<シリーズ・日本の進路を考える>
世界の政治も経済も危機は深まり、わが国を亡国に導く対米従属の安倍政権による軍事大国化の道に代わる、危機打開の進路が切実に求められている。
本誌では、各方面の識者の方々に「日本の進路」について語ってもらい、随時掲載する。(編集部)
面白い時代状況、覚悟をもって臨もう
白井 聡(京都精華大学教員)
本論は、8月18日の第13回全国地方議員交流会全体会合での白井聡さんの問題提起での発言を加筆修正したものです。(編集部)
■諸問題を結ぶ共通点は何か
私はいまのさまざまな政治的課題を貫く、「共通の構造」というものがあると思っています。
例えば、沖縄を取り巻く諸問題についてです。ときの政権は、長年、沖縄を構造的差別ともいうべき状況に置き続けてきました。そして、それに対する不満がまさに爆発しつつあります。にもかからず、沖縄県民の声に耳を貸さずに、辺野古への新基地や、高江のヘリパッド建設などを強行しようというのが、安倍政権がやっていることです。
他方で、貧困の問題。私は38歳なんですが、世代的にも、世の中に出ようとしたときは、これまでの、いわゆる「戦後の平和と繁栄」と語られてきた状況とは、明らかに違っていました。そして、「格差」「格差社会」が盛んに訴えられるようになりましたが、もはや、「格差」という言葉だけでは言い表せない状況に至っています。
「資本主義社会だから、ある程度の格差は仕方がない」と、「格差」というのは肯定されがちになるのですが、もう今は、「格差」など生易しいものではなく、問題は「貧困」であるという現実が目の前にあるわけです。
そして、世界資本主義の現状からいって、これまでのような経済成長は難しい状況です。またこれは日本一国に限った問題ではありません。「貧困問題」が発生したのは必然性があるわけです。
藤田孝典さんが指摘されたもっとも重要なポイントは、こうした「貧困問題」に対し、有効な政策が打ち出されていないことだと思います。もちろん、これは地方自治体や、厚生労働省などの行政などの担当者は、現場においては、それなりの努力をしているでしょうし、「貧困問題」を解決したいという意欲もあるのでしょう。
しかし、国家全体の構造として見た場合、この問題に本気で取り組むスタンスがあるのかといえば、はなはだ疑問と言わざるを得ません。
例えば、オスプレイとか、F35戦闘機だとかを日本政府は、アメリカの言い値で買うということをやっているわけです。相手の言い値で武器を買うなんていうことをやっているのは世界広しと言えども、日本だけでしょう。ですから、アメリカの軍需産業に対して貢ぐということには喜んで、いくらでもおカネを出すけれども、他方で目の前にある「貧困問題」に対しては、財布のひもをキュッと締めるというのが、今の政府の姿勢です。
沖縄をめぐる問題、そして、貧困問題などこうした問題の共通点というものは何でしょうか。私から見れば、その共通点とは、もはや、この国の政府は「国民の統合」ということを、考えていないということだと思います。
明日の分科会のそれぞれのテーマは、どれも、本当に待ったなしの深刻な問題を取り上げるものです。これらはいずれも、「国民の統合」の危機をあらわしていると思います。
■「戦争」で「国民統合」
そして、この「統合の危機」が一体、どこへ向かっていくのかを考えると、私はハッキリ言って、これは「戦争」ということだと思います。「戦争しかない」ということにつながっていくと思います。
それは、満州事変から、太平洋戦争に至るまでの日本が向かっていった流れというものと、よく似ていると思います。
なぜ、世に「15年戦争」、あるいは「大東亜戦争」と呼んでいたあのような戦争に当時の日本が突き進んでいったのか。
それは、大局的な構造から言えば、寄生地主制にその遠因があった。寄生地主制が当時の日本社会における最も根本的なベースにあり、「近代資本主義社会における封建性の残存」ともいわれたわけですが、問題は農村にとどまらなかった。同じような封建的構造が工場労働者のような賃金労働者階級の雇用関係においても浸透していて、社会構造の全般的な歪みがあった。そうした社会を世界大恐慌が襲いました。その矛盾を最も激甚的な形で被ったのが、農村でした。貧困化する下層農民をどうやって食べさせるかといった課題に直面した当時の日本政府は、対外侵略にその活路を見出していきました。
