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自主・平和・民主のための広範な国民連合
『日本の進路』地方議員版21号(2003年11月発行)

「日本国憲法寸評」
改憲、創憲を斬る

須見正昭 元専修大学講師


 改憲・創憲論議

 いま改憲・創憲論議が行われつつある。小泉総理は結党50周年にむけ、党の改憲案をつくるように指示したし、他方民主党も、論憲から創憲へと、大変な意気込みである。憲法をアメリカの「押しつけ憲法」といっている人もいるが、ふり返ってみると、憲法制定当時は、各政党は勿論のこと、近衛公の「憲法改正草案要綱」、憲法研究会案、学者グループ、或いは地域のグループ案など、数限りない案が準備されている。これらの案は、比較的容易に手に入れることができるから、改めて見直してみるのも一法だろう。
 憲法は、敗戦で新しく制定することを前提としながらも、形の上では大日本帝国憲法の改正という手続きをとった。ところで、日本自由党は「憲法改正要綱」、日本進歩党は「憲法改正案」をつくったのに対し、日本社会党は「新憲法要綱」を、日本共産党は「新憲法草案」としているところに、各政党の考え方がよく出ているといえよう。ところで、とくに進歩党(自由民主党の民主の前身)は、「我党の主張が天皇制護持にあること極めて明白である」としていることをみても、その性格がよくでている。概して言えば、共産党案を除いては、大日本帝国憲法の改正の域を出るものではなく、占領軍の総司令部の意向とは、大きく隔たるものであった。何しろ多くの日本人は、民主主義などというものは、頭の中になかった。ところが、ポツダム宣言の十の後半には「日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし言論、宗教及思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」とある。民主主義も、基本的人権も、全く耳新しい言葉であった。
 私は生まれ落ちると同時に15年戦争につき進んで行く中で、純粋培養された人間であった。自由民権運動や、大正デモクラシーを知ったのは、ずっと後のことである。その時期に「民主主義的傾向の復活強化」といっているのである。それにもかかわらず、いまだに15年戦争への道は一直線で、他に選択の余地はなかったと思いこんでいる人がいる。恐るべきことである。教育と軍隊と、マスコミ対策が、戦争への道の三本柱であった。

 憲法9条と国民の動き

 46年6月から10月まで、衆議院、貴族院で「帝国憲法改正案」が審議されたが、重要課題の一つが9条の審議であった。議員の中には侵略戦争は良くないが、自衛のための軍隊は必要ではないか、という者があった。これに対し吉田首相は、「満州事変、太平洋戦争は、いずれも自衛権の名のもとに行われたものであり、第9条はわが国が好戦国である疑惑、しかも全然根底のない疑惑ともいわれない疑惑を一掃するためのものである」と答えている。
 米国、英国にたいする宣戦の詔書には、中華民国は、日本の真意を理解しないため、戦いになったが、米英は、その中国を支援するだけでなく、経済断交をして日本の生存に重大な脅威を与えた。そこで「今や自存自衛の為けつ然起って一切の障礙を破砕するの外なきなり」といって、宣戦を布告したのである。座して死をまつか、戦って死地を脱却するかの選択だというわけである。
 日本だけではない。戦争をしている国々は、お互いに「正義は我にあり、勝利の女神は、わが頭上に微笑み給う」といっているのである。それは自国民の戦争への協力と、国際世論を味方にとりつけようとの魂胆なのである。そしてできうれば、敵対国民が「ひょっとしたら、自国が間違っているのでは、と戦争に非協力になること」を狙ってのことである。
 「これから侵略戦争を始めるから、悪しからず」などという国は、どこにもない。だから憲法第9条2項で、「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と宣言することで、日本が侵略した近隣諸国の政府や国民に、ほっとした安堵感を与えたのである。国際的に先駆的なものとして、胸を張って言えるような状況ではなかったのである。
 そして、これは他国民に対してだけではなく、私たち日本人にも大きな安心感を与えた。旧軍人の復員や、外地居住引揚者は勿論であるが、内地にいる者も、多くの都市は空襲で廃墟と化していた。その中で敗戦は人々の心に、一体殺生与奪の権をもつ「国家とは何か?」とか、「国民とか個人とは何か?」とか、「天皇の戦争責任は?」という根源的な問いかけをしなければならなかった。「靖国神社でまた会おう」といったカッコよい言葉とは全く反対に、人々の死は無惨であった。原爆による死も悲惨であるが、通常兵器による死も同じであった。そこには人格の尊厳など微塵も無いボロクズのようであった。
 既存の価値体系が崩れ去る中にあって、新たな物差しが必要であった。人々は目から鱗が落ちたように、180度の転換をした。これが時代の流れであった。

 国民の権利と公共の福祉

 公共の福祉についても、ちょっとふれておきたい。福田官房長官は、国民の権利は「公共の福祉に反しない限り」という枠があることを公言した。この問題は憲法制定当時からくすぶり続けているのだが、これは旧帝国憲法時代の「法律ノ定ムル所ニ従イ」とか「法律ノ範囲内ニ於テ」と規定して、法律に従って理路整然と基本的人権を侵害したように、これに代わって公共の福祉をもって来て、一網打尽に国民の権利を押さえ込もうという、古い考え方である。
 日本国憲法の副署に、国務大臣斉藤隆夫の名がある。彼は軍部の急所をついた演説で、軍部の逆鱗にふれ、衆議院議員を除名された経緯がある。自由党の憲法案は、「思想、言論、信教、学問、芸術ノ自由ハ、法律ヲ以テスルモ猥リニ之ヲ制限スルコトヲ得ズ」として、言論暗黒時代を深く受けとめ、憲法に反映させようとしている。憲法19条(思想及び良心の自由)などが、22条(居住、移転及び職業選択の自由など)などと異なり、公共の福祉に反しない限り、という文言がないのは、大きな意思が働いてのことである。憲法担当大臣(当時)の金森徳次郎は、政府草案は、「其内容は恐らく日本に於いて表明せられたる何れの改正案―共産党の分を除いてはいずれの改革案―よりも急進的である」とし、国民主権、戦争放棄、基本的人権、権力の分立など、世界的にみても、画期的な歯切れよい明朗さは、誇るに足る、とのべている。とくに思想及び良心の自由などについては、無条件に絶対的な自由とした理由を、縷々述べている。

 おわりに

 それにしても近年のなりふりかまわぬ反動ぶりには目をみはるしかない。ジュネーブ条約追加議定書を締結するという政府方針は、すっかり陰をひそめ、地方自治体のなかには有事法制の成立をうけて、住民の安全を守ると称して、防災訓練をするところもでてきた。かつて、信濃毎日新聞社の桐生悠々が、「関東防空演習を嗤う」と題して論陣を張ったのは33年(昭和8年)のことである。「帝都上空に敵機を迎え撃つのはすでに敗北である」という警世の一文で、これは後の太平洋戦争で、現実のものとなったが、彼は憲兵隊の強圧によって信濃毎日を去らざるを得なくなった。
 地方分権、国民保護法等々と、言葉だけを横行させ、実態は正反対のことをやっている。民主主義のフリをして、それが通ると思い込んでいる人たちを、のさばり続けさせる手はないと思う。
 「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」のであるが、違憲・合法論が平然とまかり通るのはやりきれない。本籍は日本国憲法体系、現住所は日米安保条約体系というのは、何としても改めたいものである。(広範な国民連合・神奈川 世話人)