復帰50周年 沖縄米軍支配の現状はヤマトの歴史的責任"> 復帰50周年 沖縄米軍支配の現状はヤマトの歴史的責任"> <span class="em08">復帰50周年</span> 沖縄米軍支配の現状はヤマトの歴史的責任

復帰50周年 沖縄米軍支配の現状はヤマトの歴史的責任

「本土」は自らの課題として立ち向かわなくてはならない

広範な国民連合代表世話人 西澤 清

 沖縄は5月15日、「復帰」50年を迎える。
 昔、琉球諸島は、豊かで、交易によって栄えた独立王朝の国だった。琉球の交易船はヤマトの堺港から朝鮮、中国、さらにはマニラ、マラッカまで出かけていき巨額の利益を上げ、豊かな国を築いていた。友好的な関係を近隣諸国とつくり上げる中で生きていた。


 1603年に江戸幕府は、薩摩藩が琉球王国に進出することを許可した。この時から「オキナワ」の植民地化が進み収奪が続けられた。1609年4月、薩摩藩は3000人余りを乗せた軍船を出し、奄美群島を次々と攻略し、琉球王国に「奄美群島を割譲せよ」と迫り4月末には沖縄本島北部に上陸した。
 当時の琉球王国尚寧王はやむなく開城し、島津軍は5月8日、首里城を手に入れた。5月15日、尚寧王を拉致し、江戸に連行し徳川秀忠に謁見させた。その後、2年半の間、王をヤマト中引き回し、琉球が薩摩に服属し法外な年貢を納める誓約書に調印させた。なおこの時、奄美群島割譲に反対し、これを拒否した三司官(琉球王朝行政の責任者)は断首された。1613年に薩摩藩は奄美群島を割譲させ、直轄地とした。
 それ以後、琉球王国は270年間にわたり、内実は薩摩と徳川幕府の従属国でありながら、独立を表向き認められ中国の支配下にもあるという微妙な国際関係の中で存続せざるを得なくなったのである。
 1879年3月、明治政府の琉球処分官として、松田道之(初代滋賀県令、琉球処分後に東京府知事)は、随員・警官・兵合わせて約600人を従えて琉球に行き、「琉球処分」を断行した。武力を持たない琉球国王尚泰は城を明け渡し、ここに琉球王国は滅び、沖縄県となった。事実上は植民地化であった。沖縄に対するヤマトの植民地化政策は「言語」まで奪う徹底的な同和政策であった。
 沖縄は太平洋戦争で大きな犠牲を払わされた。これはこうした植民地化の歴史の延長線上ととらえるのが妥当である。米軍は1944年10月10曰、那覇市に大規模な空襲を行った。戦火は沖縄に迫っていた。45年2月、近衛文麿は昭和天皇に「和平」を説いたが、天皇の返答は、「沖縄の戦勝が得られたらそれを機会に和平を考えてもよい」というものだったという。「本土防衛」の犠牲となって、沖縄戦では県民の4人に一人が命を落とした。
 戦後になっても日本政府の対応は変わらなかった。「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する」「米軍の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借―25年ないし50年あるいはそれ以上―の擬制にもとづくべきである」(47年9月のいわゆる「天皇メッセージ」)と、米軍の軍事占領に任せた。
 1952年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約で日本政府は、沖縄への主権を自ら放棄し、日本から切り離し米軍支配に委ねた。同時に、従属的な日米安保条約と主権放棄の地位協定を結んだ。戦後すぐに起こった内灘、北富士など米軍基地反対闘争の帰着は、沖縄のキャンプ・シュワブの新設であり沖縄の基地負担は増大した。
 「講和」から今年で70年である。50年前の1972年5月15日、沖縄の「施政権」は日本政府に「返還」された。だが、沖縄県民が望んだ基地のない平和な島は実現せず、米軍軍事支配の実態、基地自由使用は変わらなかった。それが故の事件事故が毎日のように続き、経済発展も大きな制約を受けている。しかも今、米中対立激化の中で、「再び戦場化」の危機に直面する。
 沖縄の現状を打開する闘いは、歴史に責任を持つ日本全体の贖罪の闘いでなければならない。