東京大学大学院教授 鈴木 宣弘
国民の命を守り、国土を守るには、どんなときにも安全・安心な食料を安定的に国民に供給できること、それを支える自国の農林水産業が持続できることが不可欠であり、まさに、「農は国の本なり」、国家安全保障の要である。そのために、国民全体で農林水産業を支え、食料自給率を高く維持するのは、世界の常識である。食料自給は独立国家の最低条件である。
例えば、米国では、食料は「武器」と認識されている。米国は多い年には穀物3品目だけで1兆円に及ぶ実質的輸出補助金を使って輸出振興しているが、食料自給率100%は当たり前、いかにそれ以上増産して、日本人を筆頭に世界の人びとの「胃袋をつかんで」牛耳るか、そのための戦略的支援にお金をふんだんにかけても、軍事的武器より安上がりだ、まさに「食料を握ることが日本を支配する安上がりな手段」だという認識である。
米国からは軍事的武器も大量に買わされている。オスプレイやF35に何兆円もかけても台風など全国で多発する災害から国民を守ることはできない。台風15号に見舞われた南房総の現地から「牛乳工場が動いていない。搾乳できない農家、搾乳しても行き先のない牛乳、牛舎倒壊、牛の死亡、廃業する農家。かなり悲惨だが国の対策室がいまだにない」という切実な声が寄せられた。
このような深刻な事態に食料、水、電気、その他のライフラインを確保してみんなの生活が元に戻るように普段から備えておくのが安全保障だ。いざというときに食料がなくて、代わりにオスプレイの鉄板はかじれない。
国のリーダーが国民の命を犠牲にしてわが身を守り、国民をごまかすために労力を使っている場合ではない。
今も続く占領政策
ブッシュ元大統領は、食料・農業関係者には必ずお礼を言っていた。「食料自給はナショナル・セキュリティの問題だ。皆さんのおかげでそれが常に保たれている米国はなんとありがたいことか。それにひきかえ、(どこの国のことかわかると思うけれども)食料自給できない国を想像できるか。それは国際的圧力と危険にさらされている国だ。(そのようにしたのもわれわれだが、もっともっと徹底しよう)」と。また、1973年、バッツ農務長官は「日本を脅迫するのなら、食料輸出を止めればよい」と豪語した。
農業が盛んな米国ウィスコンシン大学の教授は、農家の子弟が多い講義で「食料は武器であって、日本が標的だ。直接食べる食料だけじゃなくて、日本の畜産のエサ穀物を米国が全部供給すれば日本を完全にコントロールできる。これがうまくいけば、これを世界に広げていくのが米国の食料戦略なのだから、皆さんはそのために頑張るのですよ」という趣旨の発言をしていたという。故宇沢弘文教授は、友人から聞いた話として、米国の日本占領政策の2本柱は、①米国車を買わせる、②日本農業を米国農業と競争不能にして余剰農産物を買わせる、ことだったと述懐している。今も同じではないか。
日米貿易協定では、TPPで約束した米国の関税撤廃は、日本から米国への輸出の4割を占める完成車と自動車部品の関税撤廃の約束はホゴにされ、さらに米国へ輸出する牛肉の関税撤廃もホゴにされ、日本の牛肉輸入は「TPP超え」となり、おまけに600億円近くの米国の余剰穀物の「肩代わり」購入を(使い道はないのに害虫対策と称して)約束するという、日本にとって非常に「片務的」な、トランプ大統領の選挙対策のための「つまみ食い」協定を受け入れた。トランプ氏にとっては自動車も農産物も「がっちり」のウィンウィンである。
日本は戦後一貫して対米従属を続け、余剰穀物の最終処分場にもされ、コメ以外の穀物自給率は数%になるまで低下し、これ以上受け入れられない満杯状態になっているのに、さらに「尻ぬぐい」に無理やり買わされ、まさに、「対米従属極まれり」の占領政策の総仕上げが進行している。
思考停止的かつやみくもな米国追従から脱却するには、アジアの人びととの共生のためのビジョンと青写真を早急に提示することが不可欠である。特に、農業については、零細水田稲作といった共通性に基づいて東アジア諸国がまとまって、「東アジア共通農業政策」を軸にした、真に互恵的な経済連携を実現することが、新大陸型の大規模畑作経営の論理に対抗して「独立」した拮抗力を形成しうる(注)。
(注) 鈴木宣弘「東アジア共通農業政策構築の可能性―自給率・関税率・財政負担・環境負荷―」『農林業問題研究』第161号、2006年3月、pp.37-44による青写真検討の試算などを参照。
