情報環境と社会構造から考える投票行動

若者は政治に無関心なのか

東京大学学生 金澤 伶

 私は東京大学の学生、23歳です。全国の学生・院生と協働し、学費無償化を通じた人権の問題や、高い学費に苦しむ生活の実態について、政治に働きかけたり、本を書いたりしています(編著『学費値上げに反対します――学生たちの生活と主権』)。
 私はいわゆる「政治に詳しい人間」ではありません。国会中継やニュースを見ていると、強いストレスや疲労を感じることもあります。そのため、政治に関心を持てない人の感覚もよくわかります。実際、私は自分を「ノンポリ無党派」と表現することもあります。問題意識はあっても、特定の政党を支持しているわけではなく、党派を超えて応援している議員がいる、という程度です。その立場から、学生や若者の投票行動や政治参加について私なりの実感をお伝えしたいと思います。

若者は政治に無関心ではない――変化する情報接触と投票行動

 18・19歳投票率は43%で、全体を13ポイント下回っています。しかしそれをもって若者が政治的に無関心とは言えないのではないでしょうか。「ふつうの学生」は、普段ほとんど政治の話をしませんが、講義やバイト、サークルや就活に追われながらも、YouTubeやTikTokを流し見して政治的な情報にも触れています。石丸伸二、玉木雄一郎、参政党、高市早苗などの動画も見ているのです。
 そして投票日が近づくと、X(旧Twitter)で候補者を検索し、発言や評判を簡単に確認して投票する、という行動が一般的です。新聞やテレビ、書籍などから継続的に情報収集している学生は多くありません。
 私は、集会やデモで発言したり、自ら院内集会などを企画したり、書籍で勉強して発信したり、議員の応援をしたりする点では、質の高い情報に触れられる機会が多いのですが、実際の投票行動だけを見れば、こうした「ふつうの学生」と大きな違いはありません。

声を上げる中で形成される政治意識

 若者はどのように政治に参加していくのでしょうか。例えば、学費値上げ問題などで共に活動してきた学生たちは、大学に対して声を上げる過程で問題意識を深めていきました。大学の基盤的経費の削減、基礎研究の軽視、高額な学費の標準額の設定、研究者の雇い止め、大学経営のトップダウンといった問題に直面しながら、現在の政治に対する疑問を抱きます。結果的に、大学改革の失敗を引き起こした政権与党に積極的に投票する学生は少数派になります。
 私たちが声を上げた成果もあって、2024年の衆議院選では「高等教育無償化」が争点に上がりました。しかしその後、政治の焦点は大きく変化します。25年の参議院選では「外国人問題」が急速に争点化されました。その動きに呼応するように、各地の大学では外国人留学生を対象とした大幅な学費値上げが進められ、東北大の学生が抗議活動を行いました。また、博士課程学生向けの奨学金制度「JST-SPRING」において、日本人以外の生活費支給が停止されるという制度改変が行われ、大学教員や院生を中心に研究現場から強い反発が起きました。

歪められた論点――「外国人優遇」という物語の力

 排外主義の台頭によって、学生の抱える困難の解決のための論点は歪められていきました。「外国人優遇」というデマゴギーの拡散は人々の被害者意識を刺激し、「日本人ファースト」が支持を広げたのです。さらに、これに危機感を抱いた既存政党(特に自民党など)が排外主義的な言説を取り込んだことで、世論全体が傾いていきました。
 「日本人は苦労しているのに、外国人留学生は優遇されている」という「物語」に対して、当事者である学生たちは、自らの困難が政治的に利用されていることに強い違和感と怒りを抱いています。学生が苦しいのは外国人のせいではないと知っているからです。むしろ、学生たちは留学生と協働して学問を進め、学費問題にも、キャンパスにおける外国人排除に対しても共に声を上げているのです。

「遠い政治」と「近い現実」

 学生が主体的に政治に参加している他の例を挙げます。難民の友人で、スリランカ出身のナヴィーンさんが今まさに強制送還の危機にあると知って、連日議員会館を回って、反対国会議員署名を集めました。その際には、呼びかけに応えて学生たち中心に累計50人にも及ぶ人が動いてくれました。この背景には「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」が高市政権下でさらに強化され、まともな難民審査を受けられずに在留資格を失った人や、長年日本に暮らしている生活基盤のある人など、どうしても帰れない事情を抱える人々が、子どもも含めて強制送還させられる実態があります。
 また、イスラエル・米国によるイラン攻撃で日本の基地が使用される可能性や、熊本における軍事配備の問題でも、「被害者にも加害者にもなりたくない」と学生たちは強い危機感を抱いています。

