国、自治体は「平和的生存権」を保障する義務がある
鹿児島大学法文学部教授 伊藤 周平
第21回全国地方議員交流研修会第3分科会「公的責任で社会保障確立を 介護と医療」の助言者である伊藤周平さんをお招きしての第1回社会保障問題学習会での講義をまとめたものです。(文責編集部)
社会保障とは何か?
その役割と現状
まず、コロナの時の医療崩壊、命の選別という問題がありました。国民皆保険と言いつつ、医療が受けられない人がたくさん出てきた。しかしこの検証が十分行われていない。なぜ医療が受けられなかったのか、自宅で放置されたり、留め置き死という形で亡くなったりする人がたくさんあった。施設に入れない、入院できないまま高齢者が施設でたくさん亡くなった例も多くありました。
いわゆる感染症病床ってあるんですが、コロナ感染が始まる前の2019年に、全国で1840~70病床しかありませんでした。これではもう全然対応できない。1990年代はまだ1万病床近くあったんです。そこまでずっと減らしてきたんです。コロナなんてなかったみたいに何の検証もしないで忘却の彼方に葬り去ろうとしている。これではまた同じことが繰り返されます。
能登半島の地震でもそうです。災害関連死が非常に多い。日本の避難所、体育館でのごろ寝っていうのは、あの時真冬ですよ。百年前と何も変わっていない。
医療の補助が切られ、今回は高額療養費の上限の引き上げ、医療費の負担がどんどん増えています。医療では自己負担が増え、医療が受けられない人が増えている。医療費を抑制し病床を削減してきたことの反省や検証もしないということは、これからもさらに人が死ぬということです。国や自治体がちゃんと検証しなければいけないと思います。
もう一つの大きな問題は現在の物価高。国民の6割ぐらいが生活が苦しいと言ってます。年収300万円未満の家庭だと、子供の健康を維持するための食事が十分取れないと言われています。虐待、家庭内暴力、児童虐待も過去最多です。自殺も高止まりしています。コロナ前は2万人切っていたんですが、小中高生の自殺も過去最多になってます。不登校も過去最多です。子供たちがなんで自ら命を絶たなきゃいけないのか。
もっとすごいのは生活保護受給者が生活苦で自殺しているんです。生活が苦しいから生活保護を受けているのに、基準が引き下げられて非常に苦しい。生活困窮や貧困が拡大しているのに、生活保護バッシング、申請窓口での行政側の心ない対応もある。もう死んでも受けたくないという人がたくさんいらっしゃいます。
社会保障の相次ぐ削減、一方で保険料、自己負担は増加
今回参政党が「日本人ファースト」で台頭した。国民民主党もひどいなと思っていたんですけど、もっとすごいこと言ってますよね。終末期医療の全額自己負担、お金がない人は死ねってことですか。こういう政党が議席を伸ばして、本当に背筋が寒くなりました。これってある種の優生思想ですよ。ナチス・ドイツに近い、生活が苦しくなってくると台頭してくる。この状況で左派政党が全然伸びないというのは、左派政党の人たちが苦しみを十分代弁できていない。そこは反省すべきなのかと思います。
もし参政党や国民民主党が政権に参加することになると、社会保障の削減が進むんじゃないかなと思っています。
政府は特に医療介護分野で、子育て世代の少子化対策を充実させるために、医療介護分野を削りましょうとやっています。高齢者世帯と現役世代を競わせ対立させてね。今、給付は高齢者中心で負担は現役世代中心なので、高齢者にもっと負担してもらいましょうということです。
でも高齢者が本当に豊かなんですか。高齢者の貧困率って一般世帯に比べて10%以上も高い、特に女性です。年金が少ない。政府は賃金を上げろとは言うが年金を上げるとは言わない。年金削られて介護保険料とか高齢者医療保険料を天引きする。手取りがどんどん少なくなってます。単身女性の貧困率は40%、日本はOECD(経済協力開発機構)38カ国の中で最悪です。
女性の賃金が低いのが低年金につながる構造的なジェンダー問題があると思います。こんな状況下で生活保護基準を引き下げるなんて、私は生存権の侵害だと強く思います。
社会保障全般にわたって底上げが必要なんです。社会保険料の負担って現役世代にとって非常に重い。引き下げると言いつつ、新たな保険料負担が国民にまた課されることになる。消費税は社会保障のためと言って増税してきた。なのに医療費の負担が増えるのはおかしいと思いませんか。高額療養費の上限を見直すとか、社会保障のためと言うなら、単純に考えて、消費税引き上げたら医療費は無料になるはずじゃないですか。消費増税によって社会保障が充実したとはとても言えないと思います。社会保障はどんどん悪くなる一方です。
平和的生存権が
侵害されている
