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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2002年4月号

サンフランシスコ講和条約
日米安保条約 発効から50年

対米追随を決定づけた4月28日


 一九五二年四月二十八日、対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)と日米安全保障条約が発効してから五十年が経過した。この部分講和によって日本はアジア・沖縄を切り捨て、協定による外国軍の駐留を認めた。戦後の対米追随外交を決定づけた四月二十八日を振り返る。

日本の敗戦、米国による統治

 日本は敗戦後、連合国の名の下に米国に単独占領された。戦後直後の米国は、日本を平和国家化、非軍事化、民主化することを方針としていた。日本国憲法が制定(四七年五月三日施行)され、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(略)陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とする第九条によって、戦争の放棄、戦力の不保持がうたわれた。
 四七年三月、トルーマン米大統領は「共産主義国の脅威にさらされた自由主義国に経済的軍事的援助を行う」と米ソ冷戦時代の到来を宣言。対日政策の再検討が行われる。
 四八年一月、当時の陸軍長官ロイヤルは「日本を全体主義に対する防壁にする」という声明を発表した。四九年十月には中華人民共和国が成立し、五〇年六月には朝鮮戦争が勃発したことで、米国内ではアジア戦略における日本の価値を評価し、日本の再軍備を求める声が強くなった。日本側でもそれに応えるように「戦争放棄は自衛権の放棄を意味しない」という憲法解釈も表れた。そうした中で対日講和が行われた。

米国主導の部分講和

 米国が五〇年十一月に打ち出した対日講和七原則では、米国が提案した条項に賛成する国だけで条約を結べばよいとされている。また、琉球諸島、小笠原諸島を米国の直接占領下におきつづけること、日本に対する再軍備制限条項を設けないこと、講和参加国は対日賠償請求権を放棄することが盛り込まれていた。これらの条件をのみ、最終的に講和に参加したのは、四十九カ国(五一年の締結時)だった。つまり、全面講和ではなく、限られた国々との部分講和となった。
 当時、中国の周恩来外相は声明を発し、米国が提案した対日講和は単独講和を否定したポツダム協定などの国際協定に違反していると批判した(声明要旨別掲)。
 日本国内でも部分的な講和か、全面的な講和かをめぐって国論が二分した。総評、社会党などが中心となって、全面講和を求める運動も起こった。しかし、冷戦の下、西側の中心に立つ米国にすり寄ることで援助を引き出し、戦後復興の手段を得ようという意図が支配層に働き、日本は部分講和を受け入れた。

安保条約による占領・支配

 講和条約では、占領軍のすみやかな撤退をうたいながらも、協定に基づく外国軍隊の駐留を認めた。講和条約締結の同日、日米安保条約が調印され、日本は独立と同時に、米軍駐留を認めた。日米安保条約と同時に結ばれた行政協定(現在の地位協定)は、国会の批准を伴わない政府間の合意であるにもかかわらず、基地の自由使用や基地における米軍の特権、治外法権を認めた。
 日米安保条約が結ばれたことで、現在まで半世紀にわたって米軍が駐留し、日本の政治、経済、社会が規定されてきた。

〈軍事力増強〉
 日米安保条約は日本の軍事力増強を義務づけており、日本国憲法に反する日本の軍事力増強を促進する役割を果たした。朝鮮戦争が始まると米国は、非軍事化というポツダム宣言の占領目的に反して、日本に警察予備隊の創設を命じた。講和条約交渉では、吉田首相に五万人の兵力からなる保安隊の創設を約束させた。日米安保条約発効後の一九五四年、保安隊は自衛隊に発展した。現在、日本は世界二位の軍事費を持っている。

〈対米追随の外交〉
 日米安保条約の下、日本政府は日米基軸を外交の基本方針とし、米政府の意向を優先する自主性のない外交を行ってきた。
 たとえば中国との関係では、中国大陸を実効支配する中華人民共和国政府ではなく、米政府の意向に沿って台湾政府と日華平和条約を締結した。中華人民共和国政府を承認したのは一九七二年だった。
 また、沖縄県が要求している日米地位協定の見直しや海兵隊の撤退についても、要求したり交渉しようとしていない。

