元代表世話人 吉元政矩さん逝く

広範な国民連合全国事務局

 広範な国民連合代表世話人を務められた吉元政矩さんが1月29日に88歳で逝去した。
 吉元さんはわが国最西端の与那国町出身。米軍統治下の沖縄で気象台職員からスタートし1963年、吉元さんは20代で沖縄県祖国復帰協議会の事務局長となり復帰運動をリード。69年に琉球政府職員で組織する沖縄官公庁労働組合の書記長、県職労執行委員長、県労協事務局長などを歴任。90年革新県政大田昌秀知事の実現に尽力し、同年県政策調整監、93年に県副知事就任、97年まで務めた。政府との対話の場として沖縄米軍基地問題協議会、沖縄政策協議会の設置を実現した。退任後、県地方自治研究センター理事長、沖縄21戦略フォーラム代表を務めた。
 2003年、広範な国民連合代表世話人に就任し、運動の発展に多大な貢献をされた。病が重くなり、「動けないのに名誉職は嫌だ」と20年第24回全国総会で退任された。
 それでも折々に貴重なアドバイスを頂いていた。沖縄戦終結、米軍占領から80年、米軍基地撤去、国際交流平和都市沖縄の実現が迫られるこの年、吉元さんを失ったことは多大な損失であり残念でならない。ただただ遺志を継いで前進しますとお誓いします。

玉城デニー知事はじめ沖縄県各界から惜しむ声

 玉城デニー知事は2002年に沖縄市議会議員に当選して議員としての活動をスタートする前から吉元氏の勉強会などに参加し、当選後も吉元氏が開くアジアの国際情勢などについての勉強会に出席していた。知事は吉元政矩さんの訃報に接し次のように談話した。
 「知識も経験も非常に豊富で、若い人に求められても全然惜しまずに貴重な機会を作ってくれる方だった。『過去に学び、今を読み、将来を見通す。常にこの気持ちを持っていてください』という言葉が印象に残っている。過去は終わったことではなく、常に振り返って現在とどういうつながりがあるか、今はどういう状況でどこに行こうとしているのか、若い人が常にそういうことを考えることをやめないでほしいと言っていた。私自身の現在の考え方の一つの基にもしている」と話した。
 以下、地元2紙の二人の論説委員長の「悼む」論評(要旨)は、吉元さんの沖縄県にとっての功績を客観的に示しているであろう。

 「吉元氏が遺したのは何だったか。アジア太平洋地域の十字路と呼べる場に位置しながら沖縄戦と米統治、その後の基地重圧という苦難の歴史を歩んできた沖縄の可能性を県民に提示したことであろう。そして、県民の決断と意思によって沖縄の未来を切り開くことができることを身をもって示したことである。その根っこにあるのは自治・分権の理念である。私たちは自治・分権の理念に基づき、国と対峙し、自らの未来を切り開こうとした経験があることを忘れてはならない。今に生かすときである」(琉球新報論説委員長・小那覇安剛)
 「(副知事時代の米軍用地強制使用を巡る大田昌秀知事代理署名拒否では、そうしないと問題は日本全体まで広がらないと)政府を揺さぶり、基地問題の協議機関を設置させた。米軍基地をゼロにする基地返還アクションプログラムをつくり、返還後の沖縄を描く国際都市形成構想も打ち上げた。この仕事は県庁にとって、かつてない取り組みとなった。明確なビジョンを示し、実現を政府に迫るのが吉元流。どうすれば政治を動かすことができるかを考え続け、実践した存在感のある参謀だった」(沖縄タイムス論説委員長・森田美奈子)


追悼 吉元政矩さん

「基地なき沖縄」を求めた人

石川元平(広範な国民連合顧問、元沖縄県教職員組合委員長)

 沖縄県の元副知事で広範な国民連合代表世話人を務めた吉元政矩さんが亡くなった。
 吉元さんは1963年、若くして沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)の事務局長を務め、4月27日の辺戸岬における焚き火集会と翌28日(4・28)の北緯27度線上での初の海上集会を成功させた。
 県労協事務局長時代の87年6月には「人間の鎖」で嘉手納基地を包囲する大運動の仕掛け人にもなった。
 90年に大田昌秀革新知事が誕生すると、沖縄県の政策調整監、続いて93年には副知事に就任した。吉元さんが指揮して策定した「基地返還アクションプログラム」は、2015年までに3段階に分けて、軍事基地の全面返還を求めるもで、「国際都市形成構想」とともに、日米両政府に正式に提出された。この要求は、基地所在市町村の同意を取り付けたもので、軍事基地から脱却して沖縄の自治と平和を求める「基地のない沖縄」をアピールする壮大な構想であった。
 その後、保守県政に代わって宙に浮いた状態になったが、今でも沖縄県の「21世紀ビジョン」に生かされている。
 吉元さんの足跡を偲ぶ時、沖縄はアジア・太平洋のアジマー(十字路)に位置しながら、県民の意に反して軍事の「要塞」にさせられてきた現実を強く意識せざるを得ない。この日米の抑圧から脱却して「沖縄のことはウチナーンチュが決める」という気概を吉元さんの足跡から強く感じる。
 吉元さんが「基地なき沖縄」を求め実践しようとしたその生きざまが、沖縄の未来を拓く道標になることを願っている。


