日本の中国侵略そして敗戦
新中国成立と日中国交正常化へ
NPO法人大阪府日中友好協会副会長 戸毛 敏美
1931年9月18日に始まるいわゆる「満州事変」などを口実に、日本軍は華北(中国東北部)への侵攻を強め、翌年、「満州国」をデッチ上げます。日本陸軍の獣医として父と母はハルビンへ派遣され、私は36年に中国東北部の黒竜江省ハルビンで生まれ、戦中・戦後の22年間を中国で生きることになりました。
その後、37年7月7日に北京郊外の盧溝橋で始まった中国への全面侵略戦争、そして45年8月15日の敗戦。そして新中国成立の中、中国人民解放軍の幹部(留用技術者)として活躍する父と母のもとで、ハルビンでの幼少時から北京人民大学を卒業するまで多くの中国人民との関わりがありました。
58年、中国人民大学を卒業し帰国しました。その後、私は日中両国の経済関係を促進し友好の架け橋になるとの信念で30年以上にわたり経済交流事業に携わってきました。
新中国成立のころの父
父が人民解放軍幹部として中国各地に獣医畜産大学設立の仕事をしていた関係で、私は留用技術者の子弟として中国政府から優遇されていました。敗戦国民の日本人の父がなぜ中国人民解放軍の幹部になれるのか不思議に思い、ある時私は父の通訳をしていた孔先生に尋ねに行きました。先生は開口一番、「君のお父さんは僕たちの命を救ってくれた恩人なんだよ!」と。
当時ハルビンは「満州国」とソ連との国境地帯で、塹壕を掘ったり、砲台を造ったりしていました。平防の731部隊もありました。「そこの実験台に、捕まえてきた朝鮮人や満州人、中国人や蒙古人を使ったんだよ! その時、日本人の種馬場場長、すなわち君のお父さんが一筆『この人は自分に必要な人間である』と書いてくれたので犠牲を免れたんだよ! 君のお父さんは知らないだろうが『種馬場』の人はみんな共産党員だったんだよ」と言われました。
新中国の学校のこと
1949年1月、北京が平和解放されるとすぐに日本人技術者は北京に入りました。それまで東北人民政府は私たち日本人技術者の子弟のために日本人学校を設立してくれていましたので、私は日本人による日本語の教育を受けていました。
しかし初めての北京には当時日本人が少ないので日本人学校はなく、やむを得ず中国の学校に入ることになりました。学校は家から歩いて15分もかからないのに、「寄宿舎に入れるように」と説得してくれました。私の中国語猛勉強が始まりました。先生方はいろいろ手配されて、私の中国語勉強の環境づくりをしてくれました。学校側はまず4人一組の互助組を作り、私に受け身にならぬよう配慮してくれ、また私にどんどん漢語を使って話す環境をつくってくれました。先生は「君は日本人学校でケミカル、数学、物理を学んでいるのだから、それを中国の学生に教えなさい。そして3人から国語、歴史、地理を教えてもらいなさい」と。こうして朝5時起床から9時消灯時間まで友人か先生がついての、必死の猛勉強が始まりました。カタカナで発音を表記し、友人や先生の口元を見ながら読み方を学び、必死で暗唱しながら学びました。板書の書き写しも容易ではないのです。なにしろ私が書き写し終わらないうちに消されるので、友人のノートを写す毎日でした。
「鬼の子」と罵った子と大の仲良しに
入学した際、「この日本の鬼の子」と罵った子がいました。先生は「いいえ、この子は国際友人です」と紹介しました。そこで知ったのは、この子のご両親は目の前で日本軍に殺害されたのでした。ですが私は彼女と大の仲良しになることができました。そしてたくさんのことを教えてもらいました。
日本と異なり中国の中学での歴史はアへン戦争からの歴史、つまり近代史からばっちり学ぶのです。私が中国の学校で学んだ歴史授業では、いつも日本軍国主義の侵略のことが話題に上がります。そのたびに友人に「日本人として申し訳ない。ごめんね!」と謝りました。
でもいつも多くの友達に、「明治政府は羨ましい」と言われました。そして、清朝政府や国民党政府が悔しいと、涙を流しながら話してくれました。それは明治政府が欧米を追い払って日本を欧米の植民地にしなかったことをいうのでした。
そう言われると私はいつも日本の「富国強兵」が行き過ぎて、中国を侵略してごめんね!と一言謝りました。
新中国成立後の台湾問題
国共内戦で人民解放軍が進撃し福建省が解放され、やがて台湾解放という時のことです。授業で、「毛主席、周総理は台湾を解放しないと言いました」と紹介されました。教室中で大騒ぎになり「どうして解放しないの!」と。
その時先生は毛主席と周総理の発言を紹介し、説明しました。「台湾にいるのはみな私たちと同じ中国人、私たちの同胞です。台湾を攻めたら、台湾の国民党の軍隊、蔣介石はどうしますか。外国へ逃げなければならないでしょう。台湾の人々も迷惑でしょう。それで良いのですか?」「中国はここ百年来戦争が続き、経済はめちゃくちゃでしょう。まず経済を立て直して、豊かな中国にしましょう。それから平和裏に台湾との統一を図りましょう。それからでも遅くはないでしょう」「ましてや蔣介石は北京故宮博物院の貴重な文物を台湾に持っていきました。私たちに代わって保護してもらいましょう。豊かで強大な中国になってから台湾統一を考えても遅くはないでしょう!」と。
でも台湾出身の生徒をはじめ多くの友達は泣いていました。
だれが「台湾有事」を
つくるのか
いま台湾から日本に来ている留学生たちは「台湾では、中華人民共和国は私たち同胞を絶対武力で攻めてこないと思っている人がほとんどだよ!」と言います。また、台湾や諸外国にいる華人は、「今日台湾ではほとんどの人たちが、中華人民共和国が発展して世界第2の大国になったことをとても誇りに思っている。日本では報道されてはいないけれど、ほとんどだよ」と紹介してくれます。歴史的には大清帝国時代には、当時の世界GDPの3分の1を占める大国だったのです。今まさにその地位を中国本土と台湾や世界に散らばった華人の努力で回復しつつある、といっても過言ではありません。
歴史から見ても地理から見ても台湾は中国の一部で、台湾問題は中国の内政問題です。アメリカや日本が「台湾有事」と騒ぐのはおかしいことです。すでに日中政府間でも、1972年の日中国交正常化時の日中共同声明で侵略戦争への反省表明とともにそのことは確認されています。その第3項に、「台湾は中国の領土の不可分の一部であるということを日本は理解し尊重する」と明記されています。その下でこの50年間の日中両国の政治・文化・経済関係の発展が実現しました。
今日、台湾について、あるいは強国化した中国にどのような思いがあろうともこの原則は守るべきです。
ところが台湾島のすぐ隣の沖縄には、アメリカ軍が一大軍事基地を維持し、そこに自衛隊基地強化も進んでいます。中国へ向けて長距離弾道ミサイルが配備されています。
敗戦後80年の今年、日中不再戦のために立ち上がり行動しなければなりません。