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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2002年5月号

パレスチナ・イスラエル衝突の現地報告

いかに暴力の連鎖を断ち切るか


 四月十二日、国際問題研究協会(武者小路公秀会長)の月例研究会で「パレスチナ・イスラエル衝突の現地報告」が行われた。二月中旬に視察団として現地を訪れた佐々木秀典(衆議院議員)、芝生瑞和(国際問題評論家)の両氏が問題提起を行った。その概要を紹介する。文責編集部。


 ペレス外相とアラファト議長

【佐々木秀典】
 二月十一日に、イスラエルのペレス外相をはじめ、右派や和平派の国会議員と話ができました。イスラエルの方でも大変気をつかっておりました。イスラエル側は「パレスチナがテロを繰り返して、アラファトがテロを止められていない、入植者を守るためにも軍事的な行動はやむを得ない」という主張です。
 十二日に議長府でアラファト議長さんにお会いできました。パレスチナ側は「イスラエルの行動は非人道的で残虐な軍事行動だ、アラファト議長はテロはやめるようにと言っている」という主張です。アラファト議長から、イスラエルとパレスチナに国連の調査団の派遣を要請されました。この提案が国連安保理で出されるたびに、アメリカが反対して実現していない。日本からぜひアメリカに働きかけて、国連調査団を実現するよう要請を受けました。
 民主党の鳩山由起夫氏と社民党の土井党首の親書を、イスラエルのペレス外相とパレスチナのアラファト議長に渡しました。内容は、イスラエルには軍の撤退を、パレスチナにはテロの抑制を、そして双方が暴力の繰り返しを避け和平の話し合いのテーブルにと要請するものです。

【芝生瑞和】
 イスラエルのペレス外相にお会いしたときに、大規模な再占領、軍事行動に踏み切らないでほしいと要請しました。ペレス外相はそれを了承しました。しかし同時に、「アラファト議長に会ったらテロをやめてくれと伝えてほしい」「それが前提として、和平というものがある」と言われました。
 ペレス外相との会談後の夜、爆弾テロの被害者三人の話を聞かされました。かなり衝撃的な話でした。そういう形で、イスラエル側は自分たちの立場をなるべく見せようとしていました。
 翌日、アラファト議長に会いました。その時にペレス外相からの伝言を伝えました。それに対してアラファトは「我々もテロを止めようとしている」と話しました。また「ペレスは、非常にいい人物であるけれども、彼には権限が全くない。シャロンは『権限があるのは私だけで、ペレスは何の権限も持ってない』と言い、ペレスとの会談内容がすべて反故になってしまう」という話をしました。
 いずれにしても、視察団は暴力の連鎖を断ち切り、双方が対話のテーブルにつくよう要請しました。

 深刻な現地の状況

【佐々木】
 翌日は、本当はガザ地区に入って難民キャンプを訪ねたり、立法評議会議長にお会いする予定でしたが、イスラエル軍が軍事行動に入るので危険だということで検問で追い返されました。
 私ども国会議員は三日間しか現地にいませんでしたので、ラムラしか見られませんでした。パレスチナ放送の建物がイスラエル軍の戦車が十両ぐらい来て、爆弾を仕掛けて壊していったという跡も見ました。生々しいものでした。いずれにしても、どうやったら暴力の連鎖が断ち切られるのか、という思いで一杯でした。

