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自主・平和・民主のための広範な国民連合
『日本の進路』地方議員版18号(2003年2月発行)
沖縄
1月29日、自民党沖縄振興委員会の野中広務委員長が、党幹事長に辞表を提出したと報じられた。
これは、同26日、沖縄県那覇市において自民党麻生政調会長が、普天間飛行場の移設問題について、「6千億円も7千億円もかけて建設した基地を15年でぶっこわすのでは国民は納得しない」とし、嘉手納基地への統合案の方がのぞましいと発言したことへの反発としての辞表といわれている。
1995年の10・21県民大会を契機に噴出した県民の怒りに対して、日米両政府はこのままでは、沖縄の米軍基地の存続そのものがあやうくなる、ひいては日米安保条約にひびが入ると見て、普天間飛行場移設を打ち出した。96年の暮に出された日米特別行動委員会の最終報告は「嘉手納統合案」、名護市「辺野古陸上案」、同「海上ヘリポート建設案」のうち最良の案として「海上ヘリポート案」を提出し、97年12月21日に行われた基地建設をめぐる初めての市民投票によって拒否されたことは周知のことである。それらが98年の名護市長選や知事選をへて、知事や名護市長の「辺野古受け入れ」になっているのである。
ところが98年の知事選において稲嶺現沖縄県知事はその選挙公約に、新しく建設する辺野古の新基地はその使用を15年に限ることを掲げた。それは、彼の言い分によれば、基地の固定化をさけ、県民の許容の限界ということである。同時にまた、その米軍飛行場は軍共用空港とし、15年後には民間空港として県民の財産にすると主張している。これらはとどのつまり、当時の大田知事が2015年には沖縄の基地を完全に撤去させるという「基地返還アクションプログラム」を掲げていたこととの関連で、県民の反基地感情を考慮し、当面をごまかすためのものとして15年を掲げたものと思われ、「軍民共用」にしても、「軍事基地」を裸のままで持ち出すことには、さすがの保守知事としても抵抗があったのである。
これに対して、日米政府は98年12月28日の閣議決定で「使用期限については国際情勢もあり厳しい問題があるとの認識を有しているが、沖縄県知事及び名護市長から要請がなされたことを重く受け止め、これを米国政府との話し合いの中で取り上げるとともに…」としている。政府の態度は「15年に限ること」は国際情勢があってできないが、せっかく沖縄側がいっているので、話し合いの中で米側にいうだけはいってみようということなのだ。
沖縄県知事が「『15年問題』の解決なしには着工はあり得ない」といっていることに対して日米両政府の態度は一貫して否定的である。そして今回の自民党の政策委任者の「15年問題」の否定によって、自民党内の矛盾が、一挙に表面化することになった。
この「15年問題」は稲嶺沖縄県知事がかかえている爆弾でありいわば自分で自分を追いつめた格好になっている。
米軍のイラク攻撃がいわれる中、基地沖縄は緊張している。市民団体が現地に交流団を派遣したり、戦争反対の座り込みなども行われている。また、海兵隊などによる事件や事故も続発している。県民運動を背景とした基地移設反対闘争を中心に、粘り強い闘いが求められている。