樹立を目指していたため、猛烈に勉学に励んだようだ。講義で外国人の著書の名前が出てくると、すぐに図書館に行ってそれを調べたという(後掲・安藤149頁)。読んだ日本の文献もおびただしい数に上っている。
 李の日本留学中、後の時代に影響を与えるいくつかの出来事があった。第一は、後に李とともに中国共産党を創設する陳独秀と出会ったことである。陳は1879年安徽省生まれ。1901年に日本に留学、以後前後5回日本を訪問している。最後に英語とフランス語を習得するため来日した1915年に東京で李と顔を合わせ、すぐに意気投合したという。
 特筆すべき第二は、キリスト教を根幹とする人道主義的社会主義思想の持ち主であった安部磯雄の影響を受けたことである。安部は李が留学中住んでいた「基督教青年会」(李の帰国後「信愛学舎」に改名、終戦直前に強制疎開のため取り壊し)の隣にある友愛学舎で学生の指導に当たっており、李の寄宿舎をもたびたび訪れたようだ。安部はマルクス主義者ではなかったが、李大釗にとっては初めての社会主義との接触であったらしく、その影響は大きかったらしい。マルクス主義についても、当時まだ信奉者にはなっていなかったが、終日河上肇の著書に読みふけっていたとの友人の回顧録がある(後掲・メイスナー90頁)。
 しかしそのような勉学一辺倒の生活を激変させたのは、1915年、早稲田大学の創立者大隈重信が総理を務める日本政府が袁世凱政権に対し、「21カ条要求」を突きつけたという、中国人にとっては屈辱的な出来事だった。李は入学後まもなく学内に「中国政治経済学会」を作り、また学

李大釗記念館に展示されている安部磯雄の写真(指さすのは筆者)

外にも「神州学会」を結成して、袁世凱に対する批判運動を展開していた。

そこへ降ってわいたのが21カ条要求で、李はこれに非常に強く反発し、それらの組織を活用して激しい反対運動の先頭に立った。そのため授業に出るいとまがなくなり、1916年、早稲田大学から「長期欠席除名」の処分を受け、6月帰国した。

共産党創立者としての陳独秀と李大釗

 帰国後の李に大きな影響を与えたのは、東京で知り合った陳独秀だった。陳は帰国後上海で「新青年」(創刊当初は「青年雑誌」)と題する雑誌を刊行、いわゆる「新文化運動」の拠点になった。1916年には、北京大学長蔡元培の要請を受けて北京大学の文化学長に就任、後に新青年の同人である李大釗を北京大学に推薦した(後掲・メイスナー91頁。推薦したのは章士釗との説もある〈後掲・佐藤122頁〉)。
 そのおかげで李は1918年に北京大学の図書館主任となり、翌年教授に任ぜられたが、まさに帰国の翌年1917年にロシアに共産主義革命が起こり、さらに1919年に中国にとって屈辱的なパリ講和会議を契機としていわゆる「五四運動」が燃え盛ると、李の思想は一気にマルクス主義に傾いていった。中国マルクス主義の「記念碑的論文」と謳われる李の「私のマルクス主義観」が発表されたのは1919年だったし、折しも北京に来た毛沢東に北京大学の図書館助理員の職を与え、月8元の給与を確保し、李の主催する読書会でマルクス主義を学ばせたというのもその頃である(後掲・メイスナー110頁)。
 1919年の五四運動に表れた民衆の感情的な反抗心は、日本を含む国際社会ばかりでなく、それを許した中国政府そのものにも向けられた。それはさまざまな思潮の対立をも生むこととなった。無政府主義が台頭したのもその頃である。しかし、それだからこそ保守派や政府当局の弾圧も強まり、それらの影響を受けて陳独秀も文化学長の職務を解任されたばかりでなく、「北京市民宣言」のビラを配布した廉で逮捕された。
 陳独秀と李大釗とでは性格が真反対だったらしい。陳は思いつけばすぐ実行に移したくなる性格なのに反し、李には四囲の状況を見極めて判断する慎重さがあった。陳は頑固一徹、所信を貫くためしばしば人と衝突したのに対し、李には諄々と道を説いて人の信頼を獲得する円満さがあった。
 激動期だけに人の意見が激しく対立する中にあって共産党の設立という難事を完遂するためには、このように性格の真逆な論客が手を携えつつ役割分担をする必要があったに違いない。現に彼らはそれを果たした。これもまた天の為せる業だろうか。