追悼 吉元政矩さん

吉元政矩さんを偲んで

田里千代基(与那国町議会議員)

 郷里の大先輩・吉元政矩さんとの出会いは、私の人生を三六〇度一転させた。吉元さんは、自らの全ての構想(ビジョン)の土台は与那国にあると話していた。常に島の将来を考え、将来の子どもたちにどのような与那国を残していくのかを問うていた。
 「過去を見て現在を読んで将来を見通す」視点・視座は、吉元さんの特技ともいえるものだった。問題はすぐ解決しなければならないものと時間をかけて解決するものに分類し、取り組み姿勢は「しなやかに、ひらめきをもって、したたかに」であった。
 このような吉元政矩さんをわれわれは島の大統領と呼び、政治の予報官とも言った。吉元さんからの教示は、その後、筆者の人生の「ものさし」となった。
 吉元政矩さんの生誕地・与那国には、女傑サンアイ・イソバの伝説が伝わる。15~16世紀に与那国を統治した女性酋長である。尊敬してやまない吉元さんにはそのようなイソバの血が受け継がれているように感じることがあった。正義感と包容力を持ち戦略家であったというのが、私がそばで見ていて感じた吉元像である。
 吉元さんの凄いところをひと言で表すとすれば、それは俯瞰的な視点から先を見通す眼を持っていたことである。世界を知り、東アジアを知り、日本を知り、沖縄を知り、そして自分を知るという「ものの見方」がしっかりと身についていた方であった。
 これは、若かりし頃の気象台職員として自然と身についた「ものの見方」であったろうと推察できる。広大な大気の渦の中で明日、明後日の局地的な気象状況を予測・予報するという作業を、毎日、こなしていたのだから。このようなものの見方は、労働運動の中でますます磨きがかかったように思える。
 そのような俯瞰的なものの見方が、副知事という行政の仕掛け人となった後は、戦略的な実践となって結実する。常に言っておられたのは、本質を見極める眼と解決へ向けた行動が必要だということであった。
 20年以上たった今でも、吉元さんといえば、誰もが語る「国際都市形成構想」と「基地返還アクションプログラム」の企画立案者であるが、この21世紀へ向けた沖縄のグランドデザインが実を結んでいれば、いまや沖縄は日本、東アジア、世界に冠たる「平和・共生・自立」のアイランドに生まれ変わっていたであろう。
 なぜそのような独創的な構想が実現できなかったのか? それは、沖縄のことは沖縄が決めるということが県民、行政、議会で共有できていなかったことにあると見るのは短絡的であろうか。しかし、吉元さんは愚痴一つ言うことはなかった。まさに聖人のようであった。第二の吉元政矩の出現を待ちたい。
 話を与那国に戻そう。過去において与那国には繁栄の時代があった。現在は衰退しており、今後はどうなるのか。与那国は、1万2000人もの人口を擁して復興・繁栄していた時期があった。なぜそのようなことが可能だったのか。それは、台湾の経済圏に与那国の生活圏が一体となっていたからだ。
 吉元さんの主張は、新たな交通はその地域の魅力と経済力を高める、であればその再構築をしようではないか、ということであった。これが「与那国・自立へのビジョン 自立・自治・共生 ~アジアと結ぶ国境の島YONAGUNI~」として結実した。
 これは吉元さんが描いた「国際都市形成構想」とも重なる素晴らしいビジョンであった。残念ながら、二つのビジョンは時の政権の狭間で翻弄され実現されなかったが、平成の大合併と島の存亡に光を当てた知的財産をそのまま埋もれさせてはならない。
 ロシアのウクライナ侵攻等により、アジアの安全保障への不安がひろがっている今こそ、吉元構想の実現が求められているのだ!
 筆者は、今後、「与那国・自立へのビジョン」をしなやかに、ひらめきをもって、したたかに推動して実現し、吉元大統領の霊前に報告できるよう捲土重来を期すことをここに誓う。(合掌)

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