「第2次アジアの平和と未来をひらく若者訪中団」が9月7日から瀋陽および撫順と北京を訪問した。その感想レポートである。(編集部)
一歩一歩を踏みしめながら、対話をつづけていくために
一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程 小谷 英里
九・一八事変から95年、日中国交正常化から54年。日中関係は極度に緊張し、交流事業の中止や延期が相次いだ。そうしたなかで、訪中団が実現したこと自体、決して当たり前のことではない。
多くの人びとが、困難をともなうにもかかわらず、わたしたちを温かく迎えてくださったのは、中国人民抗日戦争記念館の館長が語っていたように、民間交流こそが現状を打開するためのたしかな道であると信じるからであろう。
「わたしたちが歴史を伝えるのは、憎しみあうためではなく、互いに手をとりあうためだ」
この呼びかけを前に、わたしはどのように応答できるだろうか。足元からの一歩として、旅に思いをめぐらせながら、この文章を書くことからはじめたい。
歴史のなかの具体的な
人びとの姿をみつめる旅
「植民地支配」、「侵略戦争」、「虐殺」。これらの言葉は、文字として受け取ることはできたとしても、それを思い描くことは難しい。この旅は、言葉の向こうにいる具体的な人びとの姿をみつめる時間でもあった。わたしたちが訪れた撫順平頂山惨案記念館や九・一八歴史博物館、中国人民抗日戦争記念館では、さまざまな具体的なありようがみてとれた。
言葉を奪われること、慣れ親しんだ住まいを剝奪されること、強姦されてのち切りつけられること、戦争の後に「なかったこと」のように扱われること、次世代に悲しみが連鎖すること。しばしば「残虐さ」の一語であらわされる出来事のなかで、人びとは一様に殺されたのではない。あらゆる形で「殺された」のであり、「殺されている」のであろう。
具体的な人びとの姿は、多くの証言や写真をはじめ、映像、ろう人形、絵画、彫刻、版画などさまざまな形でとどめられていた。犠牲になった人びとの名前がぎっしり並んだ部屋があった。ご遺骨がぎっしり横たわる部屋もあった。子どもを守ろうとする母親のご遺骨もあった。わたしは、その光景のおびただしさに、たじろいだ。同時に、証言を集め、遺物を守り、歴史を編み、語り継ぐために尽力された多くの人びとの存在も頭によぎった。その地道な営みがあってはじめて、わたしたちは具体的な人びとの姿に出会うことができる。
展示にあらわれる人びとの姿は、犠牲になった人びとの全体のうちのほんの一部である。その向こうには、名前も、遺骨も、痕跡も、あとかたもなく残らなかった人びとがいる。何が起きたのか誰も分からない。そのはかりしれなさが、日本の植民地支配や侵略戦争の恐ろしさを物語る。
対話の場としての
訪中団、旅からその先へ
わたしは、はかりしれなさと、多くの分からなさを抱えて帰路についた。この分からなさを手放さず、問いをもちつづけたまま一歩ずつ進むこと。それが、中国、ひいては東アジアの人びとと手をとりあうための道であるように思う。
ときに、平和を希求する実践の現場では、望ましいあり方が共有されるなかで、自分自身であれこれ考えをめぐらせるプロセスを逸したまま、急ぎ足で歩みを進めようとしてしまうことがある。そうしたなかでは、率直に思いを共有したり、議論を重ねたりすることが難しくなる場面も少なくない。その意味で、旅のあいだに団員同士で豊かでひらかれた対話がおこなわれたことはとても貴重であった。また、それぞれが個人的に中国の人びととつながるなかで、いくつもの新しい対話の種がまかれた。また語り合えることを楽しみにしている。
