秋田県大館市の「中国人殉難者慰霊式」参加レポート

日中友好に後ろ向きの社会で、
平和の片鱗を見いだす

上海交通大学副研究員 石田 隆至

 現在の日本で「日中友好」という言葉を口にするには、時と場を選ぶ。〝中国と仲良くしよう〟という当たり前のことを言うだけでも、勇気が必要になったり、なぜなのかと説明が求められたりする。
 去る6月30日に大館市を訪れ、戦時中に強制連行された中国人犠牲者の慰霊行事に参加した。花岡町(現大館市)では1945年6月、苛酷な虐待に耐えかねた中国人800人が蜂起した。強制連行加害の象徴的な地の一つだ。一方、戦後間もない時期から市民が真相究明や、被害者の追悼に取り組んできた。
 大館での慰霊行事では、遠慮や気遣いなく中国や日中友好について語れる。そこに集う人々は、中国に対するゆがんだ情報があふれる日常で、どうすれば友好を前に進めることができるかと日々苦労している。
 戦争での死者を慰霊する行事は、広島、長崎や沖縄をはじめ各地で見られる。誰もが戦争を憎み、平和を希求していても、中国と仲良くしようと言いにくいのはなぜか。
 私は中国と日本を往来する生活をしているが、なんとか時間をつくり、極力参加するようにしてきた。この場に、他にはない魅力を感じてきたからだ。今年は、カナダ在住の平和実践家・乗松聡子氏と一緒に大館を訪れた。同氏は日本各地の戦争/平和関連施設や行事を調査するジャーナリストで、大館は初めてだった。

「大館市」腕章に新鮮な驚き

 慰霊式の会場に到着してすぐ、乗松氏は「新鮮な驚きを覚え」たという。会場の「交通整理をしていたスタッフが『大館市』という腕章をつけていた」からだ。
〈これは本当に自治体が正規に主催している「慰霊式」なのだと実感しました。「群馬の森」の朝鮮人強制連行を記憶する碑を、右翼の圧力によって群馬県が撤去してしまうという事件が起きたばかりです。日本中で、あるいは海外においても大日本帝国の加害を記憶する行為が、右派や日本政府の攻撃に遭っている時勢です。そんな中で、大館市長、市議会議員、地元選出国会議員までもが参列し、被害者の子孫や中国政府の代表も見守る中、日本の侵略戦争を反省し、「花岡惨案」を二度と起こさないことを誓い、日中不再戦を願う式典が、右翼の妨害もなしに開催されていることに新鮮な驚きを覚えたのです。〉
 乗松氏は普段から、「漠然とした平和教育」よりも加害の歴史を伝える必要があると訴えている。足元で起きた過ちを直視することこそ慰霊であり、それが平和をつくる砦となる現実に感慨を覚えたのだろう。「植民地支配や侵略戦争における残虐行為の被害者を追悼する式典が、加害側の政府や自治体主催で開催されている場所は他にあるだろうか」という指摘にはハッとした。
 また、市主催の慰霊式が続く上で、市民の努力が基礎になっていたと知り、納得したところがあるという。
〈地元の人たちは残された被害者の遺骨を1950年代から見つけ出し、真相究明を試みてきた。また、被害者や遺族を探しあて、花岡での強制連行とそれがもたらした大虐殺の被害者を追悼・記憶し、日中友好をふたたび築く努力を続けてきた。だからこそ、こんにちの大館市主催による式典があると知り、市民が主体となることの強さを感じました。〉
 慰霊式での中国大使館のあいさつには例年との違いを感じた。429人の中国人犠牲者を哀悼し、地元の真摯な取り組みに敬意を表する前半に続き、「この日を〝平和の日〟として中日双方の市民が思いを新たにしていることは、両国が平和的に発展していく一つの姿だ」と述べた。日中関係の悪化ばかりが伝えられる中、「平和的な発展」だという言及は、別次元の関係がこの地に生まれていることを指摘している。目を背けたくなる悲惨な戦争犯罪が行われた地で、一人一人が毎年その事実に向き合い、反省を再確認し、二度と繰り返さないことを誓い合う。その積み重ねこそが、日中間の壁を少しずつ取り払い、小規模とはいえ確かな平和が生まれつつあることを強調したといえる。

遺族も含め市民の
取り組みに

 市が主催する慰霊式の他に、市民による独自の取り組みも見られる。
 前日には「フォーラムイン大館」があり、100人ほどが参加していた。以前は被害者が中国から駆け付け、往時の苦境や戦後の苦労、現在の心境などを語ってきた。1995年に謝罪と賠償を求めて鹿島建設を提訴し、2000年に東京高裁で「和解」が成立するまで闘争拠点だった。被害者が逝去した今は、遺族が参加している。家族もまた経済的、社会的に、また心身面でも戦後長く苦労したことを知れる機会は貴重だ。
 気になったのは、遺族が鹿島花岡訴訟を「段階的勝利」と呼び、「賠償金」を得たという表現を使ったことだ。一審で敗訴し、高裁でも判決に至らず、鹿島との法廷「和解」が成立したが、裁判所も鹿島自身も鹿島の法的責任を認めていない。国際法に違反して捕虜や民間人を強制連行し、奴隷労働を強いて虐待・虐殺を続けた明白な事実がありながら責任を認めない姿勢は、慰霊式を貫く精神とは対極的だ。「段階的勝利」と呼ぶのは、そうした保守的な日本の限界が念頭にあるのだろう。だからこそ、被害者たちは次に国の責任を求める裁判を起こした。加害主体でさえ侵略の責任を取らずに済む現実は、いま「日中友好」を口にすることの困難さにつながっている。
 市民の手で設立された「花岡平和記念館」も見学した。乗松氏は展示で触れた「過酷な奴隷労働」の実態に「言葉を失った」と語った。

日本社会を照らし進む
道標に

 30日午後には、「日中不再戦友好碑をまもる会」の76回目の慰霊祭にも参加した。会場である信正寺は、中国人が奴隷労働をさせられた花岡川の目の前にたたずむ。敗戦後、鹿島が被害者の遺骨を投げ出すように信正寺に託したのも、その無責任さを示す。対照的に、代々の住職は殉難者の供養を行い、市民と共に現在まで慰霊を続ける。寺院もまた地域社会の反人道的犯罪に向き合い、宗教的使命を果たそうとしてきた。
 50人ほどの参加者は事実をゆがめる教科書の採択に反対する元教員など、各自の普段の平和実践について報告し、励まし合った。「平和が大切」という一般論ではなく、加害の現実から出発した、具体的で自戒を伴った平和実践といえる。だからこそ、乗松氏が政府による中国敵視、その背後にある米国による中国包囲に言及すると、共感をもって受け止めた。
〈官憲や加害企業だけでなく、市民も加担した加害の歴史に70年以上にもわたって向き合うのは、決して容易ではなかったと思う。地元の方々の思いがひしひしと伝わってくる会でした。〉
 乗松氏自身も、カナダで日本の加害を記憶する活動を進めると、日系人社会やメディアから激しい反発を受けた経験を持つ。だからこそ、大館市民が過ちに対峙することがいかに貴重なことか、身をもって感じたのだろう。それでも、この取り組みを特別視するのではなく、日本社会を照らし、進むべき道標にする必要があると氏は述べる。
 花岡では、反発や抵抗があっても強制連行の蛮行に具体的に向き合い続けた人々が、被害者との新たな関係、言うなれば平和の片鱗を生み出しつつある。