命と自由をともに守ろう
専修大学ジャーナリズム学科教授(言論法)山田 健太
やまだ・けんた 1959年生まれ。日本ペンクラブ専務理事。専門は言論法。青山学院大卒、2012年4月から現職。著書に 『沖縄報道』『法とジャーナリズム』『見張塔からずっと』『言論の自由』など多数。
潮目が変わった、と言うべきだろう。2週間前までは自粛しなくても大丈夫と外出していた人も、つい数日前までは布マスクに文句を言っていた人たちまでもが、一気に、世の中は「一刻も早い緊急事態宣言発令を」、そして「この国難の時に政府批判して何になる」という状況に変わったからだ。
もちろん感染まん延防止のため、うつさない、うつらないように、各自が家にとどまることが有効な対処法であろう。しかしそれと、宣言を求めることや、それを含めて政府の言うことにはみんな我慢して従おう、というのは別の話だ。この「前のめり」と「従順の強制」は、厄介な問題を引き起こす。
社会としての健全さを維持しつつ、今の状況を乗り切っていくためには、個々人が思考停止に陥って、不安や恐怖心の中で、全体の空気にのまれるのが一番怖いことだ。従わないものを異端視して、差別の対象にする事態も既に生まれている。
自粛の要請によって、既に私たちはさまざまな我慢をしてきている。出掛けるのを諦め、音楽や舞台を見に行くこともできず、多くの図書館での新聞閲覧も中止になった。しかしここで失ったものは、移動の自由、学習の自由、表現の自由、思想・良心の自由といった、私たちが戦後の憲法下で大切に守ってきたものばかりである。
私たちは、これらを一時的にせよ手放したこと、逆に言えば、行政機関はこれらを例外的に妨げたことを、お互いに自覚して過ごすことが必要だ。なぜなら、失うことに慣れてしまうと、ちょっとしたことで、生活の平穏や社会の安心を守るために、政府に自由を預けるという安易な発想が芽生えやすくなるからだ。
あるいは、預けっ放しの方がさまざまなゴタゴタも起きないし、面倒くさいから政府にきちんと統制してもらおうということにもなりかねない。
すでに国難を理由とした超法規的措置もまかり通っている。例えば多くの地方議会では、議事の短縮のため一般質問を取りやめたり、担当者の多忙を理由に新型コロナウイルス関係の質問を外したりという動きがある。傍聴も制限し、なかには記者を議場に入れない事例さえ生まれた。デジタルプラットフォーム事業者には、匿名化することを条件にしたものの、個々人の行動履歴の提供を求めている。
これらはいずれも、憲法上の権利規定にかかわるものとして慎重に取り扱われてきたが、そうした議論を一瞬にして無にするものだ。そしてこうした「前例」は、今後ことあるごとに「活用」される可能性がある。だからこそ、軽々に認めない、どうしてもの場合は前例にしない厳重な歯止めをかけることが必要だ。
あえて言うが、為政者は一度手にした権力を手放さないものだ。いったん、個人の自由を制限する権利を有すれば、それはどんどん広がる可能性はあっても、元に戻すのは至難の業だ。私たちの日常を管理・監視・制限することを、公権力に与えるその第一歩が緊急事態宣言である。形式的には強制力がないようには見えるが、その法的な意味は限りなく大きい。
コロナ禍を克服しても、民主主義社会が壊れてしまっては意味がない。命と自由をトレードオフするのではなく、どちらも守る闘いが、今、始まっている。
(共同通信2020年4月6日付配信記事を転載)