農を守らない日本
日本の農家の所得のうち補助金の占める割合は3割程度なのに対して、EUの農業所得に占める補助金の割合は英仏も90%を超え、スイスではほぼ100%、日本は先進国で最も低い。「所得のほとんどが税金で賄われているのが産業といえるか」と思われるかもしれないが、命を守り、環境を守り、コミュニティーを守り、国土・国境を守っている産業を国民みんなで支えるのは欧米では当たり前なのである。それが当たり前でないのが日本である。
日本農業が過保護だから自給率が下がった、耕作放棄が増えた、高齢化が進んだ、というのは間違いである。過保護なら、もっと所得が増えて生産が増えているはずだ。逆に、米国は競争力があるから輸出国になっているのではない。コストは高くても、自給は当たり前、いかに増産して世界をコントロールするか、という徹底した食料戦略で輸出国になっている。つまり、一般に言われている「日本=過保護で衰退、欧米=競争で発展」というのは、むしろ逆である。
だから、日本の農業が過保護だからTPPなどのショック療法で競争にさらせば強くなって輸出産業になるというのは、前提条件が間違っている。そんなことをしたら、最後の砦まで失って、息の根を止められてしまいかねない。早くに関税撤廃したトウモロコシの自給率が0%、大豆が7%であることを直視する必要がある。
脆弱化した農業構造にいっそうの自由化がのしかかる複合的影響の深刻さ
地域農業は全国的にみると「限界集落」といわれるような農村地域が増えて農業が疲弊している。さらに5年、10年で高齢化が進み、後継者が育たなければどうなるか。この脆弱化した農業構造に自由化が加わる。この2つを加えた複合的影響が本当の影響だ。これらを考慮して計算すると、例えば、牛肉の自給率は2035年には16%、豚肉は11%という試算さえある。
メガ・ギガファームが増えていても継続的な生産構造の脆弱化と生産の減少が止まらず、国民への国産食料の供給が危機的レベルになりかねないという将来展望から明確に示唆されることは、国民に安全な食料を安定的に確保する食料安全保障の観点からも、農村社会の持続的な発展の観点からも、資源・環境・国土の健全な保全の観点からも、一部の企業的経営さえ伸びればよいという政策の方向性が間違っているということである。
食料自給率を死語にしてはならない
わが国では、国家安全保障の要としての食料の位置づけが甘い。一応、実現目標として掲げられたカロリーベースで45%という数字はあるが、今や37%まで下がり、そこから上がる見込みも、上げる努力の気配も感じられない。食料自給率という言葉さえ、死語になったかのように使われなくなってきていることは、世界の流れに完全に逆行している。
脆弱化した農業構造にいっそうの自由化が加わった場合の品目別需給の将来展望
品目 |
年 |
需要 |
供給 |
自給率 |
|||
趨勢 |
自由化考慮 |
趨勢 |
自由化考慮 |
趨勢 |
自由化考慮 |
||
コメ |
2015 |
100 |
100 |
98 |
98 |
98 |
98 |
2035 |
62 |
62 |
79 |
76 |
127 |
123 |
|
野菜 |
2015 |
100 |
100 |
80 |
80 |
80 |
80 |
2035 |
95 |
97 |
42 |
41 |
44 |
43 |
|
果物 |
2015 |
100 |
100 |
40 |
40 |
40 |
40 |
2035 |
75 |
76 |
25 |
21 |
33 |
28 |
|
酪農 |
2015 |
100 |
100 |
62 |
62 |
62 |
62 |
2035 |
94 |
95 |
28 |
27 |
30 |
28 |
|
牛肉 |
2015 |
100 |
100 |
40 |
40 |
40 |
40 |
2035 |
86 |
92 |
18 |
15 |
21 |
16 |
|
豚肉 |
2015 |
100 |
100 |
51 |
51 |
51 |
51 |
2035 |
131 |
132 |
20 |
15 |
15 |
11 |
|
鶏肉 |
2015 |
100 |
100 |
66 |
66 |
66 |
