[コロナ危機どう闘うか] 「生命」か「経済」か、それが問題だ

共有(シェア)Share on Facebook
Facebook
Tweet about this on Twitter
Twitter
Share on LinkedIn
Linkedin

地方と新型コロナウイルス禍

山形県議会議員 原田 和広

 昨今の新型コロナウイルス禍において山形県が直面している喫緊の課題は、医療崩壊と地域経済の崩壊である。生命と経済のどちらを守るのかという二者択一がマスコミ報道等で議論されることが多くなってきたが、どちらかではなく、そのどちらも守れない可能性を山形県のような地方は構造的に抱えているのではないだろうか。
 まず、医療崩壊に関して言えば、本県の医療資源は極めて脆弱である。ICUは県内に最大で31床しか存在せず、厚生労働省がピーク時の重症者数として想定している74人を大きく下回っている。また、重症患者の生命線となる人工肺(ECMO)は、現在全ての重症患者を受け入れている県立中央病院にわずか3台しかない。人工肺が圧倒的に足りないため、仮に今後多くの重症者が出た場合、通常の肺炎やインフルエンザですら、高齢者が罹患すれば即一大事となる。さらに、5つの感染症指定病院のうち、県立の1カ所は周辺の開業医と競合して赤字経営が続き、医師不足で内科医がいないために新型コロナウイルス患者の入院治療すらできていない状態である。

崩壊する地域経済

 地域経済に目を転ずれば、8割を超える県内の中小企業が危機的状況に直面している。1月に日本でも三番目に古い老舗百貨店の「大沼」が倒産し、地域経済に激震が走った。150人の一斉解雇は、近年まれにみる大型倒産である。山形県は日本で唯一百貨店が存在しない県となったが、その背景には仙台市との都市間経済競争がある。水が高きから低きに流れるように、国策で何らかの対策を講じない限り、ヒト・モノ・カネは一方的に地方から都市部に流れる。山形市民ですら、百貨店での買い物は仙台市を選ぶのだ。
 世界規模で加速する新自由主義とグローバリゼーションの競争力学は、国内でも同様に働く。その摂理の前に、一企業の経営努力などは意味をなさない。
 昨年の消費増税が「大沼」倒産へのとどめの一撃になったとされるが、その消費増税以上に、県内企業を倒産の危機に追い込んでいるのが、新型コロナウイルス禍による現在の市民生活の自粛である。既に、天童温泉の「舞鶴荘」が経営危機から従業員45人を解雇し、138年の歴史を誇る県内屈指の老舗漬物店、「丸八やたら漬」が5月いっぱいで廃業を決めた。これは地域経済崩壊の序章であり、現状の自粛が続く限り、中小の飲食店と本県のインバウンドを支えてきた観光業における倒産・廃業が今後連鎖的に始まるだろう。温泉県山形において、上山温泉の従業員に県内2例目となる新型コロナウイルス感染者が出たことも不運であった。風評被害から、上山温泉だけでなく、今や県内のほとんどの温泉街がキャンセル続きで悲鳴をあげている。また、県都山形市における1例目の発症者がナイトクラブの女性だったため、県都の繁華街からも瞬く間に経済の灯が消えた。繁華街の飲食店と運転代行業、タクシー産業等が、歓送迎会の一斉中止によって3月、4月の繁忙期の収入のほぼ全てを失うことになり、新年度早々に経営危機が叫ばれている。
 山形県の基幹産業である農業とて、ウイルス禍の前に無事では済まない。料亭やホテルでの需要が激減したため、「日本三大和牛」に位置付けられ、本県産品のトップブランドでもある米沢牛は、4月2日のセリにおいて前年同月比から1164円値下がりして2016円/㎏となった。これは、東日本大震災発災直後の4月とほぼ同等の安値である。

