『日本の進路』編集長 山本 正治
司法権も民主制も大英帝国当時のママ
例えば、「高度な自治権」の中には、「独立の司法権および終審裁判権を有し、現行の法律は基本的に変えない」ことも含まれていた。要するに、イギリス帝国の世界支配の法体系(コモン・ロー)をそのまま維持するという合意だった。コモン・ローは英国(帝国)独特の「一般的慣習法」のことで、英連邦の司法関係者以外には理解もできず、運用もできない。そこに司法支配を委ねるということである。香港基本法92条には「裁判官は、他のコモン・ロー適用地域から招聘できる」とも規定されている。この結果、現在も最終審(最高裁)判事は17人中15人が外国籍である。
返還とは名ばかりで、ロンドンの金融街による香港の司法支配であり、それに従属した自由だった。司法制度は植民地のままだった。
植民地時代には「民主制」はなかった
「民主制」もそうだ。これも朝日新聞が言うような制度ではない。香港の中国返還が決まってから導入された「民主制」にすぎない。その経過は以下の通りである。「(中英共同宣言仮調印を9月半ばに控えた土壇場の92年7月に保守党大物政治家クリス・パッテンを最後の総督として香港に送り込んだ英国は)仮調印文書の中に『立法機関は選挙によって構成され、行政機関は立法機関に責任を負う』という一句を加えることに成功した。中国側の香港代表であった許家屯(当時、新華社香港分支社長)は、『仮調印の直前に、英国は中国との約束を覆し、〝主権を香港人に返す〟戦略に切り替え、残り13年足らずの統治の間に駆け足で代議制を推進しようとしていた』と中国側の見解を述べている」(中井智香子「香港の『通識教育科』の形成過程と雨傘運動」)。
中国の習近平体制批判でマスコミからもてはやされる遠藤誉氏も次のように言う(田原総一朗氏との対談共著『日中と習近平国賓』)。イギリスは植民地からの撤退に際し「さまざまな仕掛けをします」と。遠藤氏は、香港の「直接選挙民主制」がそれだというのである。それまではイギリスが派遣した香港総督がすべてを決めていて、「民主主義の『み』の字もない」、「立法局」(その後の「立法会」。85年に間接選挙を導入)はすべて指名制だった。それが突然、91年に直接選挙が導入された。92年から返還の97年までの「わずか5年間のこと」だと指摘している。
朝日新聞は、「19世紀以降、英国の植民地支配下で育まれた独特の都市文化」などという言い草は二度と口にすべきでない。もし言うとするとその「都市文化」は、中国政権に内部から反抗する勢力を養う帝国主義の文化であった。そこでは「香港人」を育てる教育が重要な役割を果たす。
「『一国二制度』にはアメリカの意向がくっきり投影」
なぜ、アメリカは内政問題のようにして国内法である香港関係法を制定し介入できるのか。マスコミも野党もなぜ、この露骨な内政干渉を批判しないのか。
かつてNHKワシントン支局長を務め、イラク戦争時のあまりのブッシュ政権寄りの報道から「駐NHKアメリカ大使」と揶揄されるほど米国と関係が深いと見られる手嶋龍一氏がはっきりと暴露している。「対中交渉をまとめたのは英国だが、(返還合意の中英共同)声明には米国の意向がくっきりと投影されていた。『1国2制度』を裏書きしたのは米国であった」、と(「香港に見る問題の本質凋落する米国の理念」毎日新聞政治プレミアム7月9日)。
基本法は「香港政府は従来の教育制度を基礎に、(関する制度や政策を)自ら制定する」と定めていた。特に教育面で、アメリカの狙った効果は大きかった。
返還合意後の香港政庁は、「普通選挙制の民主化」導入に歩調を合わせ1985年9月『学校公民教育ガイドライン』を定めた。英国側の目的は返還後の国益の確保であり、中国にも配慮した限定的な「民主化」であった。92年から高校3年(相当)に選択科目として導入され、その後香港政府によって2009年から高校課程に必修化された「通識教育科(Liberal Studies)」が重要な意味をもった。
