「アメリカと一体化すれば日本は平和になる」のか?

<シリーズ・日本の進路を考える>
世界の政治も経済も危機は深まり、わが国を亡国に導く対米従属の安倍政権による軍事大国化の道に代わる、危機打開の進路が切実に求められている。
本誌では、各方面の識者の方々に「日本の進路」について語ってもらい、随時掲載する。(編集部)

2016-shinroRogo

世界が直面する戦争の実像

内閣官房副長官補・元防衛省 柳澤 協二

yanagisawa顔 世界は、そして日本は、三つの戦争に直面している。
 一つは、領土をめぐる古典的戦争、二つ目は、20世紀後半にはじまる大国間の勢力争いを背景とする覇権と支配の戦争、そして三番目に、イスラム原理主義に基づく暴力とこれを根絶するための暴力の対立に起因する戦争である。
 日本に当てはめてみれば、中国との間には領土をめぐる「主権の対立」があり、その中国は、南シナ海で周辺国との間の領土紛争を抱えると同時に、アメリカが主導する海洋法秩序に、独自の見解を持ち込んで対立している。また、いわゆる国際テロは、中東、北アフリカ、欧州を席巻し、在外邦人にも危害を与えるとともに、国内でのテロが懸念されている。
 これらは、それぞれ異なる起源を持ち、異なった論理よって戦われている。それぞれの戦争には、別の処方箋が用意されなければならない。安倍晋三首相は、「アメリカと一体化すれば抑止力が高まるので、戦争に巻き込まれることはない」と言っている。今日の日本における安全保障の混迷は、性質の違う三つの戦争に対して、武力を強化し、アメリカと一体化することによって抑止力を高めるという単一の処方箋しか持たないことから生じている。
 野党は、安保法制の廃止を求めている。それは、単に違憲だからというだけではなく、日本の平和にとって必要か否かという根拠に裏付けられなければ、真の解決にはならない。安保法制の廃止の後には、三つの戦争にどう立ち向かうのかという処方を示さなければならない、安保法制に賛同する人も反対する人も等しく日本国民であり、ともに国のあり方に責任を負う主権者であるからだ。安倍さんやネトウヨが嫌いだからといって、安倍さんやネトウヨのように振舞ってはいけない。
 わが身に迫る危険は大きく見える。だがそれは、いま世界で進行している危機の一部に過ぎないし、実は中心的課題でもない。世界が直面する戦争、そして、歴史上経験してきた戦争という流れの中で物事の大きさを見極めなければ、独りよがりの無駄な戦争を選択することにもなりかねない。世界は、そして戦争という病理は、日本を中心に回っているわけではないのだ。