犠牲の上に成り立つかりそめの繁栄

 「地方経済の繁栄なくして国家経済の繁栄なし。地方とは何か。地方とは、圧倒的多数の中小零細企業と農業と、そこに働く人々そのものだ」は、故・遠藤武彦元農林水産大臣の至言である。彼は1986(昭和61)年にこの言葉を掲げて山形2区から衆議院議員に初当選したが、本県が置かれた状況はその時から一層悪化している。地方に暮らす圧倒的多数の中小零細企業と農業とそこに働く人々の暮らしは都市部の豊かな生活を支えるために犠牲にされ続け、今般のウイルス禍の下で史上最悪の危機に直面しているのだ。
 山形県は、雇用の維持を目下最大の目標に掲げ、過去最大となる300億円を超える補正予算を4月30日の臨時議会に上程し、9月までの半年間、雇用調整助成金への県単独の上乗せを行い、労働者の賃金を実質的に10割保障する施策を打ち出した。県内の労働者の生活が半年間保障された一方、県内の中小企業に対する保障は薄く、商工業振興資金の拡充や要件緩和を行ったところで、新型コロナウイルス感染症の終息とその後の資金返済のめどが全く立たない以上、せっかくの無利子ローンも焼け石に水という怨嗟の声が中小零細企業の経営者たちから聞こえてくる。仮に今の状態が続き、半年間も収入がほぼない状態に陥れば、一体どれほどの企業が、既存の借入金の返済、固定資産税、消費税、車両や備品のリース代、家賃や社員の社会保険料といった重い負担に耐えられるだろうか。

「地方」「弱者」犠牲は限界に

 「地方経済の繁栄なくして国家経済の繁栄なし」という遠藤の至言は、長期的に見れば間違いなく正しい。だが、短期的には地方経済を犠牲にして国家経済をかさ上げすることは可能だ。そして、事実日本は「失われた20年」の間、ひたすらそれを続けてきたのである。小泉構造改革以降、一貫して大企業が進めてきたのは、正規社員の非正規化である。無論その中には、地方から吸い上げた安い労働力が多数含まれる。外国人労働者や首都圏の主婦、そして地方から上京した若い労働者の低賃金労働がなければ首都圏の大企業は回らない。逆に言えば、法人企業の約460兆円に上る巨額な内部留保は、ただ労働分配率を下げることだけで手に入れたものなのである。
 何一つ画期的なイノベーションを生み出すこともせず、安易に人件費の削減だけで利益を出した企業に未来などない。事実、日本企業はGAFAをはじめとする新興勢力に敗北し、世界市場から完全に駆逐された。そして、これが日本という国家の現在地である。地方や弱者を切り捨てる東京一極集中の経済モデルは、既に破綻しているのだが、この惨状の原因は、ひとえに中曽根政権以来、自民党政権が一貫して採用し続けた新自由主義という政治経済イデオロギーに帰結する。
 新自由主義は、おおむね①規制緩和、②自由化、③民営化、という三原理のセットである。そして、これらの原理の運用と結びつくのが、「減税」(とりわけ大企業や高額所得者の)、社会保障の削減、政府の小規模化、生産性向上の名目下での労働運動の抑制と労働者の非正規化、地域的ないしはグローバルな経済統合、といった種々の政策である。イギリスで新自由主義を先導した〝鉄の女〟サッチャー元首相は、「社会なるものは存在しない」と言い切った。それは、政府には何も期待するな、という冷たい自己責任論の押し付けである。また、しばしば彼女は閣僚に対して、「他の選択肢はない」と語った。安倍政権がアベノミクスを推進する際、自民党は「この道しかない」をスローガンに掲げて選挙戦を戦ったが、畢竟アベノミクスとは、新自由主義を先鋭化させた優勝劣敗の経済政策なのである。本来いくつも道があるはずの世界で、新自由主義は国民に経済競争以外の選択肢を与えない。そして、敗者は自己責任の下に切り捨てられるのであるが、新自由主義が自然な人間としてはありえない強度を持つ人間を標準と措定しているが故に、多くの「普通の人たち」が敗者となって居場所を失ってしまう。その結果生まれ続ける格差と不平等、そして不可避の挫折から生じる人としての尊厳の剝奪は、本来新型コロナウイルス禍に対して一丸となるべき社会から連帯と協働の意識を奪う。