66 |
2035 |
158 |
162 |
38 |
31 |
24 |
19 |
注: コメの場合、2015年の需要量を100としたとき国内供給は98なので、自給率は98%と読む。
われわれは原発でも思い知らされた。目先のコストの安さに目を奪われて、いざというときの準備をしていなかったら、取り返しのつかないコストになる。食料もまさにそうである。普段のコストが少々高くても、オーストラリアや米国から輸入したほうが安いからといって国内生産をやめてしまったら、2008年の食料危機のときのように、お金があれば買えるのではなくて、輸出規制で、お金を出しても売ってくれなくなったら、ハイチやフィリピンでコメが食べられなくなって暴動が起きて死者が出たように、日本国民も飢えてしまう。
だから、そういうときに備えるためには、普段のコストが少々高くてもちゃんと自分のところで頑張っている人たちを支えていくことこそが、実は長期的にはコストが安いということを強く再認識すべきである。なのに、食料「自給力」があればよいと言うので、その内容を見ると「いざというときには校庭にイモを植えて数年しのげる」という類いの対策だから驚きだ。
日本の農産物は買い叩かれている
認識すべきは、日本の農産物は買い叩かれているということである。食料関連産業の規模は、1980年の49・5兆円から、2011年には76・3兆円に拡大している。けれども農家の取り分は13・5兆円から10・5兆円に減少し、シェアは27・3%から13・7%に落ち込んでいる。農家の農業所得を時給に換算すると、お米で480円、果物や野菜でも500~600円程度。このような時給で頑張って続けてくださいと言っても、これは無理である。このことを食べる側は考えなければいけない。
カナダの牛乳は1リットル300円で、日本より大幅に高いが、消費者はそれに不満を持っていない。筆者の研究室の学生のアンケート調査に、カナダの消費者から「米国産の遺伝子組み換え成長ホルモン入り牛乳は不安だから、カナダ産を支えたい」という趣旨の回答が寄せられた。生・処・販のそれぞれの段階が十分な利益を得た上で、消費者もハッピーなら、高くても、このほうが皆が幸せな持続的なシステムではないか。「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」が実現されている。
(ただし、カナダがこのようなシステムを維持するには、海外からの安い牛乳・乳製品を遮断する必要があるため、TPPで断固たる対応が必要になり、カナダはそれを押し通した。カナダはTPP参加国に対してわずかな無税輸入枠〈TRQ〉を新設したが、それを超える輸入に対する高関税には手を付けずに維持することに成功した。EUにも同じ。新NAFTAでも同じ。)
真に強い農業とは――ホンモノを提供する生産者とそれを支える消費者との絆
真に強い農業とは何か。規模拡大してコストダウンすれば強い農業になるだろうか。規模の拡大を図り、コストダウンに努めることは重要だが、それだけでは、日本の土地条件の制約の下では、オーストラリアや米国に一ひねりで負けてしまう。同じ土俵では勝負にならない。少々高いけれども、徹底的に物が違うからあなたの物しか食べたくない、という人がいてくれることが重要だ。そういうホンモノを提供する生産者とそれを理解する消費者との絆、ネットワークこそが強い農業ではないか。
結局、安さを求めて、国内農家の時給が1000円に満たないような「しわ寄せ」を続け、海外から安いものが入ればいい、という方向を進めることで、国内生産が縮小することは、ごく一部の企業が儲かる農業を実現したとしても、国民全体の命や健康、そして環境のリスクは増大してしまう。自分の生活を守るためには、国家安全保障も含めた多面的機能の価値も付加した価格が正当な価格であると消費者が考えるかどうかである。
スイスの卵は国産1個60~80円もする。輸入品の何倍もしても、それでも国産の卵のほうが売れていた(筆者も見てきた)。小学生くらいの女の子が買っていたので、聞いた人(元NHKの倉石久壽氏)がいた。その子は「これを買うことで生産者の皆さんの生活も支えられ、そのおかげで私たちの生活も成り立つのだから、当たり前でしょう」と、いとも簡単に答えたという。