当時の日本政府や役人、政治家もこうした状況を把握していなかったわけではありませんでした。だから、「国内改革」で、「寄生地主制を何とか解体しなければならない」とも考えていました。しかし、結局、それができないままに、対外侵略に活路を見出すことしかできませんでした。つまり、必要な国内改革ができないがために、その矛盾の解決を対外侵略に見出して、統御不能な戦争に至ったということです。
ですから、現在起こっているのも、同じことだと思います。これだけ「国民統合の危機」が実際に起こり、もう社会のあらゆる階層で、不満、不信、疑惑というネガティブな情念というのが渦を巻いている状況にあります。
例えば、ヘイトスピーチに代表される排外主義の問題に対して、皆さんも注視されていると思いますが、一体、誰がああいうことをやっているのか。ネット上の書き込み見てても、ひどいですよね。これについてはいろんな人が仮説を出してますが、最初はいわゆる、ニート、フリーターと言われている「疎外された層」の社会的うっ屈がたまって、排外主義に走っているという見立てが有力視された。
しかし、もう少し調査が進んでくると、それなりの社会的地位にある人たちまでもが、激しい排外主義の感情に取りつかれているという見方が出てきた。これは私の実感とも一致します。社会の全階層にわたって、排外主義の熱ともいうものが、広がっていると見るべきと思います。
これは「一億総不満社会」とでも言うべき状況です。こうした人びとに渦巻く不満をどうやったら、ガス抜きできるか。
一番手っ取り早い方法は、「戦争」です。
「もう、戦争が始まってしまいました」ということになれば、「社会統合の危機」という課題は吹っ飛びます。「戦争だから、勝たねば」ということになりますから、社会は「統合」されるわけです。
■「万能の膏薬」としての対中脅威論
その意味で今最も危険な役割を果たしているのは、対中国脅威論です。今や、間違った政策を進めるために、常に援用されるのは、対中脅威論だからです。
例えば、昨年、安保法制という形で集団的自衛権行使の問題について、国論が二分する状況が生まれました。賛成派は、最終的な「切り札」として、対中脅威論を振りかざしました。尖閣問題などで「中国は、強引だ」「中国をとにかく抑え込まなくては」「ひょっとすると明日にでも攻めてくるかも」と言い続けて、「そういう状況なのに、『合憲』だとか『違憲』だとか言っている場合じゃない」と言うわけです。これはヘルマン・ゲーリング流(注)の非常に強力なレトリックです。
注:ヘルマン・ゲーリングのレトリック
ヘルマン・ゲーリックは、ナチス・ドイツでヒットラーの後継者となった軍人、軍で最高位の国家元帥。ニュルンベルク裁判での心理分析官グスタフ・ギルバートに対して「民主主義であれファシスト独裁であれ議会であれ共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。(中略)とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」と答えたという。以上は、wikipediaによる 【編集部】
環太平洋経済連携協定(TPP)の問題も同様です。これも結局、経済分野で対中ブロックをつくるということです。つまり、「台頭する中国を抑え込むには、日米関係をますます緊密にして、抑え込むしかない」ということです。だから、TPPに対して、「結局、アメリカに富を貢ぐことに他ならない」という反対派の批判に対して、ある意味、「それは正しい」と認めるわけです。「仕方がない。そのぐらいの貢ぎ物をアメリカに贈って、中国を抑え込んでもらう」という理屈です。
こういう具合にもう、ほとんど「万能の膏薬」として、対中脅威論というのが使われる状況です。現在、この国を支配している中核部分は戦略的に対中脅威論を使っていますが、彼らはこれだけ煽ってしまえば、後に引けなくなるという水域に入り込んでいく可能性があるわけです。
■リアルな想像こそ事態回避の力
