東京生まれ。第二次世界大戦時、北海道札幌に疎開。終戦後、東京へ。高校中退後、石川県金沢市香林坊でパン屋を開店するも倒産。大阪で伊ト萬商事に勤めるが、賃金が安く、1962年大型免許を取得し生コンクリートミキサー車運転手となる。労働条件改善のため66年、全自連関西地区生コン支部に加盟。69年同支部副執行委員長に就任。当時、生コン業界は生コン支部に対抗するために同盟労組を育成、低賃金政策を押し付ける。しかし、逆転の時期は生コン支部の運動により早期に実現。業界のリーダー的役割を担う。83年(当時運輸一般)に赤旗の介入により組織分裂。84年全日本建設運輸連帯労働組合結成に参画、85年近畿地方本部を設立、初代執行委員長に就任。この間、南大阪平和人権連帯会議議長を歴任、地域運動に参画する。99年近畿地方本部(現在顧問)関西生コン支部役員を退任。現在、生コン関連協同組合連合会、大阪生コンクリート圧送協同組合の役員を兼務。