【芝生】
 三日目はエルサレムのPLO(パレスチナ解放機構)代表のサリ・ヌセーベという人に会いました。この人物は将来的には指導者の一人になるといわれており、イスラエルの反戦勢力とも近い人でエルサレム大学の学長です。
 議員がお帰りになった後、無理矢理ガザに入って、さらに西岸でもいろんなところを回りまして、結局その後一週間ほど滞在しました。その間も爆撃が始まったりして、一時は脱出できなくなりました。
 一九九三年のオスロ合意以降、日本も含めて世界中から多額な経済援助がパレスチナ自治政府に対して行われました。ところが、今回のイスラエルの軍事行動で至るところで破壊されています。日本が支援した放送局は完全に破壊されていました。また、日本のODAで建設されたエリコ病院、ガザ国際空港など破壊されていました。これも非常に大きな問題です。
 視察団が帰国した後、現在は、非常に厳しい状況になっています。何千人も死んでいるでしょう。いま千八百人が死亡したといわれていますが、報道機関がシャットアウトされていますから、実際の状況がわからない、きわめて厳しい状況があります。第五次中東戦争という可能性もあります。
 赤十字にあたる現地の赤新月社の報告によると、イスラエル軍は、救急車や救急隊員、病院も攻撃しており、医療関係だけで百四十人が死傷しているといわれています。こうした事態は、明らかなジュネーブ協定違反であり、人道上の罪です。国際赤十字は何度も指摘していますが、イスラエル側は応じていないという状況です。
 二月十六日、テルアビブで行われたイスラエル市民による反戦デモに参加しました。一万五千人以上の非常に大きな反戦デモでした。年配の男性の「占領は我々みんなを殺している。パレスチナ人もイスラエル人も」という発言には感動しました。占領地での兵役を拒否する兵士も発言しました。占領地での兵役を拒否した人が三百人に達したそうです。また、この集会でサリ・ヌセーベが壇上に立って、集会の主催をしたユダヤ人との間に結ばれた協定(暴力の停止、交渉の再開、西岸とガザからのイスラエル軍撤退・ユダヤ人入植地の撤去、二つの国の平和的共存)が読み上げられました。非常に象徴的な出来事です。普通のイスラエルの市民が、そういう主張をパレスチナのPLOの主導者から初めて聞いた。しかもヘブライ語でしたから非常に真剣な顔で聞いていました。イスラエルの中にも、そういう動きが出てきています。
 パレスチナでは、オスロ合意以降、パレスチナ自治政府の一部に汚職の噂があったり、経済状態も改善されず、アラファトの人気が落ちつつありました。それと反比例して、ハマスとかイスラムジハードの人気が上がっていた。それが今度のイスラエルの軍事攻撃、監禁状態というなかで、アラファトの支持率は八一%と高くなりました。同時に、ハマスやイスラムジハードに対する支持も高い。一般の人に聞くと、七〇%ぐらいはハマスを支持している。さらに、自爆テロの人たちを殉教者、英雄と思う人が七、八〇%という現実があります。暴力の連鎖を断ち切る上で大きな問題だと思います。
 一方、イスラエルの方のシャロンの支持率は下がってきましたが、それでも五〇%を超えています。先ほどの反戦運動というのが、高まってきているという面が一方でありながら、国民一般の雰囲気としては、ともかくアラファトはけしからん、アラファトは抹殺しろ、追放しろ、それぐらいまでのことを考えているのが七〇%ぐらいいると、そういう状況があります。

 土地と平和の交換

【芝生】
 和平を考える上でオセロ合意の考え方は重要だと思います。一九六七年の第三次中東戦争でイスラエルが大勝利し、ヨルダン川西岸とガザ地区を占領しました。六七年の戦争が終わったときに、ポーランド系ユダヤ人のアイザック・ドイチャーという人が、イスラエルがこれから唯一生き残れる道は、占領したヨルダン川西岸とガザ地区をアラブ側に返して和平をすることだと発言しました。「土地と平和の交換」という考え方です。
 この考え方がオスロ合意として結ばれたのが九三年です。それまでいろんな紆余曲折がありました。この六七年の戦争の少し前からPLOのファタハなどが武装闘争してきて、レバノンに大変な根拠地を作った。この根拠地をぶっつぶすために、イスラエルがレバノンに侵略したのが一九八二年です。このときに、大変な虐殺が起こり、何千人が死んでいます。この虐殺を実際に行ったのはレバノンのキリスト教の民兵ですが、それをやらせたのはイスラエル軍で、当時のシャロン国防大臣です。
 一九九一年の湾岸戦争で、アメリカはアラファトがサダム・フセインの肩を持ったとアラファトを批判。その結果、湾岸戦争後、PLOは再び大変孤立しました。それを切り開くことになったのが九一年十月のマドリード会議です。そこでアメリカの仲介で和平会議を進めた。このマドリード会議というのがあって、九三年にオスロ合意が結ばれたわけです。その基盤になったのが「土地と平和の交換」という考え方です。

 オスロ合意以降

【芝生】
 一九九三年のオスロ合意ではパレスチナの自立、独立は前提にしていましたが、パレスチナ人の帰還権の問題とエルサレム問題は棚上げにされました。そういう妥協の余地、あいまいさがあったから、オスロ合意は成立したんです。そのあいまいさが仇になってきた。つまり、あいまいさを両方が、とりわけイスラエルが踏みにじってきました。
 シャロンは、ずっとオスロ合意に反対でした。シャロンが組織したデモや集会に行くと、「絶対にパレスチナに土地を渡してはいけない、オスロ合意反対」を言っていました。一方、パレスチナのハマスやジハードもオスロ合意に反対でした。
 オスロ合意後、和平を進めていたイスラエルのラビン首相が一九九五年十一月にイスラエルの過激派によって暗殺されました。これは和平にとって一番大きな打撃になりました。それ以降、オスロ合意を無視するイスラエルのゴリ押し的な行動が続き、パレスチナ人には耐えられないものがずっと続きました。その中で、今ほど頻繁ではないけれども、ハマスやイスラムジハードによるテロ事件がイスラエルに対して起こっていた。だからイスラエルの人たちも、なぜ和平を結んだのにまだ攻撃されるのか、そういう不満がだんだん高まっていきました。
 二〇〇〇年九月、シャロン現首相(当時野党)が、東エルサレムにある神殿の丘と呼ばれるイスラム教の聖地を約千人のイスラエル兵士に守られて強引に訪問した。これが今回の暴力の連鎖のすべてのきっかけになっています。さらに昨年三月に首相になったシャロンの対パレスチナ政策は、たびたびパレスチナ自治区に軍事侵攻し一時的に占領するなどパレスチナ民衆の怒りに火をつけ、憎悪をかきたてたため、インティファーダ(民衆蜂起)も強まりました。

