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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2001年10月号

広範な国民連合・愛知第7回総会記念講演(要旨)

日米同盟の五十年と日本の進路

名古屋大学教授 佐々木雄太


 東アジアにおける安全保障協力について日本は何の役割も果たしてこなかったし、今日もそれを果たす用意はない。日本はなぜ、東アジアにおいて安全保障あるいは経済協力で積極的な役割を果たせなかったか。これは、米国による単独占領、サンフランシスコ講和条約(以下、サ条約)、日米安保条約による日米同盟に起因すると思う。

 初期対日占領政策から逆コースへ

 日本の降伏後、連合国の名の下に米国が単独占領した。米国は対日占領における米国の主導権の確保を基本方針とした。降伏後初期の米国の対日方針には「占領軍は米国の任命する最高司令官の指揮下にあるものとする。主要連合国に意見の不一致を生じたる場合においては、米国の政策に従うものとする」と書かれている。米国が単独占領したことが戦後日本の対外政策の方向を決定づけた。これは二つの意味で言える。一つはやがて日本を西側に組み込み日本を他のアジア諸国から切り離していく。二つ目は日本人の意識に、「日本は太平洋戦争でアメリカに負けた」という意識を植えつけた。それがアジア諸国に対する戦争責任意識を後退させることにつながった。
 降伏後初期の対日方針は、平和国家化、非軍事国家化、民主化が基本だった。日本国憲法がこの方針を象徴し、吉田首相は第九条に関して「自衛権の発動としての戦争も交戦権も放棄した」と明言した。しかし、四八年一月六日、当時の陸軍長官ロイヤルが「日本を全体主義に対する防壁にする」という声明を出し、逆コースが始まった。
 GHQは、逆コースの一環として天皇の戦争責任の免罪をはかった。最高権力者である天皇の戦争責任がぬぐわれたことが、国民の戦争責任意識をいっそう希薄にさせることにつながった。
 五〇年に入ると憲法解釈の変更が出てきた。一月一日にマッカーサーと吉田首相が相ついで「自己防衛の権利を否定しない」とか「戦争放棄は自衛権の放棄を意味しない」と声明を出す。六月に朝鮮戦争が勃発。中国との敵対関係に直面した米国は、アジア戦略における日本の価値を高く評価した。
 こうして日本を西側陣営に組み込み、米国のアジア戦略の基地として利用するために、講和への道が始まっていく。日本はむしろ米軍の駐留を申し入れ、いわゆる「寛大な講和」を受け入れる姿勢を示した。坂本義和さんはこのことを、最近の新聞で「サ条約に関わって日本政府は冷戦の枠組みを自ら固定化した。そのことによって先見性のある政治的構想力を失った」と論じている。
 冷戦は超大国が東西対立を利用しながら中小諸国を支配するという機能を伴っていた。逆に戦争からの再建途上にある中小諸国に、これを利用して超大国の援助を引き出す余地も与える。当時の日本政府は米国ににじり寄ることで戦後復興の手がかりを得た。そうすることで、対外政策における独自性、とりわけアジア外交における独自性を失い、アジア外交の欠如を招いたと言ってよい。

 サ条約と日米安保条約

 サ条約締結の前年、五〇年十一月、米国務省は対日講和七原則を定めた。この中で「(米国によって)提案された条項で講和を結ぶ意図のある国」だけで条約を結ぶといっている。条約の内容は、琉球諸島・小笠原諸島を国連の信託統治という名で米国の直接占領下におく、日本に対する再軍備制限条項を設けない、参加国は日本への賠償請求権を放棄する、などとされた。この条件をのんだ限られた国々との講和だった。
 日本が最もひどい戦争被害を与えた朝鮮、中国の代表は招かれなかった。招かれたインドやビルマ、ユーゴスラビアは条件を不満として参加せず、ソ連、ポーランド、チェコ・スロバキアは調印しなかった。フィリピンやインドネシアなどは調印したが、賠償問題に大きな不満を残した。これがサ条約の第一の特徴。
 第二の特徴は、アメリカ合衆国を小笠原諸島、沖縄の唯一の施政権者にすると規定したこと。ここに沖縄問題の発端がある。
 安保条約はサ条約と一体のものとして論じなければならな。米国の目的は、独立国になった日本との双務的な条約によって連合国という制約から解放され、占領期と同様に日本の基地を使用することだった。
 安保条約とあわせて取り決められた行政協定は、国会の批准を伴わない政府間の合意だった。これに基づいて基地の自由使用や基地における米軍の特権、治外法権が認められた。六〇年に地位協定と名を変えても中身はそっくり継承した。昨今の沖縄の事件が地位協定に発していることはご承知の通りだ。