このときに、「日中ともに相互依存関係が深いわけだから、戦争できるわけない」という見解もあります。ですが、戦争というものは、このような合理性だけでは割り切れないところがあるというのが、歴史の教訓だと、私は思っています。
第一次世界大戦が始まる前の時代に、イギリスのエンジェル(ノーマン・エンジェル、作家、元国会議員)という人が、「エンジェル理論」というのを立てました。第一次大戦前夜の時代は、第一次グローバリゼーションの時代などとも言われ、金本位制にもとづいて、ヨーロッパの中では経済の交流、国境を超えた経済交流が大変盛んに行われていた時代でした。ヒト、モノ、カネの国境を越えた動きが非常に活発でした。エンジェルによれば、こういう現実がある以上、「戦争なんかできるわけがない」ということでした。
しかしながら、それは第一次世界大戦の勃発という形で現実には裏切られるということになってしまったわけです。
私はこのことに関して、今、こうした不吉なアナロジーというのを、「思考実験」としてしっかり頭の中に入れて、想像しておかないといけないと思います。むしろ、そのような可能性をリアルに想像することだけが、悲劇的な事態を回避させる力になるだろうと考えています。
■内在化していない「戦後民主主義」
そして、私はある意味、日本は第二次世界大戦に至る反復を進もうとしているかもしれないという危険性について指摘しています。問題は、日本が第二次世界大戦における敗北を経ても、この国はまともな政府、まともな社会というものをつくることができなかったということです。そして、そのツケが現在に回ってきているというふうに思います。
いわゆる、「戦後民主主義」と言われますが、しかしながら、今日、さまざまな報告者のレジメのタイトルにあるように、本当に「日本は民主主義国家なのか?」という自問が次々に上がらざるを得ない状況になってきています。
そして、それは私に言わせれば、ある意味、当然の帰結だろうと思います。
これはたびたび、多くの人たちから指摘されてきたことですが、GHQ主導による「民主主義改革」なるものが行われたけれども、本当にそれは社会に内在化したのだろうかという疑問です。
そして、内在化していないという最大の証は、現在の安倍政権の姿です。戦前のファシスト勢力が冷戦構造にも助けられ、そのまま代替わりしながら、支配層として君臨し続けるような状況があります。そのシンボルが、まさに岸信介であり、その孫にあたる安倍晋三が今、首相ということにあらわれています。これはナチス・ドイツと戦後のドイツとの対比からしてみれば、極めて異様な社会であることは論をまたないことだと思います。
■「戦後民主主義」の幻想打ち砕いた「3・11」
言葉のうわべだけで「民主主義社会だ」と言ってきたわけですが、これが本当の民主主義社会でもなんでもないということを、赤裸々に示してしまったのが、私は「3・11」の福島原発事故だったと思うんです。その事故への対処、こんにちに至るまでその問題は引き続いていますし、今後も続かざるを得ないのですが、また、原発をどうするのか、これまでどうやって原発が推進されてきたのかということを見れば、そこには一片の民主主義もないというのは明らかですね。
そして、こんな現実を前にして、この国の支配層は、開き直ったわけです。「民主主義? そんなものはもともとありはしないんだ」と。まあ、こういうことです。もうこのような赤裸々な面を隠さなくなっているというのが、安倍政権の姿だと思います。
ですから、このような安倍政権を倒さなくてはならない。先ほど仲里さんのお話にもありましたけど、私も、まったくその通りだと思っています。
■「戦後レジーム」にしがみつく安倍政権
そして、安倍首相は「戦後レジームからの脱却」と言っていますけれど、戦後レジームからの脱却」って一体なんだろうと。私は「戦後レジーム」のことを「永続敗戦レジーム」と呼んでいます。それは、あの戦争に「負けた」ということを、「なかったこと」にして誤魔化すことによって成り立っている政治と社会のあり方をさしてそう言っているんです。
