永続敗戦レジームと改憲問題

2016-shinroRogo

白井 聡(京都精華大学人文学部)

 広範な国民連合・大阪が、5月25日、白井聡さんの「永続敗戦レジームと改憲問題」と題する講演会を開催した。本稿は編集部が、その講演から憲法問題の部分だけを取り出したものである。安倍政権は、秋の臨時国会にも「改憲案」を上程すると、異常なまでの前のめりである。9条改憲を阻止しなくてはならない。白井さんは講演の中で、改憲に反対する運動を発展させる重要な問題提起をしている。改憲を阻止する壮大な戦線を形成するうえで重要な意義をもつであろう。(見出しも含めて文責編集部)

 改憲問題が本格化しているが、これは安倍さんが執念を燃やしてきた課題です。ともかく、安倍さんに改憲などさせては絶対にならないと強く思っています。皆さんも同じだと思います。
 他方で、いまの憲法と現実に矛盾はやはりある。憲法を素直に読めば、一切の軍事力を持てないはずなのに、自衛隊はすごい武器を持っていますから、事実上の軍事力です。ですから「なぜ自衛隊を持てるのか」についての政府の公式見解はやはりまどろっこしいものになる。自衛隊の法的ステータスが脆弱と言わざるを得ない。しかも自衛隊の活動範囲はどんどん広がってきてしまった。南スーダンはようやく撤収ですが。法と現実との乖離が大きくなっているわけです。これを何とかしなくてはならないことは間違いない。

日本社会党的な護憲論の歴史的限界

 では、憲法を守りたいという勢力が、この現実と法との乖離という問題にどのように取り組むのか。いまから考えておかないといけない。
 なぜか。われわれは、悪い経験を知っています。それは、日本社会党です。社会党は長年、自衛隊は憲法違反であると言ってきた。しかし、自衛隊は現実に確固たる存在になってしまった。そういう現実に対し、社会党は「違憲だけど合法的存在だ」と、訳の分からない理屈を考え出したこともあった。論理的には体をなしていない。そして、1990年代に村山内閣で社会党は政権に参画しました。つまり、社会党のトップが、自ら長年違憲だと追求してきた組織のトップになるという状況が起きた。その時にすべてを追認したわけです。自衛隊の存在を追認し、日米安保体制を追認し、全部、現状肯定した。当然、つじつまが合うわけがない。
 で、社会党はどうなったか。あれだけ大きな政党で多くの国会議員を有していた社会党は、いまや「風前のともしび」です。この中に関係者がおられるかもしれませんが、衰退したのは事実ですから指摘しておきます。これは権力を取る準備が全くできていなかったということですね。現実的に政権を取ろうとすれば、憲法と自衛隊の整合性をどうとるのかを具体的に準備していなければおかしいですね。用意がなかったからああいうことになった。

 私たちが打ち倒すべきものは何か。これははっきりしている。腐敗の極みにある自公政権です。国民連合が主張する「自主・平和・民主」の政権を実現する政治勢力が、それに取って代わることが重要です。それは何党でもいいんです。このスローガンをきちんと体現する勢力が権力を取ることが大事であって、私たちは活動を通じてその勢力を支えていけると思います。そのためにも、権力を取った時にどうするかということを想定しておかなくてはならない。憲法問題は、そうした想定の筆頭に数えられる。

何故に「永続敗戦論」を提起したのか-71年間敗戦し続けている!