 戦後日本の対外関係の歪み

 「寛大な講和」と安保条約は、戦後日本の進路を決定づけた。第一に、日本は西側の一員として安保条約を軸にした日米同盟を立国の基盤にした。米国の援助の下で経済再建と国際社会への復帰を実現し、政治・外交・経済の全ての面で対米従属を余儀なくされ、米国の軍事戦略、アジア戦略と一体化された。その下で再軍備を迫られ、基地を提供した。事実上の占領継続であり、それが沖縄に典型的に表れている。
 第二に、日本とアジア諸国の関係再建は米国の冷戦戦略にそって進められた。対日賠償請求権を制限したことはアジア諸国から、軍備制限条項を設けないという規定は、オーストラリアやニュージーランドから強い反発を買った。「寛大な講和」が日本のアジア諸国に対する戦争責任意識を洗い流し、アジア諸国との関係改善を妨げた。社会主義国との関係のみならず、西側諸国との関係にも同様の歪みを残した。
 第三に、ヨーロッパではNATOという多角的安全保障組織ができたが、アジアでは多角的安全保障の仕組みはできていない。アジア諸国の多様性が多角的協力関係を困難にしたといわれるが、もう一つの原因は日本にあった。アジア太平洋諸国は日本を仲間にした一つの安全保障組織を好まなかった。こうして日本はアジア諸国と安全保障の問題を共有する機会を失った。

 新安保条約の特徴

 一九六〇年に改定された安保条約の特徴は、第一に日米の軍事協力について、第五条で日本の施政下にある領域において日米いずれかが武力攻撃を受けた場合に日米双方は共同の行動をとる、と定められた。「それぞれの国の憲法の手続きに従って」と書いてあるが、日本の憲法に米国との共同軍事行動を定めた条項はなく、これは憲法改正を想定していたと考えることもできる。
 第二に旧条約を引きつぎ、第六条で基地の貸与を定めた。これには「日本の安全と極東の平和及び安全に資するため」という条件があった。第六条と関わって、行政協定を継承した地位協定が結ばれ、米軍の特権、基地における治外法権の付与がうたわれた。施設・区域のどこをどれだけ提供するかは政府間合意に委ねられ、国会の批准を要しない条項になってしまった。
 第三に第三条で日本の軍事力増強を義務付けた。