批判的思考能力・独立思考能力・問題解決能力などが強調され、教科書を用いず新聞などのメディアを生きた教材として活用するように設計され、21世紀の知識型経済へ即応できる人材育成がナショナル・アイデンティティの確立よりも喫緊の課題とされた。香港政府を支える香港財界が急速な経済のグローバル化に危機感を抱いて、一国二制度下の国際金融センターとして香港の独自性を維持できる人材育成を要望していたからである。
若者に「祖国批判」を植え付けた教育制度
イギリスが返還後の香港に埋め込み、アメリカが裏書きした狙いは功を奏した。「政治的無関心」と言われてきた前世代とは異なり、社会問題への触覚を持った新世代が育成された。通識教育科の学習内容では、「中国式民主vs西欧式民主」の二項対立の枠組みの中で中国についてより深く知る作業を提示している。両者を比較すればするほど相違点が際立ち、なおかつ香港が上位であるとの印象を与えやすくなっている。したがって、「祖国中国」は香港の高校生の視点では批判の対象とされやすくなっている。これが高校の正規課程で唯一の「国民教育」である。学生の批判的思考能力を鍛えるという同科の意図は、学生が祖国中国のマイナス面に触れることで達成されている。――
以上は中井智香子氏の上掲論文の要旨だが、次のように結論付けている。「『90後(1990年代に生まれた者)』とも称され回帰(返還)後に成長した〝通識教育科世代〟は、(幼い頃から非正規課程で〈中国〉国歌を歌い普通語〈北京語〉を学び、小学校からは内地交流にも参加し、前世代より祖国中国と触れる機会は圧倒的に多かった。ところが)高校で通識教育科を通して、祖国中国のマイナス面を知り、幼い頃に抱いた祖国中国に対する情感は次第に否定的な印象へと変わってきたようである。彼らの社会意識の根底には、西欧モデルの民主と反共・抗共意識がしっかりと根付いている」と。
かくして香港では、「民主化」を求めた2014年の雨傘運動、その後には「愛国民主運動」をも批判し「6・4追悼集会」にすら参加を拒否して、「香港優先」を主張する動きが強まった。さらには昨年来、その指導者がアメリカ政府高官とも頻繁に会い激励されて、星条旗を掲げ、「香港独立」を唱え、もっぱら破壊活動をするような動きも目立つ運動となっている。
中国の体制転覆狙い画策するアメリカ
「凋落する」アメリカが必死に、あらゆる手立てを使って米中関係での劣勢を巻き返そうとしている。香港問題を、こうした米中関係の一部として見ないと誤る。アメリカは、経済的競争力は衰え、技術覇権も中国に脅かされている。アメリカが世界を搾り取った最大の武器・ドル覇権を維持できるか、軍事優位もどこまで維持できるか、瀬戸際となった。国内では、経済は衰退するにもかかわらずますます利益・資産を増やし続ける金融資本・大資産家たち、他方で極度の貧困の急増。国内対立は激化し、「Black Lives Matter」の大規模な国民的行動となっている。
自らを強くできなければ相手を弱くすることである。ペンス副大統領の2度の演説(2018、19年いずれも10月)ではっきりと分かるように、アメリカの戦略は「共産党体制を終わらせる」、政権瓦解攻撃である。貿易・金融、軍事面を含む全面的な圧力を加え、中国の国内対立を激化させることで延命を図ろうと画策している。中国の内政問題である香港や台湾について、次々と米国内法をつくり、干渉と介入を強めている。これを「正当化」できるか。まるで帝国主義ではないか。
中国の習近平政権にとって、アメリカが背後にいて暴動・不安定化を謀る香港の安定化は死活的である。放置すれば国内矛盾は次々と火を噴きかねない。
植民地時代からの完全な解放、真の自立を求めるアジアの側に立つのか。今まさに日本の態度が問われている。日本と朝鮮の問題も、日韓関係も、同じである。過去の侵略と植民地支配の不当性をきちんと認め、反省し謝罪し、必要な償いもして、アジアの一員として生きる道を選択すべきである。
わが国の香港問題への態度にはそのことも問われている。自由と人権は、大事で大切だ。だが、こうした世界の全体の中での一環として、粘り強く追求しないと、その破壊者に利用されることになる。