そもそもなんで社会保障は必要なのか、社会保障の役割とは一体何かということを考えてみたいと思います。日本国憲法の前文、全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から逃れ、平和のうちに生存する権利を有する――平和的生存権と言われるんですけど。私たちは健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有し、その権利を誰が保障するかというと、保障する義務は国にあるって書いてあります。健康で文化的じゃなきゃいけないんです。生きてればいいってわけじゃないですよ。最低限度の生活というと、飢餓じゃない状態を意味するのかと、そうじゃないですよ。
もう一つの論点として平和的生存権、「等しく恐怖と欠乏から逃れ、平和のうちに生存する権利」。何を意味しているかというと、恐怖というのは、戦争とかテロの恐怖だと思うんです。欠乏っていうのはつまり貧困ですよ。平和っていうのはもちろん戦争がない状態なんです。貧困のない状態を意味する、そう解釈されます。つまり戦争はないとしても貧困や格差があって、みんながいがみ合っている社会というのは平和じゃないと思うんです。国や自治体の責任で、どんな状態になっても健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障する。それが社会保障と言われるんです。
政府は助け合いとかよく言っていますけど、それは違う。生命の危機に立たされて貧困にあえいでいる子供たち、家庭内で虐待を受けている子供や女性、自殺に追い込まれそうな女性や小中高生の人たち、その暮らしを守る責任と義務が国や自治体にはあると思います。
「公助」ではなく、国、自治体には責任がある
公的機関の人が足りない。保健所の人員が全然足りない。公務労働というのがどんどん外注化され、さらに非正規に任せていく。国や自治体が責任を放棄しているとしか思えない。「自助、共助、公助」と言い出してます。「自助」という言葉は日本語にもあるんです。「共助」という言葉もないことはないんですが、普通「互助」って言いますよね。
「公助」という言葉は日本語にありません。厚生労働省が作り出した特異な概念です。公が助けてあげるんじゃなくて、英訳でパブリックサポートです。パブリックサポートっていうのは「公的支援」と言うべきです。困った時は国や公が助けてあげるという恩恵的な意味合いではなくて、国や自治体には責任があり、公的責任と言うべきです。
社会保障という言葉はもともと英語から来てて、「ソーシャルセキュリティー」なんです。まさに安全保障の保障じゃないですか。国民の真に生活の安全保障の仕組みなんです。社会保障を公的責任じゃなくて、失業や貧困、障害、病気、さらに新型コロナの感染すらも個人の自己責任に矮小化する。公費負担を減らそうと。こういう考え方は今までの社会保障の歴史を全く無視したような、非歴史的な、非科学的な概念だと私は思っています。
社会保障の主要5制度
日本では社会保障が社会福祉や公衆衛生を含む広い概念で使われています。イギリスでは社会保障はほとんど所得保障で公的扶助を指します。日本では社会保険が中心になっています。
公的扶助
貧困が拡大して、年金だけで暮らしていけないという人にとっては生活保護が最後のセーフティーネット、命綱という役割を果たしていると思います。実際に生活保護を受けている人で働いている人というのは18%ぐらいです。あと82%はもう病気か障害がある、高齢で働けない人たち。半分以上は高齢者です。
公的扶助を受けている人の半分以上が高齢者という国は日本ぐらいなものです。他の先進国では年金が充実している。年金で食べていければ誰も生活保護を受けないでしょう。日本は年金が非常に不十分です。特に女性は少ない。保護基準が引き下げられているので生活していけない。
社会保険
しかも社会保険料や税金もかかる。社会保険は全く収入がなくてもかかってきたりするんですね。国民健康保険料、介護保険料、高期高齢者医療保険料、夫婦であれば連帯納付義務を負う。強制加入の仕組みが取られていて、裁判で争われこれは憲法違反ではないということになっています。強制加入ですから保険料負担が困難な人も当然入らなきゃいけない。社会保険料には減免制度があるんです。ただ、日本ではこれが非常に不十分です。本当は社会保険っていうのは、払えない人から取っちゃいけないと思うんですけど現実に取っています。生活保護は社会保険ではありませんけど、お金でくるのは現金給付。病気やケガに対応するのが医療保険です。医療保険は現物給付で、老齢、障害、病気やケガなどに治療行為そのものを提供します。老齢障害死亡に対応するのは年金保険ですね。老齢年金、障害年金、遺族年金ってあります。労災は業務上の災害とか通勤災害、失業は雇用保険、要介護状態の場合は介護保険、と5つの社会保険があります。