 日本の安保政策の不透明性・欺瞞性

 それ以降の日本の安保政策、日米安保条約の運用について留意すべきことは、不透明性と欺瞞性、嘘とごまかしの積み重ねという問題だ。安保条約の運用によって、憲法や条約の規定と現実の日米軍事協力あるいは米軍による基地使用とのギャップが広がっていった。日本政府はギャップを埋めるのに、嘘とごまかしを積み重ねた。
 第一は、憲法九条の戦力の解釈。五〇年代の「戦力に至らない実力を保持することは違憲ではない」という解釈から始まり、現在では「自衛力の限界はその時々の国際情勢や軍事技術の水準、その他の条件によって変わるので一概に言い切れない。例えば小型核兵器を持つことは憲法上許される。しかし政策として核兵器は保有しない」。軍事技術が発達すれば、小型核兵器も自衛力として保持できるということだ。
 二つ目は極東の問題。極東は当初、「フィリピン以北及び日本の周辺地域であって、中国沿岸や沿海州は含まない。中国大陸、ソ連の領土、北朝鮮、北ベトナム、北千島は極東ではない」。ところが八〇年以来、「極東の安全は極東の周辺から脅かされることがあるから、米軍の行動は極東に限らない」と極東条項は事実上はずされ、さらに安保再定義、ガイドラインで拡大解釈がなされた。
 三つ目は歯止めとしてうたわれた事前協議制。交換公文という異例な形で「米軍の日本への配備並びに軍隊の装備における重大な変更があるとき、及び日本国から行われる戦闘作戦行動の場合には事前協議を行う」と約束された。米軍装備の重大な変更で想定されていたのは核装備。それと日本から戦闘作戦行動が行われる場合は事前協議するという約束。しかし今日まで事前協議は一度も開かれていない。
 四つ目は、日米の共同行動に関する第五条の解釈。安保改定の当時、岸首相は「締約国(米国)や特別密接な関係にある国が武力攻撃された場合であっても、その国にまで出かけていってその国を防衛するという意味における集団的自衛権は憲法上持っていない」と言った。集団的自衛権が認められるとしても、日本の施政下にある領域において日米いずれかが攻撃を受けた場合に限定されるというのが当初の説明だった。ところが、「共同で防衛することについては領土、領海のみならず、自衛のために必要な範囲において周辺海域に及ぶ」と拡大解釈された。周辺とは便利な言葉だ。八一年にはシーレーン防衛という形で自衛隊が対ソ戦略の一部を担う話につながり、明らかに集団的自衛権の行使を想定した多国間軍事演習に自衛隊が参加する事例が頻繁に見られるようになる。国会で追及された防衛庁は、安保条約に基づく日米二国間の演習であり他の同盟諸国はたまたま周辺にいたとごまかし、演習を繰り返してきた。

 沖縄返還協定と日米防衛協力の強化

 七一年に沖縄返還協定が調印された。「核ぬき本土並み」といわれたが、秘密合意議事録では「重大な緊急事態が生じた際における米国政府の必要を日本は理解する」とされた。
 七〇年代末から八〇年代にかけて日米防衛協力が強化された。七六年に新防衛計画の大綱が決定され、七八年に最初の日米防衛協力のためのガイドラインが決定された。
 八〇年代に入ると、米国から役割分担という要求が突きつけられ、八一年五月の鈴木・レーガン首脳会談後の共同声明で「適切な役割分担」がうたわれる。八二年には極東有事の共同研究が着手され、八三年の中曽根・レーガン会談でバードン・シェアリング(防衛負担の分担)を定めた米国の路線に日本が同調、軍事負担要求に次々に応じていった。

 日米経済摩擦と安保「ただ乗り」論

 八〇年代後半、日米経済摩擦が厳しくなり、ジャパン・バッシング、あるいは「安保ただ乗り」と非難された。日本でも「ただ乗りと一国繁栄主義をもうやめよう」と言う人が現れた。日本の経済成長、他方でアメリカ経済の後退が背景にある。もう一つの背景は、冷戦が終わる中で、日本が次の敵かもしれないというアメリカ側から出てきた議論だ。
 「ただ乗り論」には正々堂々と反論すべきだと思う。確かに日本は日米安保体制の下で経済成長した。しかし、米国の経済援助も、日本への市場開放も、戦争特需も、すべて米国の戦略に基づく政策であり、逆に日本はアジア諸国との正常な政治、経済関係を制約されてきた。