スイス国民は「生産者の皆さんも人にも環境にも動物にも生き物にも景色にも優しい本物を作ってください。それは高くない。われわれはその込められた価値をみんなで分担して支えていきますよ」という、生産から消費までの強力なネットワークを形成した。消費者、生協が動き、農協、生産者も動いた。
価格に反映しきれない部分は、全体で集めた税金から対価を補塡する。これは保護ではなく、さまざまな安全保障を担っていることへの正当な対価である。それが農業政策である。農家にも最大限の努力はしてもらうのは当然だが、それを正当な価格形成と追加的な補塡(直接支払い)で、全体として、作る人、加工する人、流通する人、消費する人、すべてが持続できる社会システムを構築する必要がある。
イタリアの水田の話が象徴的である。水田にはオタマジャクシが棲める生物多様性、ダムの代わりに貯水できる洪水防止機能、水を濾過してくれる機能、こうした機能に国民はお世話になっているが、それをコメの値段に反映しているか。十分反映できていないのなら、ただ乗りしてはいけない。自分たちがお金を集めて別途払おうじゃないか、という感覚が税金からの直接支払いの根拠になっている。
根拠をしっかりと積み上げ、予算化し、国民の理解を得ている。個別具体的に、農業の果たす多面的機能の項目ごとに支払われる直接支払額が決められているから、消費者も自分たちの応分の対価の支払いが納得でき、直接支払いもバラマキとは言われないし、農家もしっかりそれを認識し、誇りをもって生産に臨める。このようなシステムは日本にない。
米国では、農家にとって必要な最低限の所得・価格は必ず確保されるように、その水準を明示して、下回ったら政策を発動するから安心して作ってください、というシステムを完備している。これが食料を守るということだ。
カナダ政府が30年も前からよく主張している理屈で、なるほどと思ったことがある。それは、農家への直接支払いというのは生産者のための補助金ではなく、消費者補助金なのだというのだ。なぜかというと、農産物が製造業のようにコスト見合いで価格を決めると、人の命にかかわる必需財が高くて買えない人が出るのは避けなくてはならないから、それなりに安く提供してもらうために補助金が必要になる。これは消費者を助けるための補助金を生産者に払っているわけだから、消費者はちゃんと理解して払わなければいけないのだという論理である。この点からも、生産サイドと消費サイドが支え合っている構図が見えてくる。
農業政策を意図的に農家保護政策に矮小化して批判するのは間違っている。農業政策は国民の命を守る真の安全保障政策である。こうした本質的議論なくして食と農と地域の持続的発展はない。
「総仕上げ」をさせてはいけない
公益的なもの、共助・共生の精神に基づくものとして維持されてきた事業をオトモダチ企業の儲けの道具に差し出させるのが、規制改革や自由貿易の本質である。国民の命に直結するライフラインが狙われている。水道事業も民営化され、医療への攻撃、共済事業への攻撃も日米交渉の第2ステージで本格化するだろう。今後の日米交渉では、米国の農業、自動車産業、製薬・医療産業、金融・保険業界、グローバル種子企業などの利益のために、どれだけ日本国民の命と暮らしがむしばまれるかを深刻に受け止めないといけない。
国内では、農業については、家族経営の崩壊、農協解体に向けた措置(全農共販・共同購入の無効化、独禁法の適用除外の実質無効化、生乳共販の弱体化、信用・共済の分離への布石)、外資を含む一部企業への便宜供与(全農の株式会社化→買収、特定企業の農地取得を可能にした国家「私物化」特区、種子法の廃止、農業「移民」特区の展開)、そして、それらにより国民の命と暮らしのリスクが高まる事態が「着実に」進行している。
さらに、農協・漁協に対する大手流通業者の取引交渉力を強め、農林水産物のいっそうの買いたたきを促進する卸売市場の民営化、民有・国有林の「盗伐」合法化(特定企業への露骨な便宜供与=皆伐でハゲ山にしても植林義務なく、税金で再造林)、漁業についても、これまで各漁場で代々生業を営む漁家の集合体としての漁協に優先的に免許されてきた漁業権を、漁協(漁家)への優先権を剝奪し、知事判断で企業に付け替える(「公共目的・補償あり」の強制収用より悪い=「私的利益・補償なし」で生存権・財産権没収)が決まった。山も海も資源管理のコストは負担せずに、儲けだけ自分のものにして、周りや国民にツケを回す。水道(コンセッション方式)も同じだ。
