力関係の差異へ無頓着の危うさ

書評井手英策 編『リベラルは死なない 将来不安を解決する設計図』

ジャーナリスト 竹信三恵子

少子高齢化の進展にもかかわらず財政難の中で社会保障は行き詰まり、中間層の地盤沈下によって、「低所得層への救済」どころではないという空気も強まっている。そうした中で、「大きな政府」による国民の安心を目指してきたリベラルは、どうすればいいのか。本書は、その対策として、広く薄く負担する消費増税を通じ、中間層も含めた幅広い層に基礎的な公共サービスを手厚く保障する政策を提案する。合言葉は、「みんながみんなのために」。ただ、そこで湧いてくる疑問は、「みんな」とはだれのことか、ということだ。

民主党政権の敗因

これまでの社会保障は、特定の困窮層に焦点を当て、困っていない層からの税金で困っている層に救済の手を差し伸べる「選別主義的社会保障」が基本といわれてきた。これに対し、低所得者も含めて幅広く税を取り、こうして増えた徴税力を生かし、その税を中流層も含めて手厚い社会保障に充てる「普遍主義的社会保障」が注目を集めている。
北欧で普及した考え方だが、税の恩恵を実感できないでいる中流層の痛税感と低所得者への反感をやわらげることで社会の分断を防げることが利点とされている。同時に低所得層にとっても、負担した税を上回る公共サービスを受けることで「元を取り返す」ことができ、「税を担う主体」として社会的発言力を確保できるという利点がある。
本書は、財政社会学者の井手英策氏が、こうした普遍主義的アプローチを消費増税で実現することによる「リベラル」の立て直しを提唱したものだ。これを核に、野党の若手・中堅国会議員らが超党派で雇用、教育、ジェンダー、障碍者、金融、地方自治などについて具体的な政策提言を繰り広げる構成となっている。
本書の中で井手氏は、1990年代後半以降の実収入の低下によって中間層の地盤沈下が進み、「格差是正」どころか「中流自体の生活をどう守るのか」が喫緊の課題になっていることを指摘する。
2009年に登場した民主党政権は、一応はこうした変化を踏まえ、「国民の生活が第一」をキャッチフレーズに、「困っている人だれか」ではなく「すべての人たちの生活」を国民的課題とする認識を打ち出した。だが、その正しさを、本当には理解していなかったのでは、というのが井手氏の分析だ。
民主党政権の処方箋は「無駄を省いて財源を捻出する」であり、「事業仕分け」が目玉だった。だが、それでは財源は足りず、結局、消費増税へと舵を切る。しかも、増税分の大半は膨れ上がった債務の削減に使われ、社会保障政策に回ったのはごくわずかにすぎなかった。納税者の負担は重くなっても受益はほとんどなく、それが、低所得層政策など「一部の利益グループ」への「ばらまき」に充てられたことが、中間層の失望を招いた。使途の面でも失敗を重ねたということだ。

「増税と向き合う」の危うさ

「みんなのためでなくだれかのため」の政策と受け取られ、裏付けとなる財源論も欠いていたという敗因分析を踏まえ、井手氏は、その逆を処方箋として示す。すなわち、「みんなのため」に税を使い、「財源確保のために増税と向き合う」という二本柱だ。
「みんなのため」の中心は、医療や介護など、中間層も恩恵を受けるベーシックサービス(生活の基礎となる公共サービス)の整備だ。手厚い無償の公共サービスによって、多額の税によって手元に残る現金が少なくても安心して暮らせる「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」の社会が登場するという論理だ。
ここまでは、きわめてわかりやすい。ただ、ここで井手氏が「向き合う」増税とは、消費税の増税だ。理由は、消費税はだれもが払う税で「多収性」があり、十分な福祉を行うための財源として適当であること、消費のたびに支払うので富裕層も逃れられず、しかも富裕層は高額商品をたくさん買うので、支払い額で言えば低所得層を上回り、その意味で、負担の公正さを保てること、さらに、福祉目的税としての性格が強く防衛費や公共事業に使われるリスクが低いことなどが理由として挙げられる。一方、富裕層課税については、消費税を軸としながら「ベストミックスを追求していく」とふれられるにとどまる。
だが、富裕層への課税をどう組み合わせるかは、税の使途を「みんなの社会保障」へ誘導するためには根幹のテーマではないだろうか。
たとえば、フランスの経済学者、トマ・ピケティは、社会保障の財源としては不十分でも、資産の膨張を抑えて富裕層の政治支配を弱めるために必要なものとして資産課税を位置付けている。富裕層やグローバル企業の資産が膨張し、その影響力が、「貧者も富者も同じ1票」という民主主義の原則を揺るがしていることは、さまざまな論者が指摘している。
こうした力関係の下では、「借金の返済」などへの「流用」はなくならず、「福祉目的税であること」までが、「高齢化が進んで福祉負担が増えても、それは消費増税で解消すればすむこと」に転化し、それ以外の税収を防衛費や公共事業へ振り向ける口実に利用されていくことにもなりかねない。
低所得層も税を払うことで発言力が増し、増税分を公共サービスの増加で回収できる、というメカニズムが成り立つためにも、「1票による発言権」が献金という富者からの横やりに封じ込められている現状を抑え込む必要がある。だからこそ、富裕層やグローバル企業への課税などの格差是正策の「組み合わせ」は根幹となる。こうした視点を欠いた「消費増税財源論」は危うい。

必要な「格差」への視点

日本の消費増税は「法人税や富裕層減税の穴埋めの役割を果たしてきた」といわれる。消費増税は派遣労働者などの間接雇用へと企業を誘導する機能があることや、中小零細企業への負担が過重になることなどの副作用も指摘されている。「みんなのために」というスローガンは、こうした社会的弱者を見舞う副作用への目配りを、片隅に追いやってしまいかねない勢いを持っている。
井手氏は、富山県を「日本のスウェーデン」と呼んで、女性たちから反発を招いた。その「女性の就業率の高さ」の裏に、女性への賃金差別と家事と仕事の二重負担があり、「生活保護受給率の低さ」の裏に家族依存の生活保障があるという批判だ。ここにも、「みんな」というひとくくりの下での「力関係の差異」への軽視がある。
社会的分断が進む中、「みんなのため」をテコに社会的連帯の回復を目指そうとする意図はわかる。だが、それならば、発言力の弱者ともいえる人々への消費増税の影響評価や、その是正に目配りした丁寧な方策を中核のひとつに据えていく必要がある。のっぺらぼうの「みんな」のためでなく、「みんな」の中の「格差」を直視した「リベラル再生」の処方箋を期待したい。

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