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特集 沖縄「日本復帰」50年 ――城間幹子 那覇市長に聞く

じわじわと積み重なった平和への思い
強い気持ちで戦争を拒絶

沖縄で教育者として長く子どもたちを育て、教育長を経て政治の世界で活躍する城間幹子那覇市長に、復帰50年に対する思いを聞いた。聞き手は山内末子沖縄県議。(文責、見出しとも編集部)

城間幹子那覇市長

山内末子沖縄県議(以下、山内) 那覇市も昨年市制100年となり、沖縄県は今年復帰50周年の節目の年を迎えました。復帰当時、城間さんは何をされていたのか、お聞かせください。


城間幹子那覇市長(以下、城間) 復帰の年、私はちょうど宮城県仙台で大学3年生でした。当時は、安保闘争もあり、学生運動華やかかりしころでした。大学入学時、いわゆる学生運動の人たちが食堂とか学生会館を封鎖して、しばらくは女子寮に入れなかったこともありました。今思い出すと、ふつふつといろんなことが湧き上がっていたような、日本内部の争いが一気に噴き出た感覚でしたね。そのころ「祖国復帰」ということを聞き、沖縄は日本にとって特別な状況なんだということが少しずつわかってきました。
 子どものころにB円(米軍票)からドルになりましたが、算数の授業では円で計算していて、米国統治を日常的にはこういうものだと受け入れていました。当時は沖縄から本土へはパスポートが必要で、注射も打って渡りましたね。
 本土の生活では沖縄に対する偏見を感じていました。大学の先輩からは、「生きている間に琉球人に会えるとは思わなかった」とか、「日本語しゃべれるのか。沖縄では英語で話すのか」などという話さえありました。私自身、それへの対応が面倒になってきて、口が重くなったこともあります。

