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自主・平和・民主のための広範な国民連合
『日本の進路』地方議員版14号(2002年2月発行)

【資料】「市町村合併をしない矢祭町宣言」
基本的考え方と経緯


 福島県矢祭町は2001年10月31日「市町村合併をしない矢祭町宣言」を町議会で全会一致で可決(地方議員版13号参照)。「平成大合併」に直面している全国の市町村に先駆けて宣言したこの動きは全国から注目を集めた。この波紋の広がりを恐れて、総務省は現地に乗り込んで圧力をかけた。一部マスコミはテレビ等でこの問題をただ交付税欲しさに反対していると矮小化して報道した。
 全国から一躍注目を集めている矢祭町の根本良一町長の基本姿勢と昭和大合併後の経過の概略とを同町が発表している資料をもとに紹介する。(文責 編集部)


市町村合併に対する基本的な考え方(要約)
矢祭町長 根本良一

 国は「市町村合併特例法」を楯に平成17年3月31日までに現在ある3200余の市町村を1000〜800に、更には300にする「平成の大合併」を押し進めようとしている。
 総務省は各県に対し、「合併重点地域」の設定などを推進する指示を出し、県に対する締めつけも強くなっている。
 タイムリミットに向けて圧力は益々強力になることは間違いない。
 最後は、設置勧告を出すことを求めています。「勧告」は法的拘束力を伴わない関与であるが、県が特定市町村を公然と名指しで「合併しなさい」というわけで、これは大変な圧力と言わざるをえない。
 時すでに遅くということにならないよう、この時点で市町村合併に対する町の意思を鮮明にしておく必要がある。
 わが町の進路については、地方自治の本旨に基づき、自己責任のもと意思決定することが何よりも肝要である。
 矢祭町は、以下の理由により、「いかなる市町村とも合併しない」
 県・国等からの風当たりも強く、その他外的圧力も予想されるが、この旗印の下一糸乱れぬ団結を持って「矢祭町」の存続のため邁進していきたい。

   

1.合併より独自の町作りを進めたい。
 わが町は、昭和32年に現在の形で合併以来、他町村に「追いつけ追い越せ」を合言葉に、歴代首長を中心に住民が一致団結して町づくりに励んできた。
 昭和58年に町政を担当して以降、独立・独歩自立できる町づくりを総合計画に基づき実施し、町内のインフラ整備はほぼ終わり、合併しなくとも十分に自立できる町となった。市町村合併によって中途半端のまま終わってしまう方がむしろ心配であり、それよりはこれまでの計画を継続して町づくりを進める方が矢祭町に合った町づくりが出来る。
 財政規模に合った独立・独歩・自立できる町づくりを継続して推進していく考えである。

2.矢祭町は、地理的にみても福島県の最南端にあり、辺境にあることは動かしがたい現実であり、例えどこと合併しても中心にはなり得ず、周辺部になることは間違いない。合併後の地域間格差をもろに受け、中心部から遠くなり過疎化が更に進むことは「昭和の大合併」で証明済である。
 合併によって旧村の村役場は廃止され、当時の中心地域は核を失い経済活動も人的活性化もなく、火が消えたように寂れてしまった。
 地域の意見は反映されず結局は中心地に一極集中が強まることは間違いなく、貧乏くじはいつも末端の町村が引くことになる。
 小さくとも矢祭町として残ったほうが、自治権を行使して将来的にも血の通った行政ができ、町民の福祉増進が図られると考える。

3.矢祭町における市町村合併を語るとき、古傷を蒸し返すようで、辛い思いがする「昭和の大合併」騒動を語らずに避けて通れない。
 旧石井村の住民が賛成と反対に二分され激しく対立し、子どもたちも巻き込んでの血の雨が降らんばかりに激昂し、親戚同士でさえも離反するような事態となり、今もって当時の痼は完全に解消されていない状況にある。二度とそのような轍を踏んではならない。
 今は一日でも早く「昭和の大合併」騒動の痼(しこり)を完全に癒し解消することが肝要である。
 歴史に学び、合併しないことにつきる。



「昭和大合併」時期の矢祭町の動きと「宣言」に至る経過
 1953年(昭和28年)に町村合併促進法が施行され、昭和の大合併が行われた。中央集権を補完するためには、大きな役割を果たしたと思うが、矢祭町における昭和の大合併は、その歴史に翻弄されながらも頑に守り続けた「郷土矢祭」の基本理念があり、他町村の合併とは異質なものがある。

53年 町村合併促進法が施行され、豊里村、高城村、石井村の三村合併が県の原案として示された。しかし、役場の位置等で紛糾。
55年3月31日 突如として石井村全村及び高城村の内、北部大字台宿外三大字は「塙笹原町」と合併し、新たに塙町を構成。豊里村は、高城村の内、大字関岡外二大字と合併し高城村は南北に別れて塙、矢祭に合併。「矢祭村」として発足。
   わずか1年足らずで、塙町に合併したばかりの石井村が塙町より分町し、矢祭村に合併希望。この際に、旧石井村の住民が賛成、反対に二分され激しい対立になる。
56年9月 福島県町村合併調整委員がこの地域は、矢祭村に編入することが適当と境界変更の勧告をしたが、塙町はこれを応諾しなかったため、調停は打切りとなる。
   次いで、福島県知事は当該地域住民の投票により決するよう、塙町選挙管理委員会に投票の請求をするが、塙町選挙管理委員会はこれを拒否。
57年1月10日 福島県知事は総理府自治庁と協議し、関係町村の議会決議により境界変更。(当時自治庁の勧告に基づき関係町村の長及び議長は将来、塙町及び矢祭村の合併の実現に誠意を以て協力するとの申し合わせがあった)―このことが、再び長い第2の矢祭・塙町との合併論争となる。
  2月 両町村長は、合併協議会を組織し、合併を目指すが矢祭村は、村民大会において全員一致、合併協議会に参加しないことを決める。
  3月3日 福島県知事が塙町・矢祭村に対して合併の勧告。
  5月 矢祭村、塙町合併反対につき矢祭村6,013名の内5,715名の連署された陳情書が自治庁に提出される。
 10月 矢祭村、塙町合併問題の処理に関する意見書が議員提案され、総理府自治庁及び福島県知事に対し「議会及び住民の意思を無視し、合併を強力に推進せんとするは、町村合併促進法及び新市町村建設促進法の精神に反する」「此の際、速やかに右合併問題に終止符を附する様切に念願致す」と意見書を出す。
59年1月 矢祭村・塙町合併について「矢祭として存続したいという事を村民が強く要望して居り、村民の意志を曲げることは不可能」と矢祭の意見書を福島県知事に提出、願いは認められ、町村合併問題には終止符が打たれた。
63年1月1日 町制施行により「矢祭町」となる。


「矢祭町宣言」決議に至る最近の動き

2001年
 9月10日 定例議会に市町村合併の問題が提起される。
 9月13日 全員協議会で市町村合併についての勉強会。
10月9日 自治体問題研究所所長池上洋通先生を講師に招き、議員、町民を対象に合併に対する講演を矢祭町議会主催で開催。
10月29日 常任委員会長・副会長会議で総務課長を講師に関係法等の学習会。
10月31日 全員協議会にて「市町村合併をしない矢祭町宣言」の決議を確認。その後、総務課長を講師に議員全員と町執行部を含めて市町村問頻を考える上での関係法等について勉強し、再確認。
   町議会にて8名の議員が登壇し、賛意の討論を行う。同決議は全会一致で可決。