社会福祉
社会福祉は、障害や老齢などの原因によって、社会的支援が必要な人に対する対象者ごとに高齢者福祉、児童福祉、障害者福祉、母子福祉があります。昔は自治体が責任を持ってやっていたんです。ホームヘルパーの派遣とか、特別養護老人ホームの入所っていうのを全部市町村に申し込んでいたんです。それが介護保険になっていわゆる措置から契約になって、全く変えられました。
これまで自治体の責任でサービスを提供していたのを措置制度って言います。これを解体して、認定によって給付資格を認められた要介護者へのサービス費用の助成に変えられました。個人給付方式と言います。利用者の自己決定や選択の尊重と言って、株式会社対応のサービス供給者の参入が促進されました。介護保険が典型的ですけど、民間になって自治体が責任を負わない仕組みになってしまった。自治体がやるのは要介護認定だけです。従来の補助金のような使途制限をなくした。個人給付なので代理受領になり、企業はどんどん参入しやすくなった。企業が入ってくると人件費はなるだけ使わず株主の配当に回そうとする。当然にも労働条件は悪くなります。
社会手当
社会手当というのは児童手当とか、障害者向けの手当があると思います。子ども・子育て支援法というのが改正されて、2026年からこの保険料が取られるわけです。保険料を利用して、「こども誰でも通園制度」というのに保険料が入った介護保険みたいな仕組みにしました。社会福祉の現場の労働条件が悪くなって、人が来なくなって担い手がいなくなる。この流れが加速したのはやっぱりここなんです。介護保険以降のいわゆる措置から契約への流れです。
皆さんの自治体でも公的責任を指定管理者に任せたり、公立保育園を民営化したりすることが起きていると思います。公的責任を福祉の分野で果たせなくなっている。そのことが非常に大きな問題です。公的責任が後退したと言ったほうがよいと思います。この流れが医療費の抑制、公的責任の後退とずっと続いてきて、今あるような社会保障の現状を生み出したんです。
公衆衛生
公衆衛生はWHOの定義に基づいて、一般的には組織化された地域等の努力を通じた疾病の予防、健康権という概念があります。どっちかというと公衆衛生って医療の方で、公衆衛生学として医学の分野で発展してきました。
しかし新型コロナのパンデミックを契機に、やはり感染症患者の医療を受ける権利、個人の健康権を保障する施策として、公衆衛生を社会保障の体系に位置付ける必要があるんじゃないかということになってきています。
公衆衛生の法律っていうのは、典型的には感染症法、それ以外にもいくつかの法律がありますが、やはり日本の社会保障の中心、社会保障給付費のほとんどは社会保険になっています。
社会保障に
税金を投入すべき
本来は社会保障はやっぱり公的責任でやるべきものなんだということです。社会手当は、社会保険と公的扶助と違って、保険料の拠出はなくて、試算調査もありません。だから一番いいんです。ただ、日本では児童手当とか児童扶養手当とか、特別児童扶養手当とかあるんですが、ずっと所得制限が設けられてました。児童手当については、昨年の12月で所得制限がなくなりました。基本的に日本は家族手当という考え方が非常に少なくて、なかなかこの社会手当が発展しません。
日本は社会保険中心の国なんです。社会保険料は逆進性が強いです。所得の低い人ほど保険料負担が大きい。医療もそうです。医療費を抑制する、医療費を削らないと保険料は安くならない。医療費を削らないで保険料を安くするためには何をしたらいいか。税金を投入するしかないんです。そういう内容が今論点になって、税を引き下げるために医療費を削ろうというふうになっている。結局、高額療養費の引き上げみたいに、また自己負担が増えるわけです。
社会保険というのは、リスク分散の仕組みで、病気でない人も病気にかかった人も強制加入なんです。病気になった人が重い負担を負わなきゃいけなくなる矛盾があるので、もう保険料引き下げのためには税金を投入するしかないと思いますよ。病気治療や介護が必要な状態になった人に、負担を押しつけることになるわけです。それだったら社会保険の意味がないんです。
私は本来の仕組み、公的責任で税金を投入すべきだと思います。健康で文化的な最低限の生活を保障するために、お金の心配がないように医療保険ができた。お金の心配をして治療を中断しなきゃいけないというのは、もうどう見ても本末転倒だと思います。ですからやっぱり税を投入するべきじゃないかと思います。ここまでくるともう政治の問題、配分の問題なんです。税の配分ですからそこはもう皆さん方で頑張っていただいて、本当に社会保障のために税を配分する、そういう訴えをしていただければいいなと思っています。