 私は、元々政治思想の研究者だったんですが、『永続敗戦』という本を書きました。なぜ、この奇妙な言葉を思いついたのか。民主党政権成立によって政権交代しましたが、鳩山さんが普天間基地問題でつまずいて総理を辞める。菅政権から野田政権になっていくが、自民党野田派とまで言われた。要はたいして変わらない。だったら、最初から自民党でいいじゃないかと、自民党政権が復活した。
 明らかになったのは、建前の上では、選挙で政権交代は可能ですが、実質的には政権交代は不可能だということです。こうした現実が明らかになった。この厳しい現実を一番鮮やかに示したのが、鳩山退陣劇です。あれはどういうことだったのか。
 普天間基地の移設先について、「最低でも県外」を実質的な公約として掲げて選挙に勝った。そこでそれを実現しようとしたが、米国から見れば約束違反だということになる。つまり、日本国民が示した意思と米国の国家意思とが衝突した。日本の首相としては、どっちかを取り、どっちかを捨てざるを得ない。そのとき取ったのは米国の意思だった。そのことの責任を取って辞任をする。これが「鳩山退陣劇」の本質ではないか。要するに米国に負けたということですよね。
 だから日本国民には非常に厳しい状況があらわになった。日本は民主主義国家で主権国家である。主権者の意思は民主主義的なプロセスを経て実現できるという建前になっている。しかし、ある領域の問題では、日本国民の意思は貫けない、大きく制限を受けている現実が明らかになった。
 私は、鳩山退陣劇の数カ月後に、あれは何だったんだろうかと考える時間を持って、ハッと気づきました。米国に負けたんじゃないのかと。米国の、わが国の国土使用の要求に対し国民の意思を示したら、「そんなのダメだ」ということで首相がクビになった。主権国家としてきわめて屈辱的な負けです。ところが、それを誰も言わない。
 そこで気づいたんです、これは8月15日と同じだと。8月15日は「終戦の日」と呼ばれていますが、おかしいですよね。戦争が自然に終わるわけじゃありませんから、本来、「敗戦の日」です。ところが、ほとんどの人が疑問を持たない。負けがごまかされています。「鳩山退陣劇」も同じじゃないか。
 負けをごまかすのが日本の政治や社会に悪い影響を及ぼしていると感づいたときに、3・11に遭遇しました。身近に原子力過酷事故が発生するなんて初めての体験でしたが、同時に、これは見たことがあるとも感じました。あの戦争の時の日本と全く同じだ、と感じたのです。「健康に直ちに影響はない」というフレーズがありましたが、「焼夷弾が降ってきても問題はない。シャベルで掃き出してしまえばよい」と言っていたことを思い出させます。
 つまり、戦後日本人は、「あの戦争への後悔と反省」を繰り返し口にしてきましたけれど、それは全部まやかしだった。その証拠に、私たちは何も変わっていない。なぜ、こんなに無反省でいられるのか。それはきっと、負けたと認めていない、負けをごまかしてきたからなのだ、ということに気づかされました。あの戦争に負けていないのだとすれば、誰も責任を取る必要もないし、反省する必要もない。自己変革する必要もない。ゆえに、あの戦争を招いた体質が温存され、新たに敗北を招き寄せる。つまり、延々と負け続けることになる。これが「永続敗戦」の意味です。
 なぜ、こんな奇怪なる現実が生まれたのか。しかもそれは、ある時期まではそれなりにうまく回っていたことも事実なのです。これらの事情はややこしいのですが、始まりは割と簡単です。戦争責任の問題。これを消去したかった。

