自らの住まう地域に
自らが責任を持つ当事者意識が大事
宮城大学特任助教・陸上自衛隊予備自衛官補 阿部 晃成
2011年3月11日の東日本大震災で一晩の漂流を経験した私は、津波によって壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市雄勝町の復興に当事者として関わってきました。復興まちづくり協議会への参加や、雄勝町の雄勝地区を考える会といった自治組織も運営しました。実際に進められた被災者の多くが故郷を離れざるを得なくなる〝災害危険区域〟の指定や、3階建てのビルより高い9・7mの巨大防潮堤などの復興計画に対して、現地再建や原型復旧といった対案を示しました。しかし、結局のところ石巻市は被災者の意向を丁寧に聞くことなく、トップダウンの復興計画を実行してしまいます。
その結果、発災から13年が経過した現状がどうなっているかといえば、震災前4400人だった人口は1100人にまで激減しました。各集落の多くのお祭りも途絶えてしまい、震災以前のにぎわいは失われました。
石巻市は、雄勝地区の人口が今後10年間でさらに減少し、250人程度になるのではないかと想定しています。東日本大震災から莫大な予算を投じて復興事業を行ったはずなのに、人口が二十数年で5%まで減ってしまう壊滅的な状況。これはもはや〝復興〟と呼べるものではありません。これが東日本大震災の被災地の一例です。
「孤立集落」に半分
住み込んで
私はそうした雄勝町の復興に当事者として関わってきましたが、24年1月1日の能登半島地震の発災後は、現地に半分住み込みながら被災集落への伴走支援をさせていただいています。主に入っているのは輪島市深見町や輪島市町野町金蔵区など、地震の被害によって道路などのインフラが途絶し〝孤立集落〟と呼ばれた地域です。
こうした集落は災害関連死発生の強い懸念などから、孤立している現地からインフラなどの被害が少なかった金沢市以南の公共施設やホテル・旅館などへ、広域に避難が行われました。その避難の仕方は多様で、自衛隊のヘリコプターによって集落の住民丸ごと一箇所の温泉街に避難する場合もあれば、なんとか仮復旧した道路を使って自家用車で個別世帯ごとにばらばらに避難する場合もありました。結果として広域に散らばって避難した集落では、震災以前の地域コミュニティーが持っていた住民同士の情報共有や集落としての意思決定といった自治機能が大きく損なわれることとなりました。
こうした自治の損失は能登半島地震の被災地だけでなく、東日本大震災の被災地でも発生していました。雄勝町では、630世帯のうち600世帯が家を失い広域避難を迫られ、震災前は当たり前にできていた回覧板や、数カ月ごとの出席世帯数8割以上の総会も、年に数度のお祭りも開くことができなくなりました。私を含む住民有志で結成した「雄勝町の雄勝地区を考える会」が復興事業の情報を被災世帯に送ろうとした際も、630世帯中480世帯にしか届けることができませんでした。
「自治損失」復興に致命的
自治の損失はその後の復興に致命的な影響を与えます。
震災後、被災自治体には震災以前の5倍10倍にも増えるとされる業務量を抱えながら、「早い復興」を進めるという重い責務が発生します。そうした状況で被災自治体の打てる手は、多くの場合で復興計画の「型」を用意して地域に当てはめていくトップダウン型の復興しかありません。それは自治が失われた集落では、被災者が連絡を取り合い、集まって話すことができないので、被災者発の実情に即したボトムアップ型の復興は生まれてこないためであり、自らで自らのことを決められない状態にある被災者やメディアからの「早い復興」への圧力があるからです。
トップダウンの「型」に合っている地域は良いですが、同じ型を押し続ければ間違いなく実情に合わない地域も生まれてしまいます。特に平成の大合併で数合わせの合併をした市町はそうなりやすいでしょう。そうした型に合わない地域に対して、十分に人手をかけて対話する場を設け、型を修正することできればよいですが…。被災市町ではその人的・時間的余裕がないために修正も容易でありません。こういった理由で復興の型を無理やり押し付けた結果が、雄勝町の悲惨な復興につながりました。
自治復興の伴走支援
こうした経験を踏まえて私が能登半島地震の被災地で行っている活動は、地域コミュニティーに対する自治の伴走支援です。具体的な活動は、①自治会単位での連絡網づくり、②自治会による地域新聞づくり、③集落の被災世帯の被災住宅地図づくり、④災害公営住宅団地の計画づくりなどです。
①連絡網は、広域避難によってばらばらになった住民同士が連絡を取るための基盤整備であり、②地域新聞は連絡網を生かして被災者間の情報格差を埋めるためのシステムです。地域新聞に載せる情報については、その地域の被災者自身が欲しいと思っていることを被災者自身に書いてもらい、行政の出す市報なども同封して届けます。
それと並行して行うのが被災住宅地図の作成で、一般的な住宅地図の上に一部損壊や全壊などの住宅の罹災判定の程度や、現在も住んでいるか、要支援者であるかどうかなどを書き込んだものです。この地図をさまざまな専門性を持つ支援団体が共有すると、集落の単位で支援団体がそれぞれ持つ特有の視点から専門的な支援を受けられるようになります。
これらの連絡網や被災状況などについては、石川県が被災者のデータベースを作っているのだから不要ではないか?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、残念ながら被災者捕捉率93%とされるデータベースは、個人情報の固まりのため被災した集落や、私のような外部支援者には共有されないため、実際の被災者支援につなぐことができないのです。
住む地域に自ら責任を持つ
そうした情報共有と発信、実際の生活改善を被災者自らの活動と意思によって進めることで、被災者の復興に対する意欲は高まり、集落の自治機能は徐々に回復してきます。ある程度、自治機能が回復した地域は、次のステップである災害公営住宅団地の計画づくりに入ります。それはその地に暮らしてきた被災者自身がつくり上げる、地域の実情に合った生活再建への道筋であり、ボトムアップ型の復興になります。
そうしてつくり上げる被災者発の復興が、被災地の未来を約束するとは必ずしも言えません。しかし、被災者が自ら望んだ復興であれば、その結果がどうであれ被災者自身が責任を持てます。自らの住まう地域に自らが責任を持つ。その当事者意識こそが、復興後の次の一手を生み出す原動力につながるはずです。
能登半島地震からの復興は、今後の日本社会の大きな分水嶺になるのでしょう。少子高齢化が進んでいる過疎地域が災害以前に素晴らしいまちづくりを行っていたとしても、災害によって大きな被害を受ければ集約や統合という掛け声のもとで地域が放棄される社会になるのか。震災を機に被災者自身が自らの持つ資源を見つめ直し、外部からの多様な人々を受け入れながら、自らの生活再建と地域の未来の再構築へと挑戦する社会となるのか。日々、地域・地元で頑張っている皆さまにおいては、皆さまの地域の未来のためにも能登への興味関心を継続していってほしいと思います。
(タイトル含め見出しは編集部)