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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2002年?月号
日本は、柳条湖事件から盧溝橋事件を経て、中国に対する侵略戦争を公然と開始し、侵略先における労働力確保と逼迫する国内の戦時労働力不足に対応するため労働力の調達を開始し、やがては戦時俘虜の強制連行に至った。
日本国内に強制連行された中国人の総数三万八千九百三十五人中、秋田県北秋田郡花岡町(現大館市花岡)の鹿島組花岡出張所に強制連行された中国人は、九百八十六名であり、連行途中の七名も含め、その約四二%に当たる四百十九名が死亡した。これは厳寒の地にあっても寒さと飢えを凌ぐには程遠い衣食住しか供されないばかりか、極度に劣悪な衛生状況の下、限界を超えた苛酷な労働を強い、あまつさえ補導員からは筆舌に尽くし難い虐待と凌虐の限りを尽くされた結果にほかならない。
このような想像を絶する虐待に耐えかねた中国人らは、人間の尊厳を守るために、一九四五年六月三十日夜一斉に蜂起し逃走したが、蜂起の翌日には延べ二万四千人を超す憲兵、警察官、自警団らによって捕らえられ、花岡町の共楽館前にひざまずかされ、三日三晩、飲食物を与えられることもなく、連日三十度を超える炎天下の日差しに晒され、百余名が亡くなった。
花岡事件は、報道管制による情報操作や、地元にとっては「負の遺産」であり、語られないことが通例となっていったが、一九四九年、地元の朝鮮人連盟に属する二名が、中国人の遺骨が散乱しているのを発見、これを契機に、中国人強制連行が全国的にも知られるようになり、五三年、総評、日本仏教連合会等の国民運動の結果、遺骨の送還が決定した。
この後、一九六〇年に再度遺体が発見され、六三年六月には九日間にわたり、全国に呼びかけた「一鍬運動」を展開。五百名を超す平和民主団体からの参加者の手で、十二箱の遺骨を収拾した。この時、中国殉難烈士慰霊之碑が建立され、現在もその碑の前で大館市主催の慰霊式が毎年実施されている。
そして、一九六六年には、全国に呼びかけ、労働組合等の団体が訪問によるカンパ活動を展開し、市民運動の結晶として、「日中不再戦友好碑」を現場の中山寮を見下ろす小高い丘の上に建立した。
花岡事件は、一九八五年の行政が主催する大規模な慰霊式により改めて脚光を浴び、次々と中国国内で生存者遺族が発見され、労働組合や市民から成る現地実行委員会が毎年開催する一連の六・三〇の現地行動に参加し、市主催の慰霊式にも参列。多くの市民と交流を積み重ねて来たが、発生後五十五年を経て、生存者遺族と直接的加害者である鹿島との間で、強制連行された九百八十六名全員を対象にした、基金設置による補償を基調とした歴史的和解を迎えた。
いま、歴史認識を曲解しようとする動きが顕著になってきており、地元にも相変わらず暗い過去としてこの事件に背を向けようとする風潮は根強い。こうした中、私たちは、国内では数少ない「侵略戦争の加害者の側からの平和運動」として、これらの出来事を伝え、積極的に平和を希求して行くことを訴え続けるために、「花岡平和記念館」の建設を目指している。四月十七日には、そのためのNPO法人の結成総会を開催した。今後も花岡事件の現地で、会館建設の実現に向け、全国の皆さんのご支援ご協力を強く訴え続けて行きたい。