米国の冷戦政策と日本支配の必要性でつくり出された

 日米の支配層にとって、消去する必要があったのです。米国は日本を倒して子分にした。米国は、朝鮮戦争など東西冷戦が厳しくなっていく中で、戦後日本の支配者として、旧保守層を使うようになった。岸信介に代表されるような旧ファシストです。本来なら、この人たちはあの戦争に責任があるわけですから、「なんでこいつらがまた偉そうにしているんだ」となりかねないわけです。そうならないために、この人たちの責任があいまいにされなければならなかった。米国の意思によってこの人たちは免責され復権する。日本の対米従属体制のゆがみの起源はここにある。米国のおかげでこの連中の首がつながって、岸などは総理大臣にまでなってしまう。彼らが米国様に対して頭が上がるわけがありません。
 ただし、彼らには面従腹背の側面もあります。米国からより多くを引き出して国を復興させようという側面もなかったわけではない。事実、こうして再建された保守勢力支配の下で、復興から高度成長、そして経済大国となりました。70年、80年代と日本の生活水準はソ連や中国を大きくしのぐ。そうなると、どっちが勝戦国か敗戦国か分からない状況になってくる。
 ほかにも永続敗戦レジームを成り立たしめた重要な要因はいくつかあって、全部は説明できませんが、大事なのは、すべて冷戦構造を前提にしていた、ということです。東西対立の中で、日本は大変絶妙な位置を占めた。アジアにおける冷戦の前線に位置しているから、米国は日本を助けなければならない。しかし、前線だが、最前線ではないので、左翼も存在を許されて議会制民主主義ごっこくらいは成り立った。非常にうまい立ち位置なんです。
 例外は沖縄です。沖縄だけは、本当の最前線に置かれた。そのため全く違う歴史をたどる。現在、沖縄は本土と心が離れつつあるわけですが、その原因は、歩んできた道、冷戦の最前線とそうでないところの違いがある。
 戦後の日本が「平和と繁栄」の時代と言われたのは、敗戦を否認できたことの裏返しです。しかし、その代償として非常にゆがんだ対米従属をすることになった。
 それは厄介な二面性を持ち込みました。米国に対しては無限に敗戦の帰結を認めている一方、おれたちは負けていないと思っている。安倍やその先輩たちは、米国には卑屈なほど従属する一方で、そのストレスをアジア諸国にぶつける。その代表が歴史修正主義的な言動です。当然それは、近隣諸国との緊張関係をもたらす。だから、日本は東アジアで孤立感がある。地域で孤立しているだけに、米国とはますます親密でなければならない。親密といっても対等ではないので、より従属を深めることとなる。そうなると、ますます「何だ、あいつは、虎の威を借りるキツネだ」と評価されて一層孤立する。このように孤立と従属が相互循環する構造になる。
 よくもこんなバカバカしい状況を続けてきたものです。「おれたちは負けていない」と本気で言いたいなら、サンフランシスコ講和条約を破棄し、東京裁判はインチキだと宣言し、ポツダム宣言受諾を撤回して、もう1回戦争し今度は勝つと、ここまでやれば敗戦を否認できます。保守派や右翼の人たちがこう主張するならば、賛成はしないが筋は通っていると認めます。しかし、彼らは決してそう言わない。親米保守ですから、彼らの保守主義なるものは米国の許容する範囲のものにすぎない。
 おかしな体制が成立するには二つの条件があった。一つは冷戦構造。二つ目は、日本の国力のアジアにおける突出性です。アジアで傲慢な態度を取っても、カネの力で相手を黙らせることができた。しかし、いまやこの二つの条件は消滅しました。
 対米従属している合理的理由はもはや存在しないのだから、現在の対米従属は、自己目的化しています。対米従属政権を維持するための従属です。条件としての冷戦構造は、とっくに消滅しました。アジアには変な形で残っていますが、世界では消滅している。2番目のアジアで日本の国力が突出している状態もかなり相対化された。
 こう考えれば、90年前後に戦後は実質的に終わっていた。だから変わらなきゃいけないということで、政界再編などいろいろありましたが、結局、対米従属が病的なまでに強化された政治が成り立っている。だから私は「永続敗戦レジーム」と言っている。それは、冷戦に支えられてきたが、もう柱は抜けている。柱が抜けて25年ぐらいたっている。安倍政権とは、柱の抜けた家を無限に立てておこうとしている。そう見れば、安倍政権の政策はすべて読み解けると思います。

本当の「戦後レジームからの脱却」を

 私に言わせれば、安倍晋三のスローガン、「戦後レジームからの脱却」は、それが本物ならば、やってほしい。しかし、安倍政権の実質は「戦後レジームからの脱却」ではなく、永続敗戦レジームとしての戦後レジームを何が何でも守ろう、あらゆる手段を使って守るということです。だから彼の軍事への傾倒も、レジームを維持するためのものです。しかし、柱が抜けているので維持は難しくなっている。だから政治手法は、どんどん強引になるのです。最たるものが集団的自衛権の行使容認だった。あれは、大きな原則の変更ですから、事実上、改憲したのに等しい。では、事実上の改憲をどこでやったのか。閣議決定です。独裁的手法ですね。そこまでの強硬策を取らないとレジームを維持できない。
 しかし、これはそう遠くない時期に崩れます。だってもう柱が抜けていますから。私が文句をつけようがつけまいが、そうならざるを得ない。問題は、それがハードランディングかソフトランディングかです。ハードランディングとは、経済的破綻とか、戦争とか、激変を通した清算です。安倍政権が続いている限り、矛盾がますます集積するから、ハードランディングしかできなくなるでしょう。何とか、いま私たちがこの流れを食い止めれば、ソフトランディングできるかもしれない。
 改憲の道筋について、安倍さんはブレまくっています。それは追い込まれているからです。しかも2020年までと区切り、施行すると宣言した。そうなるとスケジュールは限定されますから、これは自分の首に縄を巻いたようなものです。右往左往しているのは安倍の方で、そう簡単には変えられないという現実に直面し、焦りまくっているとも言える。