 アメリカや日本の動き

【芝生】
 シャロン政権になって、今回のような事態が起こることが分かっていながら、ブッシュ政権はイスラエルの肩を持ち続けました。いまブッシュ大統領が一番やりたいことはイラクを攻撃することです。しかし、アラブ諸国の支持を得ることができない事態に直面しています。

【佐々木】
 四月十一日と十二日に、衆参本会議で「パレスチナ紛争の即時停止と対話の再開を求める決議案」が採択されました。決議は「我々はイスラエル軍のパレスチナ自治区からの早期全面撤退と軍事行動の即時停止を強く要請する」という内容です。これは重要な決議で、日本政府は和平のために積極的に努力すべきです。
 また、日本パレスチナ友好議員連盟を、もう一度立ち上げようと思っています。友好議員連盟としてイスラエル・パレスチナを訪ねるような行動をできればと思っています。

【芝生】
 アメリカの議会では、日本の国会決議の内容では絶対に通りません。アメリカでは、イスラエル支持の世論が非常に強い。アメリカ人の中にあるユダヤ人に対する共感は非常に特殊なもので、第二次世界大戦の頃からあると思います。アメリカ国内のユダヤ人の人数が多く(イスラエルのユダヤ人四百九十万人、アメリカ国内にユダヤ人五百七十万人)、さらに、ユダヤ人のロビー活動が非常に強い。とくに九・一一以降、テロという絶え間ないテレビの洪水にさらされ続けて、一般の民衆は客観的にものが見えなくなっています。
 九・一一以降、アメリカの反戦勢力が反戦集会をやっても報道されませんでした。最近は、かなり大きな反戦デモが起こりつつあり、新聞もだんだん報道するようになりました。しかし、すでにテレビによって頭の中に作られている情報・知識を払しょくできていません。
 国会決議をしたわけですから、日本政府が和平実現に行動するよう働きかける必要があります。NGOによる非暴力の抵抗運動という催し物が六月には現地で準備されているようです。パレスチナ民衆とイスラエル民衆の対話の動きを私たちは支持し、できる限りの協力をしたいと考えています。それぞれができることをやる必要があります。

【オスロ合意】ノルウェーのオスロでの秘密交渉をへて、1993年9月にイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)が調印したヨルダン川西岸とガザ地区でパレスチナ暫定自治に関する合意。パレスチナ国家建設や国連決議の完全実施など明記されていない弱点がある。94年5月にガザとエリコで先行自治が始まり、95年9月に自治地域拡大で合意、96年1月にパレスチナ自治選挙も実施。しかし95年11月、イスラエル過激派が和平を進めていたラビン首相を暗殺。自治期限は99年5月に終了したが、エルサレムの帰属やパレスチナ難民の帰還問題などの交渉がまとまらず、暫定自治は事実上延長されている。オスロ合意を否定するシャロン政権誕生で交渉は暗礁に。

パレスチナの状況に対する緊急人道的対処の要請(要旨)

(1)イスラエルのシャロン首相に対し、(1)早期全面撤退と軍事行動の即時停止、(2)傷病者および官民の衛生要員の保護など国際人道法の遵守、(3)1967年の占領地の全面返還――を強く求めること。
(2)パレスチナに対する最大の経済援助国である日本の立場から、(1)イスラエル軍の武力攻撃に起因する援助対象施設の破損状況を把握した上で、シャロン政権に厳重抗議すること。(2)その設置主体がイスラエルに対し補償を求めるよう助言すること。
(3) 安保理事会、パレスチナ難民救済事業機関、人権高等弁務官など国連諸機関および国際赤十字委員会等に対し、(1)人道に反するイスラエルの行為を停止させる、さらなる努力を求めるとともに、(2)イスラエルによる非人道的行為について、調査および監視を行うよう求めること。
(4)イスラエルが以上の諸問題について誠意ある対応をしない場合、わが国政府は、国際協調を基本にイスラエルに対する制裁措置をとるよう諸外国と協議すること。
2002年4月19日
  日本パレスチナ医療協会代表     芝生瑞和
             運営委員長 奈良本英佑
内閣総理大臣 小泉純一郎殿


視察団報告など日本パレスチナ医療協会の情報は
http://www1.ttcn.ne.jp/~jpma/