一般財団法人東アジア共同体研究所理事長
元内閣総理大臣 鳩山 友紀夫
「日本の進路」読者の皆さん、明けましておめでとうございます。
本年は天皇陛下のご退位に伴い、新元号、新天皇を迎える記念すべき年ではありますが、今の日本の進路、舵取りには大きな疑問を抱かざるを得ませんし、輝かしい時代とはならないのではないか、と思います。
昨秋に行われた自民党の総裁選挙も、国民民主党の代表選挙も、それほどの国民的関心を呼ばず、盛り上がりが欠けたまま現状維持に終わった印象を受けました。他方、同時期の沖縄知事選挙は地域住民を超えた全国的関心事となり、劇的な展開を見せました。何故でしょうか。
それは後者が日本の針路をめぐる真の争点、つまり「これからの日本の内外政治路線が日米同盟強化論だけでよいのかどうか」をめぐる路線闘争であったのに対して、前者は従来の日米同盟強化論を前提としたコップの中の嵐にすぎなかったからでしょう。
冷戦終焉後、米国の単独行動主義の傾向が強まり、米国の世界秩序維持活動(軍事活動)にどの程度、付き合っていくかが国内政治の大きな争点となっていきました。米国の軍事行動にもっと積極的に協力できるように、憲法上の制約を取り除いていこう、米国との軍事的一体化を通じて政治大国化を目指そうという「普通の国」論が、新自由主義的経済構造改革論と結びつき、政官界の主流となりました。これが日本におけるグローバリズム・イデオロギーでした。
覇権国家である米国との協力を強化し、その力を借りつつ日本の影響力を増大させようとする方針は、一方において米国の日本への信頼を高める努力、つまり米国の外交軍事方針との一体化を徹底させなければならないことを意味します。他方において米国の対外方針との一体化は米国以外の国に対する日本の行動の自由を失わせ、日本の外交能力を著しく減退させることを意味します。これは日米安保体制が当初から孕む深刻な矛盾でした。
協力のつもりでも相手は従属していると受け止め、また他の国から見たときにも日米は従属関係にあると受け取られることになります。米民主党政権のブレーンを務めたブレジンスキーなどは、自著で日本を「プロテクトレイト(保護国)」(『The Grand Chessboard』1997年、邦訳『地政学で地球を読む―21世紀のユーラシア覇権ゲーム』日経新聞出版社)と呼んで憚りませんでした。
対米協力はあくまで自立の手段というのが当初の自民党領袖たちの認識でしたが、冷戦終焉後は手段と目的の逆転が起こり、同盟の維持自体が目的化していきました。
冷戦後の日本は、米国一強時代の継続を前提として、米国との経済的軍事的一体化を進めることで、政治大国になることを目指してきました。しかし米国一強のグローバリズム時代は、イラク戦争やリーマン・ショックなどで揺らぎ、中国はじめ新興国の台頭とともに変容を余儀なくされました。
それにもかかわらず、日本はこの変化する世界環境に、日米同盟強化論一辺倒で対応しようしてきました。グローバリズム(=従米保守路線)が冷戦後日本の政官界の主潮流となった結果、東アジア共同体構想のような、これに疑義をさしはさむ潮流は排斥されてきました。
しかし、トランプ大統領のもとで米国そのものがグローバリズムから国家資本主義へ転向を宣言してしまった現在、従米保守路線は以前にも増して、その矛盾が露呈し、行き詰まりの様相を見せています。安倍政権が日米同盟を過信して推進した諸政策、TPPは反故になり、中国包囲網づくりは失敗に終わり、圧力一辺倒の対北朝鮮外交は梯子を外される醜態を演じました。
トランプ氏の同盟国軽視への反発もあって、自立を目指して核兵器や空母を保有しようという自主防衛論も台頭しています。しかしそれは戦後の国際協調主義を全否定する生き方であり、しかも国力に余る莫大な財政支出を要しますから、国民的合意を得ることは極めて困難です。何よりも、そうした重武装で日本は国際社会で何を目指すのかが不明瞭ですから、深刻な国際摩擦を招くことが不可避です。ですから武装自立論は到底現実的な選択とは言えません。