主権の戦争と覇権の戦争

 まず、国土防衛の課題を考えてみよう。抑止政策は、対等な二国間で成り立つ概念だが、第2次大戦は抑止の裏をかいて始まった。抑止あるいは勢力均衡は、戦争を防ぐものではなく、潜在的侵略者が時間を稼ぐことに役立っていた。
 日本は、すでに中国と軍事的に対等ではない。それでも、島の争奪程度の限定的な戦争であれば、日本の防衛力は世界有数の水準にあって、仮に中国が軍隊を出してきても、それを阻止するだけの実力はある。だが、それが長期化すれば、やがて戦死者が増加し、装備は損耗して、弾が切れる。日中双方がどこまで耐えられるか。戦場を尖閣に限定すれば、サッカーの試合のように、対等な国同士の我慢比べになる。
 中国が業を煮やして戦線を拡大すれば、日本へのミサイル攻撃が始まる。そこで、アメリカの出番となる。日本攻撃への報復として、アメリカが中国本土を攻撃する。互いに引くに引けない報復合戦は、やがて核の撃ち合いに発展する。そして、世界は壊滅する。これが、拡大と報復を前提とした抑止の論理だ。
 そんな馬鹿なことはない、と思うかもしれない。だが、それが抑止力の本来の姿である。冷戦時代のアメリカとソ連は、お互いにそう考え、拡大につながる衝突(例えば日本への攻撃)を控えてきた。日本の防衛力は、そのような拡大に至らない範囲の武力に対して、自力で国を守ることを目標としてきた。
 しかし、今の米中がそこまでの戦争をすると予測するのは、やはり馬鹿げている。なぜか?かつての米ソは、お互いに相いれない存在であったが、今日の米中は、世界経済が成り立つためにお互いを必要としているからだ。そこで、米中の間には、意図するかどうかにかかわらず、新たな戦争のルールが模索されざるを得ない。
 すなわち、いつ戦うのか、何をもって決着とするのか、戦いの中で何が許され、何が許されないのか、といったルールである。意識しようとしまいと、開戦・戦法・終戦に関する相互の共通の理解がなければ、超大国といえども見通しのない戦争は、できるものではない。
 そのルールは、いまだ形成の途上にあって確たる姿は見えてこない。だが、南シナ海をめぐる確執の中で、アメリカが島の軍事化を許さないと主張し、中国が現状変更ではなく自国の権益の原状回復であると主張する、そして、緊張が高まっても民間船舶に脅威を与えないという作戦の実態の中に、双方が望む目標と、どこまで許容するかの相場観が見えてくるだろう。
 軍艦の派遣は、衝突の機会を増やすかもしれない。それゆえ、双方とも公海上における予期せぬ衝突を予防する一般ルール(Codes for Unplanned Encounters at Sea)に合意している。双方とも、摩擦的衝突を拡大しないことを共通の利益と考えている。
 覇権国は、自国の生存ではなく自国が主導する世界のために戦争し、その力を活かして国際法を変えようとも試みる。だが、世界の残りの国が付いてこなければ覇権国ではありえない。それゆえ覇権国の行動には、一定の普遍的妥当性と他国に及ぼす利益がなければならない。自国が滅びるような自暴自棄の戦争や、何の言い訳もできないような勝手な戦争はできないのだ。
 主権の戦争は、原理的には妥協のない戦争だが、覇権の戦争は、戦場の勝敗よりも戦後の力関係の優位を目指す戦争である。囲碁でいう、局所の死活と全局の形成判断の違いがある。双方は、同時に進行したとしても、異なる基準で戦われる。
 日本の主権の戦争に、いつでもアメリカが味方するとは限らない。それは、日本が集団的自衛権でアメリカの船を守るかどうかで左右される問題ではない。もちろん、同盟国への攻撃を放置すれば、覇権の信頼性が揺らぐというマイナスはある。だから、アメリカは放置できない。そこで、最もありそうな選択は、主権の戦争をさせないようにする、ということだ。
 尖閣は、主権の対立である。そこでの戦争は、主権の維持という国家目的のために戦われる古典的なナショナリズムの戦争であり、クラウゼヴィッツの言う「三位一体の戦争」である。そこで戦争をするために何にもまして必要なことは、主権のために命を捧げてもよいという国民感情の高まりである。
 だが、そこに日本人も中国人も生活しているわけではない。主権を守るという命題と、国民の命を守るという命題が矛盾する。戦争とは、国の目的のために国民の命を犠牲にすることだからだ。
 それでも、本気で中国が攻めてきたらどうするのか、という議論がある。それは、中国がアメリカとの「本気の」戦争を覚悟したとき、すなわち、自国にアメリカの爆撃があることを覚悟したときだ。そこまで覚悟のうえなら、戦争の常道として、まずは自国に近いアメリカの前方展開兵力を狙うだろう。沖縄や西日本の基地にミサイルが飛んでくる、ということだ。
 中国の立場から言えば、尖閣は、そうまでして得るべき緊急性があるのかということであり、日本の立場で言えば、本土を犠牲にしてまで守るべき死活性があるのか、ということだ。政治が判断すべき一番大きな課題がそこにある。「アメリカと一体化すれば安心」ではないのだ。

南シナ海と東シナ海

 南シナ海で中国の勝手を許せば、やがて東シナ海でも同じことをする、だから、今のうちに南シナ海の防衛に日本が手を貸す必要がある、という議論もある。
 たしかに、中国が力で現状変更するやり方は、南シナ海でも東シナ海でも、周辺国にとっては主権の戦争であるという意味で、両者は同じ線上にある。しかし、南シナ海は日本の主権の戦争ではないし、東シナ海はフィリピン、ベトナムの主権の戦争ではない。日本が南シナ海沿岸国の主権の戦争に加担するとすれば、それは日本の主権を守る戦争ではない。東アジアの戦略的位置関係
「防衛白書」2016年版から