憲法問題の本当の問題が始まる―「二重の法体系」が問題

 だから、われわれがうまく突けば崩すことができる。その時に本当の問題が始まると思います。
 本当の問題とは、戦後の憲法体制の本質です。「二重の法体系」という議論があります。日本の法体系は二重化されている。表面上は日本国憲法が最高法規だが日米安保条約はその上位にあり、事実上の最高法規として機能している。本来、国内法と国際条約は矛盾があってはならないのに矛盾が発生します。具体的には、人権侵害などの米軍の行動があるときに、日本国憲法とその下の法体系と米軍はどちらが優先されるのかという場面で、この矛盾は表面化します。
この状態を解消しなければ、護憲とか改憲と言っても始まらないのです。この状態がある限り、日本国憲法にどんな立派なことが書いてあっても、決定的な場面では効力がない、意味がないということです。だからこの状態を解消してはじめて、憲法をどうする、変える必要があるとか、このままでいくべきだと論じることができるのです。それは、この二重の法体系に依拠している権力を解消するということであり、制憲権力を獲得することなんです。制憲権力とは憲法制定権力の略ですが、安保体制では、国民からそれが奪われているということです。
 しかも自発的に放棄している。例えば、等しく敗戦国であるドイツと日本を比べてみると、どちらも広大な米軍基地を抱えている。じゃあドイツは日本のように米国に従属していますか? していない。物申すときは申している。対等な関係として付き合っている。日本はどうかというと、主権を自発的に米国に渡すことで地位を保全している連中が、権力を独占している。安保マフィア、対米従属利権屋などが政官財学メディア全体にはびこっている。その頭目が安倍さんです。この連中を一掃してはじめて、「二重の法体系」を解消しようという動きが本格的に出てくる。
 鳩山元首相は、その認識、準備がないままこの闘いに踏み込んで地雷を踏んでしまった。鳩山氏を打ち負かした構造を克服した時にはじめて、自己決定できる力を得ることになる。本当の意味で憲法を定めることができる。
 いままで護憲か改憲かと議論がされてきた。しかし、変える変えない以前に日本には憲法と呼ぶに値する法体系があるのか、本当はないじゃないか、という問題が覆い隠されてきた。「二重の法体系」論に立つと、護憲か改憲かは、ニセの問題だ。憲法がないということは同時に、憲法を制定し維持する力を有する主体もない、ということだ。だから、憲法論争は「制憲権力」の問題を覆い隠してきた。制憲権力とは、憲法を制定する力である。憲法とは、権力への制約である。権力を制約するものをつくり出す権力です。だからそれ自身は、無制約なものだから、制憲権力は、革命の権力と同じです。
 ここに問題があると分かると、「押しつけ憲法論」はバカだと思っても、あなどれない強さがある理由も分かると思います。「押しつけ憲法論」を言う人の大半は、救いがたいほどバカです。しかし、例えば櫻井よし子が「押しつけ憲法改正!」と言えば、アピール力があるんです。彼らの訴えの動機はまさに「敗戦の否認」そのものなんですが、それでも「外国人から押しつけられた憲法じゃダメだ」という訴えは制憲権力の問題を突いています。確かに、戦後憲法が出来上がっていく過程において、制憲権力はどこにあったかという点から考えると、日本国民になかったというのは事実なんです。国民主権と書いてあっても、権力は連合国軍総司令部(GHQ)にあった。「押しつけ憲法論」は、素朴だけども護憲派が触れない制憲権力の問題に触れているので強いのです。
 護憲派は、「確かに押しつけられたかもしれないが、中身がよいからいいじゃないか」とか、「平和条項を発案したのは幣原喜重郎だから押しつけじゃない」などと反論してきましたが、問題はそういうことではない。憲法を制定する政治的主体の問題なのです。