他方、日米同盟深化論の先に日本の自立はあり得ません。これからも日米同盟を神聖視し米国に従順であり続ける国でよいのか、沖縄の基地はそのままでよいのか、首都上空(横田ラプコン、米空軍横田基地管制下にある空域)が占領期のように米国主権のままでよいのか、高価な兵器を買い続ける米国兵器産業のお得意先のままでよいのか……と言えば、よほど頑固な従米保守主義者以外の国民は否と答えるでしょう。
私は、米軍基地の縮小、さらに進めて駐留なき安保は可能だし、それが必然的に重武装を必要とするとは考えません。日米同盟深化論でも、重武装でもない、日本のあり方はわれわれの決意次第で可能だと確信しています。
私は軍事力の必要性を否定しません。しかし同時に、軍事力の意味が減少していくような国際体系を創り出すことは可能だと信じています。
軍事的脅威は多分に観念的なものであり、相手の能力と意図をどう評価するかで対応は全く異なってきます。相手の意図に働きかけることをせず、軍事能力にばかり注目して抑止力の拡大に努めればいいというものではありません。
ある国に対する軍事的な脅威感も、ある地域における軍事的緊張の度合いも、かなりの部分で政治的な対応によって、増大したり低下したりする例が多いのです。
歴史上しばしば、特定の国の軍事的脅威を強調し、国民の間に「非常時」意識を醸成して政権の維持に利用する右派ポピュリストが登場しました。現代のようにグローバリズムが生んだ社会的分断が国民国家の統合を難しくしている時代においては、そのような危険性はより増していると言わなくてはなりません。
逆に優れた政治指導によって、地域の緊張のレベルを一挙に低下させることに成功した事例もあります。その直近の例が、文在寅韓国大統領による対北朝鮮、対米国外交です。一年前には一触即発の緊張度にあった朝鮮半島情勢ですが、南北首脳会談、米朝首脳会談を経て、朝鮮半島の緊張度は劇的に低下しました。われわれはそこに「外交」というものの重要性と意義を再確認したはずです。
もちろん朝鮮半島の非核化が実現したわけではありません。しかし日本にとっての最悪の事態は、朝鮮半島で米朝の軍事的衝突が起こることであり、在日の米軍基地が攻撃の対象となる事態です。尖閣問題も突発的な軍事衝突が起こらぬように日中両国が慎重に外交的な管理を持続していく以外にありません。またそれは可能なことです。
日本の周辺地域で軍事的な衝突を起こさないこと、これが日本にとっての真の国益であり、最大の外交目標でなくてはなりません。いたずらに脅威や非常時を言いたて、力による対応を説くのは外交ではありません。
日本は軍事力の意味が減少していくような国際体系の実現を目指して行動すべきなのです。
日米同盟一辺倒では、かえって日本の外交能力を低下させ、朝鮮半島の問題や中国との関係をうまく処理できない事態になっているのがここ十年来の現状だったのです。トランプ氏の登場によってそのことがより可視的になったということです。
日本が好むと好まざるとにかかわらず、国際社会における米国の相対的な力量低下は、日米同盟の相対化を招来せざるを得ません。日米同盟をことさら否定する必要はありませんが、それだけではやっていけない、東アジアの問題を処理していけない国際環境に直面しているということです。それが私が東アジア共同体構想を提唱した大きな動機でした。
いま日本は、多極化時代に臨む新たな国家構想を必要としているのです。政党も政治家もそのことに無自覚すぎるのが、日本政治の現状です。
米国が世界経営から徐々に手を引き、同盟よりも自国ファーストを公言するに至った今日、日本は如何に生きるべきなのか。日米同盟だけではやっていけない時代を迎えている、新たな国家構想を必要としている、それなのに諸政党も、この課題に政治家個々人も真剣に応えていない、それが日本政治の混迷の根底にある問題だと思います。
