角田義一代表世話人の死を悼む 西澤 清

さようならみんなのホワイトタイガーさん

代表世話人 西澤 清

 「日本には、平和憲法がある」「俺の目の黒いうちは絶対に戦争はさせん」
 広範な国民連合全国代表世話人を角田さんにお願いしたとき、彼は「全国の心ある仲間が俺を必要としてくれるなら」と快く引き受けてくれた。冒頭の言葉は、彼が就任した総会での最初の挨拶である。上州弁で歯切れよく雄弁を振るうさまは、白髪の角田さんをして「ホワイトタイガー」と言わしめた。
 角田さんは、「戦争絶対反対、護憲の人」であった。私と角田さんとの接点は、三つある。


 一つは、戦中派だということ。角田さんは、1937年生まれ、私より1歳上、37年に盧溝橋事件が起こったから、共に戦中派だ。私は東京・王子の生まれだが、角田さんは群馬県赤城村に生まれ、前橋高校から京都大学に進み62年に司法試験に合格、俊才だ。私は王子から群馬県高崎市へ地域疎開、中学3年で東京に帰った。
 45年8月5日、疎開先の高崎で前橋大空襲の真っ赤に燃え上がる空を見た。14日は高崎も空襲、私は敗戦の日を農家の鶏小屋で迎えた。そして戦争被害経験者の私たちを結び付けたのは、「平和憲法の誕生」である。
 私が小学2年のある日、担任の女先生が目を輝かせて教室に入って来た。「日本はもう戦争をしません。戦争放棄の憲法ができたのよ」……その瞬間の「幸せ感」が、その後の私の生き方の根底ある。角田さんとは同年代を生きた者の活動の原点であると思っている。共通点は「戦争反対、平和憲法擁護」であり、「アジアの日本、近隣諸国との友好」はその時に身体に染み込んだ。
 角田さんの政治家としての経歴は73年に群馬県議(社会党)となった時に始まる。89年に参議院議員に当選(社会党)、90年代は、政党再編の時代が続くが、角田さんはいつもそれらの動きをリードした。角田さんは97年に民主党に移籍、彼の政治姿勢は一貫して「護憲」。2007年には参議院副議長に就任した。角田さんは、副議長として参議院と中国の参議院にあたる中国人民政治協商会議との正式交流の協定を結んだことを絶えず口にしていた。それを取り持ったのが当時駐日の中国大使だった現在の王毅中国共産党政治局員・外務大臣(外交部長)で、訪中して再会されることを楽しみにされていたが、もはやかなわない。残念だったろう。
 国会議員を引退してからは群馬県の立憲民主党の代表として、野党統一に腐心した。今回の前橋市長選の勝利は、角田さんの努力の一環が実ったものである。
 角田さんはまた、日本民主教育政治連盟(日政連)のメンバーで会長も務められた。私は、日教組役員として、国会では共に運動を進めた。これが二つ目の接点である。私は、学校五日制の実現、「いじめ」問題などに取り組んだが、「日の丸・君が代」国旗化反対の日教組責任者として、反動勢力と闘いを進めた。最後の段階で、野党、民主党が割れた。その中で、角田さんは最後まで反対した。しかし、角田さんは、日教組に関わる問題以上に、日本政治全般に大きな視点で活躍された。
 三つ目の接点は、「アジア諸国との友好」である。02年、小泉首相(当時)が訪朝し、平壌宣言が結ばれるが、直ちにアメリカから横やりが入り頓挫した。その時安倍晋三は副官房長官で拉致問題を口実にした朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対する激しい攻撃の実質的な主動者であった。
 角田さんは、植民地支配の反省を踏まえて朝鮮との友好を進めるべく、在日朝鮮人と共に平和・友好の運動を進めていた。その象徴的なものが群馬の森に建立された「記憶 反省 そして友好」と「碑銘」が刻まれた朝鮮人労働者の追悼碑だ。行政も含めて統一して建立したことを高く評価した私たちは、外国から来たお客さんを群馬の森に連れて行き説明した。その行政が自ら「追悼碑」を打ち壊す体たらくである。角田さんは群馬県山本知事の暴挙に対して、「人間性を欠いた非情な仕打ちであり恨みが残る」が「全国の有志の力を結集し新たに追悼碑の再建に取り組んでいきたい」と述べている。
 彼は、広範な国民連合代表世話人として、中国との友好に力を入れ、コロナがなく角田さんの体調が許せば、青年を引き連れて団長として訪中する予定であった。残念である。
 ホワイトタイガーは、大事な時期に去ってしまった。角田さんの遺志を生かして、「アジアの平和友好・平和日本の確立」に若者たちに頑張ってもらいたいものである。