山内末子沖縄県議

山内 復帰について教育者としてはどのようにとらえていましたか?
城間 本土で4~5年教員をしてから沖縄に帰ってきましたが、そのときにはパスポートもいらなくなっていましたね。私たちはちょうど米国統治と日本復帰の狭間にいた世代ですが、復帰が私の中で大きくグサッと刺さったという記憶はあまりないんです。
 教員の世界では、私が高校生のときに教公2法案があって、先生たちがストライキをやって校庭とか与儀公園に集まってわいわいやってる記憶があります。でも、私が教員になってからの先生がたは抑えつけられていましたからね。政治活動をやってはならない中で私は教員になったわけです。
 そんな状況下でしたが、当時は平和教育は身近な問題として、今よりももっとやられていたように思います。私の中で平和に対する思いとか、沖縄に対する思いとか、爆発的なそれは表現したことはないんですが、じわじわと私の中に積み重なってきたというのは確かです。学校の中でも沖縄戦について資料をもってしっかり平和教育をやってきました。こういうことが二度とあってはならないということを子どもたちにも伝えてきました。私のなかで平和教育は揺るぎないものです。
山内 教員生活を終えて教育長から政治の道に入り、翁長雄志さんが那覇市長のときに副市長になられました。翁長さんは自民党の政治家として市長になりましたが、基地の問題を強く発言しましたね。
城間 学生時代ですが、本土に行った仲間たちが同じクラスとか同じ学年で東京に集まり「チャースガウチナー(どうする沖縄)」とわいわいやっていました。私自身はその中にはいなかったですが、その輪の中に翁長さんがいました。
 彼の姿勢は一貫して変わっていませんね。「オール沖縄」という言葉に込めた彼の思いは、沖縄全体で政府に立ち向かおうという意味だったと思います。それが本土の政党の波にのみ込まれたというか淘汰されたというか、直接つながらなくなってしまったために「自民党ではない」と言われました。彼の沖縄に対する思いはウチナー自民党のスタイルだったと思います。彼は、この部分は絶対譲れないとウチナーのアイデンティティーをあくまで大事にしようとしていたと思います。彼はウチナー自民党の最後の人です。
山内 戦後の沖縄自民党がやってきたことを県民は評価していると思うんです。翁長さんは亡くなるまで、辺野古基地建設に反対された。この問題は沖縄県民のこれまでの50年、生きざまや誇りの象徴で、これはどうしても譲れない問題です。聞く耳を持たない政府の状況があるなかで、これから先沖縄がどういう方向性をもてばよいとお考えでしょうか。
城間 これからの50年、100年の沖縄について言うと、考えなければいけない点があります。昨年、ヤンバル(沖縄北部)が世界遺産に認定されました。その近くに米軍のオスプレイが飛ぶ状態、そうした相反した姿が沖縄にあるのは、きわめて不条理な思いがします。
 ウクライナのような世界で起きるさまざまな紛争の形がいつ沖縄に入ってくるかという恐怖があります。基地に賛成する人も守ってもらいたいから賛成、反対の人も戦いは困るから反対。どちらにしても県民は戦争を止めたいんですよね。ウクライナはまさに「兄弟げんか」ですから、21世紀になってもそういう状態があるのは非常に心が痛い。
 沖縄に防備のための基地が必要なのかどうか。立場的には、自衛隊も専守防衛でお世話になっている面もあるので、はっきり反対とかは言えない。日米安保条約もこの部分はどうかというところもあるが、条件付きで認める。やはりこういう世の中で無防備に日本が存在することはありえないでしょう。そういう意味では一部理解、分かる面もありますが、言いたいのはまさに「程があるだろう」ということです。
 たとえ普天間基地が返ってきても米軍基地の7割は沖縄に残ることになります。日本本土は広いのに、こんなに狭い沖縄になぜ置くのか、まさに沖縄はキーストーンですよね。
 沖縄戦は日本で唯一の地上戦、住民を巻き込んでの戦争が行われたところです。そういう経験があるからいいだろうと思うかもしれませんが、それはあり得ない。だからこそ平和を願う気持ちを全国の皆さんにご理解いただきたい。
 1回でも沖縄にいらした方は大好きでどんどん来てくださるけど、縁遠い方々はやはりまだ沖縄に対する理解は少ないですよね。基地を置く代わりにたくさんのお金をもらっているだろうとか、そういうことを言う人もいまだにいるということです。その誤解をなくす活動を、政治家の皆さんにはやっていただきたいと思います。
 平和な世の中でなければ、バスに乗ったり、野球観戦したり、いろいろな動きを享受できないわけです。今コロナで行動制限されてますけれども、いわゆる人為的に起こす戦争に対しては強い気持ちで拒絶したいですね。平和に囲まれてないと、何もできないということを自覚しつつ生活したいですね。
山内 城間市長を見ていると、沖縄の女性たちがたくましく生きてきたから今の沖縄があるように感じます。
城間 自分の経験でも女性はたくましいと思いますが、女性というくくりで見るよりも、父性と母性の両方を兼ね備えているのが人間だと思って見ています。それが場面的にどう強く表れるかでしょう。男性にも父性と母性があって、母性が出てきたときにイクメンになるはず。ここは男の仕事、女の仕事とやっていたものを、これをひとりの人間として父性、母性とやれば、どちらもできると思うんです。それが今の時代オープンになって、性別にとらわれて無理をしていた人は、自然に生きられるようになってきた。そういう意味では良い時代になったと思うんです。自分自身の人生の中で母性、父性を感覚として持っていたら、いろいろな場面で七変化できるのではないでしょうか。
 女性の皆さんが古い歴史によって、もしがんじがらめになって動きにくいんだったら、いや私は女性である前に人間であるという考えで、パートナーがいらっしゃるならその方と話し合いをしてください。父性が勝っている女性もいれば、母性が強い女性もいらっしゃる、LGBTの皆さんもいらっしゃるわけですから。
 そういう感覚でいけば、女性の皆さんにがんばってと言う時点で、私はもうがんじがらめの鎖があるという前提で話をしなければならなくなるでしょう。それはちょっと違うかなと思います。もちろん女性には抑圧されてきた歴史があるので、女性の良さを生かしてがんばってくださいと、前向きな言葉をかけたいといつも思っています。
 沖縄の若者や子どもたちはどこにでも飛び出しやすい位置にいると思っています。これまでの教え子の活躍を見ても、高校でも中学でも、今は飛び出していけるようになっています。行ったり来たり、視野を広げて飛び立ってほしい。海が隔てているだけに子どもたちには可能性があると思っています。
山内 自分らしく、生きやすいようにやっていけばいい。そういうことですね。今日はお忙しい中、ありがとうございました。