「築く」想いに「気づく」旅
上海在住 中原 萌

イギリスの競馬場跡
日中交流の機会をいただき、先日はじめて天津を訪れた。
過去を包み込む街
天津は、中国の中でも最も多くの外国租界が置かれた都市である。中国の土地でありながら、外国に直接支配される。私が住む上海もそうだが、天津もまたそんな屈辱的な歴史を経験しているのだ。
そうした背景を思えば、当時の建築は、本来であれば取り壊されてもおかしくない。だが、実際には欧州風の街並みが広範囲にわたって残されている。しかも単に保存されているのではなく、都市生活の中に組み込まれているのだ。
五大道と呼ばれる旧租界エリアで特に印象に残ったのがイギリスの競馬場跡地だ。外から見るとカフェやアパレルショップが並ぶ建物に囲まれているが、建物を通り抜けてみると、突然視界が開ける。広々とした公園のような空間には小さな子どもを連れた家族や若いカップル、年配のグループなどが、初春のやわらかな風と光の中で、それぞれの時間をおだやかに過ごしていた。
屈辱的だった過去の形跡も、壊すのではなく、包みこみながら別のかたちで使い直していく。その懐の広さが、この街、いや中国の魅力の一つなのかもしれない。
関係を築く人・周恩来
「周恩来鄧穎超紀念館」にも立ち寄った。周恩来は中国共産党の初期から活躍し、建国後は国務院総理兼外交部長として初期外交を担った人物。天津は彼が若い頃に学び、長く活動した場所だ(鄧穎超は妻で、周亡き後は国家の重職に就かれた)。
好青年の学生時代、野性的でたくましい紅軍時代、落ち着きと包容力のある建国後の「イケオジ」時代。周恩来はいつの時代もかっこいい…と、そんなミーハーな感想はさておき。
展示を通して印象に残ったのは、彼が「関係を築く人」だったという点だった。
初期から重要な指導者であった周恩来だが、外国語にも通じていたことから、中国共産党と外の世界をつなぐ上でも欠かせない人物だった。共産党とコミンテルンをつなぎ、多くの外国のジャーナリストとの関係を通じて世界に共産党の活動を発信していた。
「国共合作」を実現させた人物でもある。当時内戦状態にあった国民党の蔣介石との交渉に自らあたり、両党の協力関係を成立させた。他にも例を挙げればきりがないが、対立する立場であっても、接点を見いだし、関係をつないでいく姿勢が一貫していた。
建国後もその役割は変わらない。紀念館には「在任中に中国と国交を結んだ国々」という展示があり、105カ国の名前が並んでいた。その数の多さに、彼が担っていた役割の大きさを実感する。そしてそのなかの80番目が、日本である。
今回の訪問の中でも、周恩来と田中角栄による1972年の日中国交正常化が何度も話題に上がった。日本は過去に「中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省」し、中国は「両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄」したことで、二国は新たな出発点に立ったのだ。
どんな戦火の中でも、あるいは関係が冷え込む状況でも、その打開の糸口を探し続け、関係をつないでいく。それが、私が今回周恩来という人物から感じ取ったことだった。

未来へとつむぐ作業
今回の訪問で、もう一つ強く印象に残ったのが、同行してくださった凌星光先生の存在だった。御年93歳。長年にわたり日中友好に尽力してきた在日華僑の方で、日中国交正常化の際に中国側スタッフとして参加された。
旅のあいだ、先生はご自身の経験や、これまで見てきた日中関係について、時にはユーモラスに、時には真剣な眼差しで語ってくださった。印象的だったのは、現在の関係をどうすれば改善できるのかについての、具体的で現実的なアイデアだった。
理想を語るだけでは関係は動かない。相手の事情や立場を踏まえた上で、どこまで歩み寄れるのかを探る。そのためには、ときに双方が譲歩する必要もある。
例えば日本側の政治的な事情や、個々の政治家の面子にまで目を配りながら、現実的に可能な落としどころを考え、その提案を持って各方面に働きかける。凌先生との会話のなかで、「関係をつくる」ということが、いかに具体的で、地道で、想像力を要する作業であるかを実感した。
自分自身を振り返ると、日本の政治や世論に対して、批判的な感情ばかりを抱くことが多い。だが、それだけではなにも前に進まない。凌先生のような姿勢、そして真摯な努力を、バトンのように受け継がなければいけないと感じた。
感謝を語り継ぐことが
第一歩
天津市の方と交流するなかで、特に印象に残っている言葉がある。
「天津の人びとは、日本に感謝している」
1976年、天津の近郊で起きた唐山大地震。マグニチュード7・6の直下型で、24万人余が犠牲となった。当時、日本はいち早く支援の提供を申し出たという。最終的に中国は外国からの支援を受け取らない判断をしたのだが、日本がすぐに名乗り出てくれたことを天津の人びとは覚えていると教えてくれたのだ。また、2008年の四川大地震の際には、日本は救助隊を含む多くの支援を派遣し、現地の人びとに大きな印象を残したという。
もちろん、こうした話を知っている人ばかりではないだろう。しかし、少なくともそうした記憶が確かに存在し、誰かによって語り継がれているという事実に、はっとさせられた。
では、日本にいる私たちは、どれだけこうした「よい記憶」を知り、語っているだろうか。2011年の東日本大震災の際には、国際救援隊の中で最も早く日本に到着したのが中国で、その後も支援物資や燃料を提供してくれた。さらに福島原発の対応に使われた大型ポンプ車や技術者チームも無償で派遣されている。
受けた恩をすべて覚えていようと言いたいわけではない。だが、負の歴史や関係悪化だけではなく、こういった相互支援や友好の記憶を知るだけでも、見える世界が少し変わるのではないだろうか。
私は、日本はもっとアジアに対する侵略の歴史を直視するべきだと思う。現政権に対しては、再び加害の道へと踏み外す危なかしさや怒りを感じる。だからこそ、負の歴史や現在の問題への批判も欠かせない。しかし説教ばかりでは、自分自身も疲れてしまうし、人との距離は縮まらない。
今回天津で見た街の姿や、出会った人びとの話を通して感じたのは、過去を引き受けながら、関係をつなぎ直し、未来に向けて形をつくっていくという営みの大切さだった。
帝国主義の遺物である租界地が、いまでは公共の広場として人びとにのどかな時間を提供しているように、加害や対立の記憶を抱えたままでも、新しい関係をつくることはできるのかもしれない。
批判と同じくらい、あるいはそれ以上に、関係をつむぎ、語り、未来へとつなげていくことが求められているのではないだろうか。天津での数日間は、そのことを静かに考えさせてくれる時間だった。