政治参加はなぜ難しいのか――主権者教育と自己責任論

 元々政治に関心がなくても、自分自身の人権や生活や、友人の困難や痛みから、特定のイシューに対してスタンスを取ることは可能です。政治に対して声を上げることは、自らがどんな社会に生きていたいのかという思いの発露です。しかし最初のうちは、政治はどうしてもハードルが高く感じてしまったり、特定の人が関わるもののように感じて自分には関係がないと思い込んだりしています。
 私が経験した学校教育における主権者教育は、模擬選挙などのレベルにとどまるため、政治参加の手段は投票しかないと素朴に信じ込んでしまっていても全く不思議ではありません。国会で法律はどう決まるのか、ロビイングとは何か、院内集会はどうやるのか、パブリックコメントはどう送るのか、世論喚起の方法として署名や記者会見の選択肢があることなどを知るだけでも、日本の民主主義は成熟していくでしょう。X(旧Twitter)のスペースで「院内集会ってなに?」というテーマでお話ししてみると、予想以上の人にお集まりいただき、「面白かった」とのお声をたくさんいただきました。
 また、政治家や政府が公に発信していることに疑いを持つことも、異議を唱えることも、意見の異なる相手と議論することもかなり難しいと言えます。個人の努力や相互扶助で人権や生活に関わる問題を解決することが推奨され、「自己責任」という言葉で困難や痛みが不可視化され、冷笑によって異論が封じ込まれているからです。「自己責任論」を乗り越えるには、「自分一人ではどうしようもできないこと」が存在し、それは組織や、社会や、政治に責任があるのだということを認識するところから始めなければなりません。

若者はなぜ「考えられなくなる」のか――奪われる思考の余裕

 最近、若者は「考えること」や「批判」が嫌いなのかという問いがよく投げかけられます。しかし、それは一側面に過ぎず、原因は社会全体にあると言って差し支えないでしょう。社会全体が若者から「考える余裕」を奪い、「批判の意義」を適切に伝えきれていないのです。
 例えば冷笑主義の問題があります。学費値上げ問題で声を上げた学生に対する冷笑は深刻でした。学費値上げは、経済的事情によって学習権を線引きするものであり、それによって自由の学びを諦めさせる機能を持っています。一方で、冷笑という立場を取ることで、自身の困難や痛みに目を背けることができ、人権や生活に関わることを「自己責任だ」と仕方のないこととして諦めてしまい、それが同時に他者への抑圧にもなるのです。さらに山口大学では、学生が学費値上げに反対するビラを撒いたことに対抗して、キャンパス内でのビラ撒きを禁止するという弾圧もありました。こうした締め付けは学生に無力感を植え付けます。
 高い学費を課された学生たちは、今や半数以上が奨学金を借りています。借金を避けるために、借り控えがなされ、バイト詰めになっている学生も少なくありません。就活早期化の波は、ますます「考える余裕」を奪っています。
 それを踏まえると「批判の意義」を適切に伝えきれていない問題についても、地続きのように思います。例えば、「野党は批判ばかり」という批判は、「私は許容できるから」という理由で、特定イシューに関する批判を取るに足らないものとして意図的に無視する動きです。これに対抗するには、批判の時間を短くするとか、対決姿勢をやめるのが最適解ではありません。むしろ、より具体的に、なぜこの批判が今必要なのか、何のための批判なのかということを明らかにしなければなりません。

分断を生む情報環境――民主主義の劣化の構造

 メディアや政治の責任はかなり大きい。ABEMA Primeなどのネットメディアは、再生数のためにSNSでホットな話題を取り上げて、SNS上の議論の焼き直しのようなコンテンツも増えています。
 26年衆議院選後に「【社民党】国政選挙で初の議席ゼロ…リベラル政党に逆風? ラサール石井副党首に聞く」に出演した際、司会者による冷笑的な質問の仕方で、リベラル論者の失言を煽っているように感じました。このようなメディア環境では、対立を煽る構造が生まれやすく、冷静な議論が難しくなります。
 政治の側も、安価で低質な情報が流布されるSNSやAIから距離を取ろうとせず、むしろ犬笛型の中傷で相手より優位に立とうとしたり、デマゴギーによる収益に依存したりしている政治家すら現れました。26年の衆議院選では自民党がネット広告に巨額の資金を投入した疑いも出てきています。

結論――民主主義を立て直すために必要なこと

 無料の情報へアクセスしようとしたとき、現在、最も身近な手段は、ネット検索やSNS、ハルシネーションの問題をはらむAIを用いることも一般的になりつつあります。しかし、こうした環境ではデマゴギーや断片的な情報が拡散しやすく、議論の質は必ずしも担保されていません。
 アルゴリズムによって自分に都合のよい情報だけが表示されることで、異なる意見に触れる機会は減少し、社会の分断は深まっています。冷静で開かれた健全な議論空間を形成するには、自分や身近な人の困難や痛みに立脚した上で、立場性を問いながら、人権や生活の保障といった価値観を共有していくことが必要なのです。
 若者が政治に無関心なのではありません。社会の構造と情報環境が、考える力と時間を奪っています。だから必要なのは、知る権利と学ぶ権利の保障です。非正規雇用の拡大で、ますます人々が「アンダークラス」に追いやられている今、そうした権利から遠のいています。誰もが安価に質の高い情報へアクセスできる環境を整え、さらに関心を深めるために高等教育へ進むことも、より開かれた選択肢であるべきです。それこそが、後退しつつある民主主義を立て直すための最も重要な基盤です。
 私が例に挙げた学生たちの多くは、政治サークルや特定の党派に所属しているような政治的関心の高い学生では必ずしもありませんでした。しかしながら、学費問題――自分自身の人権や生活、友人の困難や痛みの問題――に直面し、SNSの呼びかけを通じてオンラインの議論空間に結集し、政治に対して意見を伝える機会を自ら作り上げたのです。政治に対する危機感が増している状況だからこそ、まず政治とは「あなた」の問題であり、権利をもつ主体として参加することは極めて自然なことなのだという認識を共有することで、若者に限らず社会への向き合い方は大きく変化するでしょう。

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