憲法9条の両側面

 今後どうすべきか。憲法9条は高いレベルで考える必要がある。
 実りある論争をするには、いわゆる護憲派の人びとがパワーアップしなくてはいけない。憲法がどうやって生まれたのか、知らなくてはならない。また、9条について褒めるだけではなく、これでよいのかという問いも必要です。とてつもない代償を払って手に入れたという感情には一理あるが、それは日本人という立場からはそう見えるということでしかない。日本から侵略された国々の人たちは、あれだけ攻撃的な戦略をとっていた国が突然「世界史のトップランナーとなって戦争は一切やめます」などと言い出したのを見て、どう思ったでしょうか。あいつらは負けたから、「戦争は絶対悪だ」などと言っている、と感じたでしょう。
米国から見ればどうか。それは日本を属国化することと関係していた。日本に軍事力を持たせない、無力化するためだった。そして、朝鮮戦争が勃発し、米国は再武装を命じてくる。米国は、新憲法によって日本に武装を禁じたのに、今度は再武装を求めた。だから最初に憲法違反をやったのは米国である。吉田茂は米国から強大な軍隊をつくれと言われたが、のらりくらりとかわした結果、「吉田ドクトリン」の軽武装・経済重視路線となった。だから9条と現実の齟齬は朝鮮戦争に起源があります。そして冷戦崩壊後は国連中心主義が言われてきた。しかし、国連中心主義はブッシュ・ジュニアの政策で「蒸発」してしまう。そういう中でPKO活動の中身も変わってきている。「ルワンダの虐殺」をPKO部隊は傍観するしかなかった。かつては停戦監視だったのが、いまは武装している勢力をやっつけていくという方針に変わってきた。
 南スーダンへの派遣が非常に問題があるというのは、武力行使をしなければならなくなる蓋然性の高いところへ、武力行使の法的基礎が脆弱なまま送られている。その矛盾は、現地の自衛官に押しつけています。

安倍らを葬って本当の自立的な憲法論議を

 そういう中で「平和のための新9条論」という主張も出ている。
 9条には1項と2項があるが、1項は戦争放棄という理念をうたっているだけです。日本だけでなく世界のほぼすべての国が建前としては戦争をやっちゃいけないと言っています。自民党でさえ1項は残すと言っている。なぜなら1項は実質的な力がないからです。
 根本問題は第2項です。「交戦権の放棄」を記している。日本は戦争をしない、だから戦争をする能力である軍隊は持っていないとなっている。自衛隊は軍隊ではないとなっている。戦争をしないという建前ですから、戦争に関する法体系は日本の法律にはない。
 ところが、先ほど触れたPKO活動の問題が出てきており、また自衛隊の憲法上のステータスの問題があります。だから、2項を変えて自衛戦争に限って交戦権を認めようというのが「新9条論」です。個別的自衛権にのみ限定することで、自衛隊の活動範囲がなし崩し的に広がることを防げると考える人もいます。これは理屈として通っているかと言えば、通ってはいるでしょう。
 しかし、いまの状況では言うべき議論ではない。安倍さんは、何が何でも憲法を変えたい。だから、政治戦略としては護憲派に亀裂を走らせたい。護憲派が従来の立場と「新9条論」に分かれる可能性があり、そうなると思うツボです。
「新9条論」の問題提起は、大事なことを言っていますが、いまの政治状況では言うべきではない。いまの政治状況に区切りをつけた後、安倍さんをはじめとする政治勢力を葬った後に、本当の憲法の議論が始められますから、その時、「新9条論」も取り上げられるべきだと思います。
 今後、憲法論議がどうなるか。平和は大事ですが、そこだけでなく、素朴さからもう一歩グレードアップしてしっかりした政治的主張を組み立てる必要があります。

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