「攻めの農業」、企業参入が活路、というが、既存事業者=「非効率」としてオトモダチ企業に明け渡す手口は、農、林、漁ともにパターン化している。H県Y市の国家戦略特区で農地を買えるようになった企業はどこか。その社外取締役は国家戦略特区の委員で、自分で決めて、自分の企業が受注、を繰り返している。国家「私物化」特区だ。森林の新しい法律は、H県Y市と同じ企業がバイオマス発電で「意欲のない」人の山を勝手に切って燃やして儲けるのを、さらに、国有林を皆伐してハゲ山にしても植林義務はなく、後始末は森林環境税までつぎ込んで手助けする。
漁業権の開放は、日本沿岸の先祖代々、生業を営んできた「水域を有効に活用していない」既存の漁業者の生存権を剝奪して大規模養殖をやりたい企業に漁業権を付け替える法改定。端的に言うと、長年、前浜で生業として維持されてきた鈴木さんちのノリ漁場は条件が良いから、そこでノリでなくてオトモダチ企業がマグロ養殖をしたら何十倍も儲かる。それが漁業の成長産業化に合致する効率化だ。だから、鈴木さんに優先的使用権があるのはおかしい、企業にタダで明け渡して、出ていけ、という論理である。H県Y市の農地を買収し、盗伐でバイオマス発電する同じ企業が洋上風力発電にも参入する。
農地利用を管理する農業委員会が任命制にされ、儲けられそうな市町村の委員にはMやT、Nら がセットで入ろうと物色しているとのうわさまで流れた。漁業調整委員会が任命制にされたが、漁業権を奪いたい企業が委員になるのも見え見えだ。
「攻めの農業・林業・漁業」の本質は、既存の農林漁家を農地・山・海から引き剝がし、ビジネスとお金を奪い、特定のオトモダチ企業が儲けの道具にするだけだから、仮に少数の「今だけ、金だけ、自分だけ」の企業が短期的に利益を増やしても、地域も、国民も疲弊し、社会は持続できなくなる。こんなことが長続きするわけはないが、取り返しのつかないレベルになってしまってからでは手遅れになる。「今だけ、金だけ、自分だけ」の正反対の取り組みで地域を守ってきたわれわれが、ここで負けるわけにはいかない。
自由化は農家の問題でなく国民の命と健康の問題~手遅れになる前に気付くための生産者と消費者のネットワーク強化
農産物貿易自由化は農家が困るだけで、消費者にはメリットだ、というのは大間違いである。いつでも安全・安心な国産の食料が手に入らなくなることの危険を考えたら、自由化は、農家の問題ではなく、国民の命と健康の問題なのである。
つまり、輸入農水産物が安い安いと言っているうちに、エストロゲンなどの成長ホルモン、成長促進剤のラクトパミン、遺伝子組み換え、除草剤の残留、イマザリルなどの防カビ剤と、これだけでもリスク満載。これを食べ続けると病気の確率が上昇するなら、これは安いのではなく、こんな高いものはない。
日本で、十分とは言えない所得でも奮闘して、安心・安全な農水産物を供給してくれている生産者をみんなで支えていくことこそが、実は、長期的には最も安いのだということ、食に目先の安さを追求することは命を削ること、子や孫の世代に責任を持てるのかということだ。
福岡県の郊外のある駅前のフランス料理店で食事したときに、そのお店のフランス人の奥さまが話してくれた内容が心に残っている。「私たちはお客さんの健康に責任があるから、顔の見える関係の地元で旬にとれた食材だけを大切に料理して提供している。そうすれば安全でおいしいものが間違いなくお出しできる。輸入物は安いけれど不安だ」と切々と語っていた。
牛丼、豚丼、チーズが安くなってよかったと言っているうちに、気がついたら乳がん、前立腺がんが何倍にも増えて、国産の安全・安心な食料を食べたいと気づいたときに自給率が1割になっていたら、もう選ぶことさえできない。今はもう、その瀬戸際まできていることを認識しなければいけない。
資源・環境を守るのは共同管理
もう一つ重要なことは、農地や山や海はコモンズ(共用資源)だということである。規制撤廃して個々が勝手に自己利益を追求すれば、結果的に社会全体の利益が最大化されるという短絡的経済理論のコモンズへの適用は論外である。筆者は環境経済学の担当教授で、毎年、学生に、農村の水利用管理や入会牧場や漁場を例に、「コモンズの悲劇」(個々が目先の自己利益の最大化を目指して行動すると資源が枯渇して共倒れする)を講義している。コモンズは共同管理されることで「悲劇」を回避してきた。それに対して、「コモンズの共同管理をやめるべき」というのは、根本的な間違いと言える。