新自由主義がウイルス禍と一緒に地方を破壊する

 新自由主義は、地方と都市部の格差を拡大し、地方都市の内部でさえ安定した公務員や大企業社員とその他の中小企業社員の間に格差を拡大させた。過度な民営化と経済競争の加速は社会の成員から安全・安心の感覚を奪い、収益の上がらない公立病院は合理化の名目で国から統廃合を求められている。公定価格である医業でさえ、賃金の地域間格差から医師が都市部に流出し、深刻な医師不足はウイルス禍という状況下において、平時でさえ脆弱な地方の医療体制を逼迫させる。最も勝ち組ともいえる東京都においてすら医療崩壊が起きつつあるのであれば、地方都市において、それはまさに一瞬で起きるであろう。そして、首都圏への人口流出が止まらず、若者が地元に定着しない高齢化が進んだ山形県においては、容赦なく高齢者を狙い撃ちする新型コロナウイルスは、まさに悪魔のような存在である。われわれは今、文字通り生命だけでなく、経済の息の根まで止められる未曽有の危機に直面している。
 そしてこれは、単なるウイルス禍という天災ではない。明らかに、政治の機能不全が招いた人災である。新自由主義に代わる明確なビジョンを国民に示すことができないふがいない野党と、それにあぐらをかいて徹底的に社会的弱者に自己責任論を押し付けてきた与党の両方の政治家が責を負うべき事態である。
 イギリスでは、ジョンソン首相がウイルスに倒れて病床に臥す前、サッチャー女史と同じ保守党の首相であるにもかかわらず、「確かに社会なるものは存在するのです」と高らかに宣言し、野戦病院「NHSナイチンゲール」を建設して保守党政権が一貫して行ってきた社会保障削減の流れを転換させ、さらに労働者に対する手厚い休業補償を打ち出した。明らかにサッチャー女史の言葉を意識したジョンソン首相の発言からは、ウイルス禍に対して新自由主義は無力であり、社会の連帯と絆こそが唯一の希望であることが理解される。

急がれる、代わる明確なビジョン

 だが、日本では、安倍政権が今日も国民の悲哀に寄り添うこともなく、生命を守ることよりも新自由主義のイデオロギーを優先させ、補償も救済もないままで経済活動を再開させようと躍起になっている。自民党の若手議員が西村経済再生担当大臣に、「補償をしなければ企業が倒産する」と訴えた際、ある自民党幹部は、「もたない会社は潰すから」と発言したというが、これがまさに新自由主義の、そして安倍政権の本質なのである。つまり、弱肉強食である。
 容赦なく地方を切り捨て、弱者を切り捨て、なんとか築き上げたかりそめの繁栄が今足元から崩れようとしているが、最も打撃を受けるのは、結局は常に山形県のような地方であり、格差社会の底であえぐ社会的弱者なのである。一般的に失業率が1%上がれば、人口10万人当たり20人弱の自殺者が出るという。本県においては、新型コロナウイルス感染症で亡くなる県民と、経済不況で自殺する県民のどちらが多くなるのか現時点では想像もつかないが、いずれにせよ、地方の山形県に突き付けられたのは、東京のような生命か経済かという二者択一ではない。その両方が無慈悲に奪い去られる絶望的な状況を、新自由主義とそれがもたらしたグローバリゼーションによって、ウイルスと一緒に外部から一方的に押し付けられているのである。

(一部、小見出しは編集部)

共有(シェア)Share on Facebook
Facebook
Tweet about this on Twitter
Twitter
Share on LinkedIn
Linkedin