 安保「再定義」と二十一世紀の日米同盟

 冷戦後、日米同盟は崩壊するという議論に危機感を持った一人がジョセフ・ナイ。彼をはじめとする人びとのイニシアチブで安保再定義が進み、九六年四月、日米安保共同宣言が発せられ、「日米安保条約が二十一世紀に向けて、アジア太平洋地域において安定的で繁栄した情勢を維持するための基礎であり続けることを再確認」した。共同宣言とこれに基づくガイドラインは安保条約に新しい概念を与えた。
 冷戦下の日米安保条約はアジア太平洋地域における米国の対ソ戦略の大きな柱であり、米国がアジア太平洋地域に軍事プレゼンスを継続する根拠になっていた。米国の対日支配を保障する枠組みでもあった。ところが大前提の対ソ戦略がなくなり、日米安保条約に新しい意義付けを与えなければならなくなった。
 一つは、イデオロギーに基づく日米協力から、国益に基づく協力への衣替えである。日米安保条約に基づいて東アジアに軍事プレゼンスを続けることが米国の利益だと公然と言った。同時に、米国の軍事プレゼンスは東アジアにおける軍事大国の台頭を抑えるふたの役割をするから、アジア諸国の利益でもあると言った。いわゆる「ビンのふた」論で、日本を指している。また、それは日本の国益でもあるはずだと言った。
 当時の外務省条約局長は「米国が撤退したら日本は防衛のために軍事大国化しなくてはならない。そうすれば周辺諸国に脅威となり、アジア諸国との関係を損なう恐れがある。アジア諸国との良好な関係の維持には安保条約の堅持がいい」。軍事大国以外の選択もあり得るのに、それは語らない。こうして米国の言い分をそのまま受け入れた。
 二つ目は、安保条約の第五条と第六条をつきまぜて、適用範囲を拡大した。第五条は日米共同作戦の規定で、日本の施政権の下にある領域で攻撃を受けた場合に限定している。第六条は米軍による日本の基地の使用で、日本の安全及び極東の平和と安全という限定がある。これを「アジア太平洋地域及び日本周辺の事態」に拡大した。日米軍事協力を日本の周辺地域で発生する事態に拡大し、日本周辺事態に対応するために日本の基地を利用できるとした。
 日本周辺とは何か。「地理的概念ではなく、日本の平和と安全に重要な影響を与える事態、事態の性質に着目したものであり、その範囲は時々の国際情勢によって変動しうるもので明確に境界を画す性格のものではない」とされ、自衛隊と米軍との協力は地域を限定せずに拡大される余地が作られた。かつ、自衛隊は後方支援という名で、日本周辺事態に対処するために日米共同の軍事行動をとる。「後方支援」は造語で、rear area activitiesとあるが、別の所ではlogisticsと書いてある。これは兵站の意で、前線の戦闘と不可分だというのが軍事理論家の常識だ。
 再定義を行った背景には、まぎれもなく日米両国の資本の経済的インセンティブ(誘因)が働いている。それとアジア太平洋地域における安全保障の構想が一体に考えられている。もともと共同宣言は大阪APECの直後に発表する予定だった。日米首脳がアジア太平洋地域の経済協力をうたいあげた直後に、日米中軸のアジア太平洋地域の安全保障をうたうというお膳立てだった。日米がアジア太平洋地域において、経済、軍事の両面でリーダーシップを実現する、という意思表示だ。

 むすび

 私の友人にグレン・フックという東アジアの安全保障の専門家がいる。彼はこう問いかけている。冷戦後、アジア太平洋地域で模索されている新秩序の構築に関わって、日本は二つの選択肢に直面している。第一は、軍事大国である米国と共に地域の安全保障秩序における勢力均衡の中心的役割を担うべく、アジア太平洋アイデンティティ(以下、AP)を選択する。第二は、経済大国日本が地域における経済秩序のみならず、政治及び安全保障においても大国としての役割を担うべく東アジアアイデンティティ(以下、EA)を選択する。
 彼はEAを推奨しており、私もこの議論に賛成だが、今の日本には主体的な条件がなく、アジア諸国も今の日本では歓迎しないと思う。EAを選択するには戦争責任、過度な対米従属、外交におけるアジアの軽視、安全保障政策の不透明性などを克服しなくてはならない。
 歴史は意思を持った人間がつくるものだ。政治意思しだいで、この方向を大きく変えることが可能だと思う。東アジアにおける多国間協調と、その中で日本の適正な役割を意識することが重要だ。時間がかかるかもしれないが、長い目で見れば日米同盟はたかだか五十年の歴史にすぎず、これを転換するのはまだ可能だと思う。