このあり方こそ戦後民主主義の地金であったことが、3・11以降強烈に表面化しているわけですが、こうした異様な体制が形成されてしまった起源は、敗戦後の日米関係に見出されます。要するに、東西冷戦対立の激化という情勢下で、アメリカの側は日本の旧支配層を温存・再起用する方針を採った。岸信介の政界復帰と首相就任がその象徴です。本来この人たちは、再び指導者になっていいはずがなかった。ゆえに、彼らの責任の1丁目1番地、すなわち国策を誤らせた責任を誤魔化さなければならなかった。こうして「敗戦の否認」が必然化されるに至ります。
そして、当然のことながら、このレジームは、異様なる対米従属を基調とするものとなります。なぜなら、アメリカによって戦争責任を免責してもらうことで首がつながった勢力がその中核を占めるわけで、この方々がアメリカ様に頭が上がるはずがないからです。冷戦構造下でこの体制は、経済成長に成功しました。しかし、冷戦終焉によって、従来の対米従属方針から合理性が失われた。それにもかかわらず、むしろ対米従属に歯止めが掛からなくなっているのが現在の情勢であり、まさに「永続敗戦」の状態が表面化しているわけです。
安倍首相がその「永続敗戦レジーム」から「脱却する」というのであれば、これは大いに正しいのですが、安倍首相は、その「戦後レジーム」の本質をまったく理解できていないわけです。
だから、彼がやっていることといえば、スローガンとは裏腹に「永続敗戦レジーム」としての「戦後レジーム」を必死に守り抜くということです。そして、それを死守するためだったら、どんな手段でも用いる。そして、その手段の中にはおそらく、「戦争」ということすらも含まれている。そういう恐ろしい時代だという時代認識を私はもっています。
「対米従属の永続敗戦レジーム」というものが、限界に達し、その限界の危機を乗り越えるために、安倍首相は閣議決定による解釈改憲をはじめとして強引なことをやっています。「戦後レジーム」は今、明らかに危機にあるわけです。
■「戦後レジーム」の危機に揺さぶられる象徴天皇制
今、私は、「太平記」とか「平家物語」などを読んでいるんです。それは、先日の天皇による、「生前退位」の意向表明に触発されたところがあります。敗戦にもかかわらず天皇制が残ったということと、きょうお話ししたこの日本政治、社会の構造とは密接な関係があります。
象徴天皇制というのも、異様なる対米従属に基づく「戦後レジーム」の中で、つくられ、そして継続してきたものです。だから、「戦後レジーム」が危機に陥るということは同時に象徴天皇制も危機に陥るということなんです。
それゆえ私は、天皇による「生前退位」発言の真意について考えたとき、今上天皇の象徴天皇制をどうにかして続けていくのだという、大変な意思というのを感じたわけです。
これは、ある意味、非常に面白い時代状況になってきたことを示していると思います。
日本の歴史が何度か繰り返してきたパターンというものに、だんだん近づいてきているわけですね。それは、国難が発生し、それに対応するに当たっての既存の権力の無能さが露呈する。そこで天皇の権威がにわかに高まることによって内乱が起きて、大変革というがもたらされるということです。
今、明らかに天皇の意思と、政権の意思が、激しく対立しているという状況ということが、もう隠せないくらいに、見えてきている。果たしてこの時に、一体何が起こるのか。私たちは、それは並大抵なことではない覚悟をもって、この状況に挑んでいかなくてはならないと思います。
時間の制約もあり、非常には簡略化した説明になってしまい、分かりにくいところもあったと思います。今日の話の内容は、私の『永続敗戦論』と『戦後レジームを終わらせる』という本の議論から敷衍(ふえん)して述べたことを含んでいますので、是非、そちらも参照にしていただけたらと思います。
どうも、ありがとうございました。
しらいさとし さん 京都精華大学人文学部専任講師(政治学・社会思想)。1977年、東京都生れ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得退学。博士(社会学)。著書に、『未完のレーニン』、『「物質」の蜂起をめざして―レーニン、〈力〉の思想』、『永続敗戦論――戦後日本の核心』(太田出版、第35回石橋湛山賞受賞)、『戦後政治を終わらせる―永続敗戦の、その先へ』(NHK出版新書)など。編集部