どのような国家を目指すかを構想するとき、私たちは等身大の日本を正しく認識することから始めなくてはなりません。
中国はじめ新興国の経済成長により、日本の世界経済に占める地位は次第に低下し、人口減少と低成長経済は常態化せざるを得ません。政治大国の象徴として戦後日本外交が目標としていた国連常任理事国入りの可能性もゼロに近くなっています。今世紀の日本は中規模国家化の宿命を避けることができません。
戦後日本は経済大国化の延長線上に政治大国になる夢を描いてきました。それを私は大日本主義と呼んでいます(鳩山友紀夫『脱大日本主義』17年、平凡社新書)。しかし、経済的にも政治的にも、大国への夢は幻に終わろうとしているのです。われわれは大日本主義の幻想を捨て、むしろ積極的に中規模国家(ミドルパワー)として生きる道を選択すべきであり、ミドルパワーとして何をなしうるか、何をなすべきか、つまり大日本主義ではなく、「脱」大日本主義の国家構想を模索すべき時期に来ているのです。
それにもかかわらず、安倍政権は日本人の大国志向を意識的に助長しつつ、内外政策を推進してきました。「戦後レジームからの脱却」とか「日本を取り戻す」とかいうスローガンが象徴するような現代版「大日本主義」が、日本の実像を直視する眼を曇らせ、誤った政策選択を導いています。
大日本主義志向の一つの帰結は、衰えつつあるアジアでの米国の覇権に代わって、地域覇権国家としての地位を力で中国と争うという生き方です。もし本気でこの争闘に乗り出せば、これは短期間では終わりません。年金支払いの財源にも事欠く少子高齢化時代の日本にそれだけの国力があるかどうか、冷静に考えなければなりません。われわれは中国と対立しての自立ではなく、中国と共生しての自立の道を模索しなければなりません。鳩山内閣の東アジア共同体はそのための構想でした。
それは私だけの発想ではありません。当時米国人でも、例えばフランシス・フクヤマは「日中韓三か国が定期的に集まって協議し問題解決を図る何らかの制度を創り出すことだ。それをアメリカをはじめ地域外の大国が支援する。だが、その制度は地域内から生まれてこなくてはならない」(「日本よ、中国の世紀に向き合え」『中央公論』09年9月号)と語っていましたし、ASEANのリーダであるマハティール・マレーシア首相も「中国が超大国になることは避けられない。アジアに話し合いの共同体をつくらなければならない」(『立ち上がれ日本人』03年、新潮新書)との発言を繰り返していました。
東アジアに新たな国際システムが必要になってくるのは必然的なことなのです。鳩山内閣の東アジア共同体構想については、反米的だとか、親中国的だとか批判がありましたが、私の意図するところは、マハティール氏と同じように、米国の市場原理主義的なグローバリズムと中国の華夷秩序的な大中華圏グローバリズムの間で、中小国家の国民国家的伝統を守るための構想でした。東アジア共同体構想をそうした方向で現実化し、発展させていくことこそこれからの時代の日本の使命だと考えます。
安倍政権が進める、米国の後押しで地域覇権国家の地位を中国と争う行き方も、国連常任理事国入り外交も、原発や武器輸出路線も、原発再稼働も、「成長戦略」という無理な経済成長政策も、大日本主義志向から生まれた時代遅れの国家方針と言わなくてはなりません。
国連常任理事国入りを国家目標にしないこと、脱原発の道を大胆に選択し再生エネルギー立国を鮮明にすること、核兵器禁止条約を批准し核廃絶に向け道徳的立場を回復すること、そして東アジアに経済と安全保障の新たな枠組みを創ること……、これらは脱大日本主義の象徴的政策選択でしょう。
「脱」大日本主義の選択は日本の政治と経済に新たな地平を拓くことにつながると信じます。外にあっては、東アジアにおける連携に努め、内にあっては低成長経済の下での新たな分配政策を実現する、成熟国家としての新国家モデルを世界に向けて打ち立てようではありませんか。