新春メッセージ  髙良 鉄美

新春メッセージ

戦後80年、「現在および将来の国民」の責任

沖縄社会大衆党委員長・参議院議員 髙良 鉄美

 新年明けまして、おめでとうございます。今年も日本の進路をしっかりと見つめながら、実(巳)のある活動をされることと期待しております。巳年の意味は、長く隠されてきたものが露呈したことによって、劇的な変化が起きる年になるということのようです。沖縄に関連して、密約がよく話題になりますが、果たして、この巳年、どのような政府の行為、秘密が、明るみになるのでしょうか?

1日でも早く戦争が
終わっておれば

 周知のように、今年で戦後80年を迎えます。これは、ただ数字を重ねた80年ではなく、1年でも早く戦争が終わっていれば、どれだけ犠牲は減少したであろうか、という、現にある国際紛争に対する問題提起の数字でもあるということです。もしそうしたら…という仮定ではなく、政治的に終戦あるいは停戦可能な状況にあるにもかかわらず、戦争を継続させているのは、戦争そのものに、構造的欠陥があることを露呈したともいえます。
 79年前、太平洋戦争末期に南の島々で日米軍は死闘を繰り広げました。米軍は圧倒的優勢な戦力で、日本本土へ向けて島伝いに北上しました。この南の島々には多くの日本人が住んでいましたが、特に沖縄出身者はその大半を占めていました。
 1944年7月7日、サイパンが陥落し、「サイパンの次は沖縄だ」と目され、大きな衝撃が住民の間で広がっていました。サイパン、テニアン、パラオ諸島等、いわゆる南洋群島からの沖縄への疎開船は多くが撃沈されました。8月22日に米軍の潜水艦ボーフィン号(ちなみにハワイのパールハーバーでは海軍の英雄として展示されていますが、子どもの乗った疎開船をずっと追いかけて撃沈した潜水艦だと、米国人が知ったら驚くでしょう)の魚雷攻撃によって沈没した学童疎開船「対馬丸」をはじめ、米軍艦船の攻撃によって沈められた沖縄関係の船は26隻、犠牲者は4500人超となっています。

政府の行為によって命を奪われた犠牲者のための「平和の礎」

 沖縄には、国籍や軍民の区別なく、沖縄戦などの犠牲となった者の名前を刻んである「平和の礎」という祈念碑があります。一般に沖縄戦とは、米軍が慶良間諸島に上陸した45年3月26日から沖縄戦降伏文書調印の9月7日まで行われた地上戦を指します。この期間に沖縄戦で亡くなった人は国籍を問わず、平和の礎に刻銘されるわけです。それでは、対馬丸など疎開船の犠牲者は、どうなるのでしょうか? 沖縄出身者は、柳条湖事件(31年9月18日)に始まる15年戦争の期間中に、県内外において戦争が原因で死亡した者として、刻銘されています。44年10月10日の奄美および宮古、石垣を含む沖縄、南西諸島の大空襲の犠牲者も平和の礎に刻銘されるのです。沖縄守備軍第32軍が創設された44年3月22日から45年9月7日までの間に、南西諸島周辺において、沖縄戦に関連する作戦や戦闘が原因で死亡した人、例えば、戦艦大和の乗員(45年4月7日撃沈)や神風特攻隊の隊員(44年10月20日から45年8月15日)も含まれることになります。
 米軍、旧日本軍、朝鮮半島出身者、台湾出身者など国籍に関係なく、また兵士や一般住民の区別なく、いずれの個人も戦争という政府の行為によって命を奪われた犠牲者であるという位置づけがなされているのです。
 戦後50年の95年に平和の礎が設置されたときには、一部朝鮮半島出身者から、なぜ強制連行された犠牲者が、いわば加害者である日本の軍人と一緒に刻銘されなければならないのかという不満がありました。長年にわたる丁寧な説明と説得によって朝鮮半島出身者の刻銘数は年々増えています。
 また、逆に、米軍人関係者からは、同じく沖縄戦で闘って、日本の軍人だけが刻銘されるのは不平等ではないのかという意見がありました。沖縄県民の意見はというと、「集団自決」など旧日本軍からの軍命や強制による犠牲がありながらも、また、米軍の攻撃による犠牲もありながら、不思議なことに誰一人として、米兵や旧日本兵と共に刻銘されることに抗議した者はいませんでした。
 ところで80年前の45年に入っても、日本の戦況は勝つ見込みはありませんでした。毎日のように空襲があり、国民が「恐怖と欠乏」にさらされているのは誰の目にも明らかでした。

幾つもあった戦争を
終わらせるチャンス

 戦争を終わらせる第1のチャンスは、2月14日でした。当時の重鎮、近衛文麿が天皇に講和を上奏しましたが、受け入れられませんでした。理由は、①日独伊三国同盟で日本の単独講和は許されないこと、②あと一戦果をあげると講和が有利に進められること、③軍部の士気が高いこと、でした。しかし、その5日後に起こったことは、36日間にわたる硫黄島の激戦で日本兵2万人が戦死したことでした(米兵7千人)。さらに3月10日の東京大空襲での死者は10万人ともいわれています。東京は敗戦までになんと106回もの空襲を受けています。東京のほか、大阪、名古屋、神戸、川崎、仙台、福岡など大都市のほか中小都市も数多く空襲を受け、数十万人が死亡したのです。
 3月26日の慶良間上陸から沖縄戦も始まりました。第2の戦争終結チャンスは沖縄戦の最中でした。5月8日のドイツの降伏により、ヨーロッパでの連合国の勝利となりました。米国のトゥルーマン大統領は「日本国民に対する声明 」で降伏を打診しますが、日本政府は戦争に邁進する旨の意思を示しました。同声明では日本国民の意思は政府とは区別されていました。「政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言」するという憲法前文は歴史の真理があるといえます。その後は三国同盟の消滅にもかかわらず、日本のみの単独戦争になっていきます。この5月8日の時点では、首里司令部の陥落もありませんでした。その後の沖縄戦の末期に向けた悲惨な状況を避けられたのなら、どれだけの命が救われたでしょうか。
 3つめの戦争終結チャンスは、7月26日のポツダム宣言でした。翌27日、軍部の「宣言無視」の声に押され、鈴木貫太郎首相は、「黙殺」としました。これが拒否と一部報道で訳され、10日前に世界初の核実験に成功した米国にとって、この日本への降伏最終通告の拒否は核兵器使用の口実にもなりました。45年には地球上に3個しかなかった核兵器は1つが、米国の砂漠の核実験で使用され、残りの2つが8月6日と9日にヒロシマ、ナガサキに投下されました。結局ポツダム宣言は8月14日に受諾されたのです。
 主権者の意思決定には知る権利が必要不可欠です。戦後80年、第2次大戦で亡くなられた日本の兵士230万人と民間人80万人。この人たちが死を免れ、平和のうちに生存しておれば現在4世代も5世代も日本の未来に向けた主権者行動をしていたことでしょう。「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、…現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(憲法97条)。
 これが世界規模では20世紀の戦争犠牲者は1億を超えています。ウクライナ、中東をはじめとする戦禍の現状を私たちはどう見(巳)なければならないでしょうか。

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