 自国では守り切れない小国が協力して大国と戦争するという実験室的な集団的自衛権がある。だが、武器と軍隊の規模において劣る小国がいくつ集まっても大国には勝てない。勝機があるとすれば、例えば日本が代わりに標的となって海軍を引き付けている間に陸続きの別の国が敵の本土に攻め込んで占領するような共同作戦が成功する場合だが、まず、ありえないシナリオだ。
 そうした戦術的な議論の前に、そもそも他国の主権を守るために血を流すのは、言葉として美しいかもしれないが、国民の命は安くはない。主権の戦争は、自国のために命を犠牲にするほど熱狂した国民がいてはじめて成立するのであって、他国のための戦争というものは、戦争の本質から言って成り立たない。
 日本が戦う南シナ海戦争は、集団的自衛権ではなく、介入するアメリカへの支援、すなわち、アメリカの覇権戦争への支援という形で行われることになる。日本の法制に当てはめれば、存立危機事態ではなく、重要影響事態およびそれ未満のグレーゾーンにおける米艦防護の形をとることになる。
 南シナ海で中国と戦う米軍を支援し、あるいは米艦を守って中国の軍艦を攻撃すれば、日本はまぎれもない戦争当時国となる。そうでなくとも、日本の基地から米軍が出撃すれば、それは、武力行使の一形態とみなされる。そこで中国が恐れ入って戦争をやめる、というのが安倍首相の論理だが、すでに南シナ海であえて米艦を攻撃した中国が、そんなことで恐れ入ることはない。日本の基地に、中国のミサイルが雨あられと飛来する。
 つまり、「米艦を守って日米が一体化すれば日本が平和になる」どころか、日本は戦争に巻き込まれる。なぜこうした常識が通じないのか?それは、日本が戦う主権の戦争とアメリカが戦う覇権の戦争を混同しているからだ。言い方を変えれば、日本が怖いことはアメリカも同じように怖いはずだと思っているからだ。
 アメリカは、人類史上最強の軍事国家である。過去一世紀の間にアメリカ本土を攻撃したのは、日本の風船爆弾と、軍隊の姿をしていないアルカイダだけだ。どのような国と戦争しても、相手が国や軍隊である限り、アメリカを軍事的に打ち負かすことはできない。しかし、そうしたアメリカの優位を、限られた範囲でほんの一時薄めることは、日本にだってできないことではない。
 だから、繰り返しになるが、アメリカがアジアで戦う戦争は、主権の戦争ではなく覇権の戦争だ。覇権の戦争は主権の戦争よりもはるかに難しい。自国の主権が脅かされていないにもかかわらず戦う戦争であるからだ。そこには、自分の国が、世界をリードする特別な国だと考える思考が必要になる。
 昔の日本やドイツがそうだった。冷戦時代のソ連もそうだった。今日、そういう特別な国という自己認識を持てる国は、アメリカと、そのアメリカを人口で凌駕し、経済規模でも追いつこうとする中国以外にない。その中国も、正面からアメリカと戦って勝てるとは思っていない。
 そのアメリカにも弱みがある。それは、アメリカが中国本土を攻撃すれば、その戦争が中国にとって主権の戦争になることだ。自由とか民主主義を広めるという覇権の思想は、それを否定する他者には通用しない。覇権の思想は本来独りよがりであり、きれいごとであって、それを理由に存在を否定されようとする他者には、この上ない不正義となる。
 生存をかけた共同体は、無条件で犠牲を受け入れる。何人殺されても向かってくる。そんな相手を倒すことは、目的によって正当化される戦争というより目的のない虐殺であり、たとえ勝ったとしても、アメリカ自身の覇権の思想を否定する行為となる。
 そう考えれば、日本にも、強大な中国相手に勝機はある。尖閣をとるために日本に攻め込み、日本人が死を恐れず抵抗を続ければ、中国が同じ立場に立たされる。そのとき中国は、70年前のアメリカと同じように、自国の兵士の犠牲を減らすために核兵器を使うかもしれない。だがそれは、中国自身の国際的地位を破滅させ、中国社会を崩壊させる。

勝つ戦争と無駄な戦争

 護憲派も改憲派も考えてほしい。国を守るとは、そういうことなのだ。そうまでして守るがゆえに、相手もうかつに手を出せない究極の抑止になる。国を守るのは、他人ごとではない。小国が大国に負けない理由は、大国にとっての覇権の戦争が小国にとっては主権と生存の戦争となるからであり、いかなる犠牲も厭わなくなるからである。
 それゆえ、中国に勝ちたい、あるいは負けたくないのであれば、生存の戦争に徹するべきであり、「アメリカの船を守る」というドグマに乗ってアメリカの覇権の戦争と一体化すべきではないのだ。
 国民の命は何より大切だ。それを犠牲にする戦争をするのであれば、勝てる戦争をしなければならない。それは、専守防衛の戦争、すなわち自国の生存に限定した戦争である。そして、犠牲を許す価値がないと考えるもの…例えば、無人の岩礁や国の威信といったもの…のために戦争するべきではない。

 一国のリーダーが、「アメリカと一体化すれば平和になる」などと本気で考えているとすれば、それこそ、国の存立を危うくし、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される存立危機事態と言わなければならない。

(柳澤 協二さん 1946年生まれ。東京大学法学部卒。防衛庁の運用局長、防衛研究所長などをへて、2004年から2009年まで内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)。現在、国際地政学研究所理事長、自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会代表。『検証 官邸のイラク戦争 元防衛官僚による批判と自省』(岩波書店)など著書多数。–編集部)

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