〈安保下の経済〉
 米国による経済援助、日本製品への市場開放、また朝鮮戦争特需によって、日本は急速な経済成長をとげた。しかし、七〇年代以降、米国の経常収支は赤字に転落、日米経済摩擦が問題となった。八〇年代には経済摩擦が激化。日本は、鉄鋼や自動車などの輸出自主規制、関税の引き下げ、農畜産物などの市場開放、大店法の規制緩和など、さまざまな譲歩を余儀なくされた。
 さらに、金融や為替などでの対米協調は、日本経済に深刻な打撃を与えた。米国の抱える「双子の赤字」は、米国の高金利に誘われて海外から流入する資金がそれを埋めていた。米国が産業活性化のために金利引き下げをすれば、金利差が縮小しないように日本も協調利下げを行ってきた。超低金利で市場にあふれた資金は、土地や株に向かい、バブル経済を生み、そしてバブル経済がはじけた。一九八九年から九二年の間に、日本の株価総額は四百二十兆円、土地評価額は三百八十兆円、対外資産は八十六兆円も減価した。そして現在、深刻な不況が続いている。

沖縄の切り捨て

 講和条約を受け入れたことは、沖縄を本土から切り離し、国連の信託統治という名で米国の占領下におくことも意味した。沖縄は七二年の本土復帰まで、二十年間にわたって米国の軍政下におかれた。沖縄では、四月二十八日は「屈辱の日」と呼ばれている。
 復帰した後も、日米安保条約が存在により沖縄には米軍基地が集中し、さまざまな被害にさらされている。沖縄本島の面積の一九%、周辺海域五万五千平方キロメートルが米軍に占有され、上空は全て米軍の管制下に置かれている。そのため経済の正常な発展が阻害され、失業率は八・五%(二〇〇二年二月)非常に高い。米軍人・軍属による犯罪事件は、復帰から二〇〇〇年末までに検挙されたものだけで五千六件、なかでも殺人、強盗、放火、婦女暴行などの凶悪犯罪は五百二十七件にのぼる。

アジアの切り捨て

 部分講和はアジアの国々も切り捨てた。対ソ連戦略を優先した米政府は、日本の戦争責任に対して「寛大な」講和を示し、講和参加国の賠償請求権放棄がうたわれた。名古屋大学の佐々木雄太教授によると、「日本が最もひどい戦争被害を与えた朝鮮、中国の代表は招かれなかった。招かれたインドやビルマ、ユーゴスラビアは条件を不満として参加せず、ソ連、ポーランド、チェコ・スロバキアは調印しなかった。フィリピンやインドネシアなどは調印したが、賠償問題に大きな不満を残した」(本誌110号・昨年十月号より)
 敗戦直後米軍に占領され、日本人は「日本はアメリカに負けた」という意識を持たされたこととあわせて、この講和で戦争責任を逃れ、謝罪と補償をうやむやにしたことで、日本人のアジアに対する戦争責任意識を希薄にし、戦前・戦中の民族差別が温存された。そのため、日本はいまだにアジア諸国の信頼を得ることが出来ず、アジアに位置する日本の発展を阻害してる。

今こそ自主・平和・民主の進路を

 サンフランシスコ講和条約、日米安保条約が発効して五十年。沖縄を切り捨て、アジアを切り捨て、国民生活を切り捨ててきた対米追随路線を精算し、アジアに軸足を移した国の進路をうち立てることが必要ではないだろうか。



周恩来・中国外相の声明(一部)
     1951年8月15日

 対日平和条約米国、英国案は、1942年1月1日の連合国宣言、カイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言及び協定、ならびに1947年6月19日の極東委員会で採択された降伏後の対日基本政策など、米国、英国両国政府が署名しているこれら重要な国際協定にいちじるしく違反するものである。
 連合国宣言は、単独で講和してはならないと規定している(※)し、ポツダム協定は『平和条約準備事業』は、敵国の降伏条項に署名した委員会参加諸国によって行われねばならないと規定している。同時に中華人民共和国中央人民政府は、武力を通じて対日作戦に加わった国のすべてが対日講和条約起草の準備事業に加わると主張するソビエト連邦政府の提案をこれまで全面的に支持した。ところが米国は、対日平和条約草案に関する準備事業を米国一国だけで独占し、対日戦に加わった国々のうち、大多数を除外した。更に米国一国で強引に招集し、かつ中華人民共和国を除外する平和会議は、対日単独平和条約の署名を企てている。こういった国際協定に違反する米国政府の動きは、明らかに日本及び日本との戦争状態にある国々の間で結ばれるべき真の全面的平和条約を破壊するものである。 

※ 連合国共同宣言 (2)各政府は、この宣言の署名国政府と協力すること及び敵国と単独の休戦又は講和を行わないことを誓約する。