共産党の設立、そして中華人民共和国の樹立

 陳は釈放後上海に戻り、主宰する「新青年」を引っ提げて言論活動に専念した。そこには日本留学組の李漢俊や李達、戴季陶らがおり、彼らは協力し合ってマルクス主義の宣伝普及に努めた。実はこれが1921年の共産党設立の母体となっていく。
 一方北京の李大釗は、陳よりも学究肌だったから、マルクス主義の文献収集や研究、普及を目的とする「マルクス主義研究会」(後に「マルクス学説研究会」に発展)を設立し、若手を集め、五四運動で高まった社会改革への民衆の意欲を共産主義の方向に導く思想運動に尽力した。李は日本留学時代に築いた内外の豊富な人脈を文献収集にも活用したという。
 そのように、1919年から20年にかけ、結党の基盤は確かに作られつつあったが、限られたいくつかの都市での現象であり、彼らもまだ全国的な「共産党」の設立までは全く考えていなかったと思われる。それが21年の結党に結びついていくには、何らかの強い外圧が働いたと見るほかはない。外圧の主体はコミンテルンだった。
 1920年春にロシア共産党から派遣されたウォインチンスキー、次いで21年6月にコミンテルンから派遣されたスネーフリート(中国名マーリン)の、革命の実体験に基づく(後者の場合には強引な)説得に応じた結果らしいが、緊急に同年7月23日から上海で、広東にいる陳独秀、年度末で忙しい李大釗欠席のまま、6つの都市(上海、北京、長沙、武漢、広東、済南)から二人ずつ、日本から一人、計13人の代表者が集まって、初めて正式に全国代表大会が開催された。陳も李も、この会議がまさか後年、正式の共産党設立大会と評価されようとは夢にも思っていなかったに違いない。
 中国の歴史は、日本の軍国主義・帝国主義も加わってその後も激変を重ねる。1916年袁世凱亡きあと、コミンテルンの指導によって国共合作が成ったが、1925年孫文が死去すると、国民党の中で力をつけつつあった蔣介石が反共政策を打ち出し、1927年、南京事件、上海クーデターなどの動乱のあと、4月6日、ソビエト大使館に避難していた李大釗は張作霖の軍隊によってとらえられ、26日処刑された。
 陳独秀も同年、革命敗北の責任を問われて共産党総書記を解任され、その後トロツキー派の領袖になったこともあって動乱に巻き込まれ、1842年、貧困のうちに病没した。

 一方、動乱を長征によって生き延びた毛沢東は、戦後国共内戦を制して1949年、ついに共産党の指導する中華人民共和国を樹立した。辛酸を嘗めた幾多の先人たちの夢は、ここに実

李大釗のお墓に参り花輪を手向けた

現したことになる。私は私でそれを思うと、そのために命を捧げた早稲田大学出身者の想像される想いを根拠に、限りない感懐にひたらざるを得ない。
 2008年12月1日、私は北京西方の「北京市万安公墓」にある李大釗のお墓に参った。中退した母校の、後輩に当たる総長がお詣りに来てくれた――泉下の李大釗はどう思っただろうか。

主要参考文献

 石川禎浩「中国共産党成立史」(2001年 岩波書店)
 安藤彦太郎「未来にかける橋――早稲田大学と中国」(2002年 成文堂)
 メイスナー(丸山松幸・上野恵司訳)「中国マルクス主義の源流――李大釗の思想と生涯」(1971年 平凡社)
 佐藤公彦「陳独秀 その思想と生涯」(2019年 集広舎)
 譚璐美「中国共産党を作った13人」新潮新書(2010年 新潮社)
 譚璐美「帝都東京を中国革命で歩く」(2016年 白水社)

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