広く捉えれば地球環境全体も「グローバルコモンズ」であり、個々が自己利益の最大化に邁進したら破壊される。例えば、目先の狭い経済利益を個々が追求した結果、地球環境が悪化してゲリラ豪雨のような異常気象が頻発し、それによる洪水も、山が荒れ、田んぼが荒れて、止めることができない。それを回避するには、農林水産業(農地・森林・海)と他産業も含めた連携による自発的な共同管理、共助・共生システムが極めて有効であり、市場原理主義を振りかざしてはいけない。
地域の暮らしを守る最後の砦は相互扶助組織、協同組合、現場の政治・行政
市場原理主義による小農・家族農家を基礎にした地域社会と資源・環境の破壊を食い止め、地域の食と暮らしを守る最後の砦は協同組合だ。
国連の2012年の「国際協同組合年」、ユネスコによる16年の協同組合の「無形文化遺産」登録に結実した。それと連動して、国連は17年12月、19~28年を「家族農業の10年」と定めた。さらに、18年12月には「小農と農村で働く人びとの権利に関する国連宣言」が採択された。
覚悟をもって自らが地域の農業にも参画し、地域住民の生活を支える事業も強化していかないと地域社会を維持することはいよいよ難しくなってきている。協同組合や自治体の政治・行政には大きな責任と期待がかかっている。
日本の生産者は、自分たちこそが国民の命を守ってきたし、これからも守るとの自覚と誇りと覚悟を持ち、そのことをもっと明確に伝え、消費者との双方向ネットワークを強化して、地域を食いものにしようとする人をはね返し、安くても不安な食料の侵入を排除し、自身の経営と地域の暮らしと国民の命を守らねばならない。消費者はそれに応えてほしい。それこそが強い農林水産業である。生産者と消費者をつなぐ核になるのが協同組合(農協・漁協や生協)であり、地域の政治・行政である。関連産業も運命共同体である。
各地の自治体の政治・行政と共助組織が核となって、各地の生産者、労働者、医療関係者、関連産業、消費者を一体的に結集して、地域を食いものにしようとする人たちをはね返す、強固な「食と暮らしを守る市民ネットワーク」(福岡、千葉などで筆者も関与して動きだしている)を立ち上げ、改悪された国の法律に対しては、それを覆す県や市町村の条例の制定で現場の人びとを守る闘いも含めて、自治体の政治家がリードして進めてほしい。
勇気をもって真実を伝える人びとと国民の行動が事態を動かす
国民生活の危機は差し迫り、「頑張ったけどだめでした」ではすまないレベルにきている。以前、私のセミナーに参加してくれたフランス女性が指摘してくれた。「日本人は詰めが甘い。フランスのように政府が動くまで徹底的にやらなくては意味がない。流れを変えられなければ、すべての努力は、残念ながら、結局パフォーマンス、アリバイづくりで終わってしまう。フランスなら、食料の大切さをわかってもらうためなら、パリに通じる道路をデモで封鎖して政府が政策変更するまでやめない」。大規模デモでパリ・コミューンを実現したフランスはさすがに違うと感心している場合でない。
そして、米国の前回の大統領選でサンダース氏が支持を広げたことが示すように、政策を変えるには、「反対」でなく「対案」を具体的な財源・予算措置も含めて提案する力が不可欠である。まず、自治体レベルでそれを実現し、国全体を誘導することも効果的である(新潟県は筆者を座長として県版の稲作所得補償制度のパイロット事業を展開し、国を誘導しようと試みた)。全国自治体での種子条例の制定の尽力は高く評価されるが、農業競争力強化支援法8条4項の「公共種子の企業への譲渡」を無効化できる内容を盛り込む工夫が不可欠と思われる。
東アジアの経済連携も何年たっても「総論」から抜け出せていない。具体的なフレームを必要財源と参加国への効果のシミュレーションも示すような形で提案して議論を深める、その一歩を踏み出すまでに何年かかっているのであろうか。
ひとりひとりの毎日の営みがみんなの命と暮らしを守ることにつながっていることを常に思い起こし、誇りを持ち、われわれは負けるわけにはいかない。正義は勝つ(こともある)。