学術会議◆任命拒否の波紋

羽場久美子

青山学院大教授・国際政治学、元日本学術会議会員、現連携会員

日本学術会議新会員の六名を菅首相が任命拒否したことは、安倍政権の忖度政治が一歩進み、学問の自由への介入につながる大問題だ。政府の統制が、政治家・官僚・マスコミから学者へと広がりつつある。国民の自由意見の自粛・相互規制につながる。
 学術会議は三部会(人文社会、生命科学、理学工学)からなり、筆者は選考委員として参加した経験も持つ。拒否された六人はすべて人文社会の学者だ。法学、政治、歴史、宗教。広く社会を、民主主義・自由主義の観点から批判的に分析し、いわば政権を監視する学問である。
 かつて一五年六月、下村博文文部科学大臣は通達で「人文社会学系の学部・大学院について、組織の廃止、社会的要請の高い分野への転換」を要請し、大反発を引き起こした。廃止や制限を要求するのは、社会科学が政権の公正を要求する学問だからだ。
学術会議は、学問が戦争に加担した苦い経験をふまえ四九年に設立された。五〇年と六七年には、「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を発表、二〇一七年に改めて声明を出した。防衛省の莫大な補助金が、軍事と学問の共同研究を求めたからである。今回の任命拒否は、これらの問題、及び憲法改正とも結び付く。 
 二〇年六月、甘利明自民党税調会長は、「最先端の技術は軍事転用できる」「アカデミアがこれはやっちゃいけないというのは非常に問題」と語った。研究の軍事転用を目指しそれに反対する学者は排除する。学問の批判的自由への介入は、結果的に、国民の思想の自由、政府への批判の自由を自制させる効果を持つ。
 政府はその権力の行使に対し、国民の監視と批判を受け続けることが民主主義の原則である。学者やメディアに限らず国民は等しく政府に対しおかしいと思ったら声を上げることができる。それを禁じるのはナチスドイツや戦前の日本のように思想統制が始まったことを意味する。 
ドイツのキリスト教ルター派の牧師マルティン・ニーメラーの有名な警句がある。引用する。
「ナチスが共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者でなかったから。社会民主主義者が牢獄に入れられたとき私は声をあげなかった。社会民主主義者でなかったから。労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。そして、彼らが私(キリスト者)を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」
 今回の六人は、ニーメラーの警告の最後の「私」に近い。公正な法、政治、歴史、宗教の研究者だ。すでに政府は、政府に批判を持つ学者の排除に及びつつある。
日本の官僚やマスコミはすでに政権に忖度してほとんど批判ができなくなっている。国境なき記者団による「世界報道自由度ランキング」では、日本は二〇二〇年で六十六位である。
 麻生太郎副首相は一三年、「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうか」と述べた。これには世界中から驚きと批判が起こった。日本は今、安倍政権もできなかったことをやり始めている。
 先の下村政調会長は、学術会議の在り方を議論するといい、河野太郎行革担当大臣は、学術会議を「聖域なき」行革の対象にすると語った。学者の自由な発言への圧力は国民生活にもジワリと浸透する。あなたの発言が攻撃されるころには、守ってくれる人がいなくなってしまう。
 軍事と学問、憲法改正、共謀罪などへの政権の政策に対して、学者やメディアが批判と監視を続け、国民の盾になり続けなければ、権力の歯止めはかけられない。ニーメラーの警告はいま私たちに突き付けられている。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする